7 魔法の泉①
「なんでこんな事に……」
アシュラフはこんなにも頭が働かなくなる衝撃を受けたのは初めてだった。父のザフラ王が突然斬りつけられた時も、黄銅の水差しから魔神が出てきた時も、空飛ぶ黒檀の馬が本当に存在した時も驚いたが、今は途方に暮れていると言った方が正しい。
アシュラフはあまりの出来事に成す術もなく、己の無力さに打ちのめされていた。
縄の先が手首に浅く突き刺さる。無理矢理に縄を引っ張られアシュラフは歩かされている。暑さで乾ききった昼の屋外で軽装など、正気ではない。だがアシュラフは準備をしてここに来た訳ではないし、望んで囚われた訳でもない。
自分の従者が暑さに疲れて見えないのがなんだか憎たらしい。それでもスィラージュは心細げな表情で歩いている。ふう、と嘆息する魔神の所作がいつにも増して、どこか――か弱そうに見えるのは何故だろうか。アシュラフは既にこさえていた眉間のしわをより深くした。
「なんで、こんな事に……!」
口にしても仕方のない事を、アシュラフはもう一度繰り返した。
奥歯を噛みしめたアシュラフに、スィラージュは不安げな瞳を向けた。
事の起こりは、カリムという元盗賊の少年の話だった。
「思い出したんす」
少年はただでさえ細い目を更に細くして顔にしわを寄せた。真面目な顔のつもりなのだ。
アシュラフが王宮で働かせると決めた孤児の少年たちは、周囲の想像以上にきちんと仕事をこなした。それでも気むずかしい大人たちに囲まれるよりはいいのか、彼らは自由な時間にアシュラフを見かけると声をかける。
今もアシュラフのよく訪れる憩いの間に、ふかふかのクッションを抱きしめたカリムと、つまらなそうなレザーがいる。
アシュラフはレザーが持っていた“腕輪の魔神”の事が気になっていた。その腕輪は、今はアシュラフが自室の小箱にしまって管理している。腕輪の中身が出てくる事はしばらくなさそうだ。彼女はその入手経路を少年たちに訊ねたが、彼らは思い出せなかった。
そうしてある時、カリムは記憶がよみがえった事を宣言した。
「あれはザフラの街の外、崖下からも離れた場所にある洞窟で手に入れたものだって話……を聞きました」
「面白そうだと思ったんだよ。話半分だったけどな。ただの腕輪だったとしても、フツーに金になりそうだったし」
話を継ぐレザー。アシュラフは彼らが盗みに入った屋敷で“魔神”の宿る腕輪の話を耳にしたと見当づける。当然褒められた行動ではないが、興味をそそられた物を持ち出したくなる気持ちは分からないでもない。魔神の封じられた腕輪と聞けば、アシュラフでもちょっと手にしたくなったかもしれない。
「その洞窟の話を、他には?」
「行ったことはないけど、たぶんそこだろうなって場所は分かるっすよ。おいらたち、崖下なら住み処のあるところ以外もちょっと詳しいんす」
得意気なカリムは胸をはる。
ザフラは小さな国とはいえ、都だけが領土ではない。王宮のある城下ほど栄えてはいないが、幾つかの小さな町や漁村を版図の内に持つ。
アシュラフはザフラの城下町以外に足を運んだ事がほとんどない。以前父を追って訪れたガンナーム帝国が初めての異国だった。カリムたちが城下の外に詳しいのは、アシュラフも知らない他所の町に足を踏み入れた事があるからか。僅な羨ましさがアシュラフの内側に生まれるが、今の論点はそこにはない。
「まさかとは思うが、その洞窟には他にも……」
アシュラフが気がかりなのは“封じられた魔神”。お伽話ではないが――秘密の符丁で閉ざされた洞窟の中には山ほどの財宝があって、そのうちの一つが魔神の封じられた腕輪だったのではないか。もしアシュラフの仮説が正しければ、その洞窟にはまだ他にも魔神の封じられた何かが眠っているのではないか。
「シュラ様は、封印された魔神の事が気になるんですか?」
あっさりとスィラージュに言い当てられ、アシュラフは視線を逸らす。
「魔神がというより、それを利用しようとする者がいないか気がかりなんだ。あれだけの強い力を持つんだ、おかしな事に使われてはたまらない」
元“ザフラの明星”にわざわざ話を聞いたのも、他に封じられた魔神を知っているならアシュラフはその目で確認したいからだ。
先日の腕輪の魔神の被害は、結果的には大した事はなかった。スィラージュより格下の魔術の使い手だったようだが、それでも天候を操るなどと普通の人間には出来やしない。世界には人間にも魔術を使える者もいるというが、魔神は人間よりも長寿で人の理が通じない事もある。魔神相手には警戒をすべきだとアシュラフは考えている。
とりわけ封じられた魔神は、魔神たちの世界で自由に暮らす者よりも人間の影響を受けやすい。スィラージュのように主となった者の願い――あるいは命令――を叶えなければならず、その主が悪しき事に魔神の力を利用すれば、事は大きくなる。
例えば他国を侵略する為に魔神の力を借りれば、大勢の兵を使うより話は簡単だ。アシュラフは封じられた魔神の番人になるつもりはないが、彼らの力を見張る必要があるのではないかとすら思えた。
隣にいるスィラージュを思うとアシュラフは一通りではない気持ちになる。この、普段は人の振りをした魔神の少年は――あまりにも、人間らしい。
アシュラフの就寝の時にはスィラージュも休み、食事を共にする。アシュラフと同じ神の教えを信じる良き魔神だと自称する。退屈そうな顔をしたり、笑ったり、拗ねたり、怒ったり、まるきり普通の十代の男だ。
自分とは違うと割りきっていてもアシュラフは、スィラージュを時々ただの子どものように思ってしまう。
だが、それでも天候を操る腕輪の魔神を一声で黙らせるような、圧倒的なちからを持つ。
(魔神とは、なんなのだろう)
小綺麗な見た目が時に人の目を奪う、水差しの魔神スィラージュ。人に擬態した今はただの子ども。アシュラフと目が合うと不思議そうに目をしばたいて、にっこりと笑う。
アシュラフはまだ、魔神の事を何も知らない。見た事があるのも、スィラージュと先日の腕輪の魔神だけ。本当は彼らの事をもっと知るべきではないのか。そもそも彼らはどうして封印されてしまったのか――。
どんどんと考え込むアシュラフに、スィラージュは微笑んだまま何も言わなかったが、カリムはある事を思いついた。
「洞窟行くんなら、おいらたちも行くー!」
遊びに誘われたかのように楽しげにカリムは手をあげた。相棒が自分も数に入れていると気づき、レザーは横目でカリムを見たが黙っていた。
「別に行くとは言っていない」
アシュラフは否定したが、「もちろん私も行きますよ!」と対抗心を燃やすスィラージュものり気だ。レザーも特に反対しない。
何と言ったらよいのかアシュラフが悩んでいると、
「いいや。お前たちは留守番だ」
他所から助け船が来た。
「ぎえっ、隊長っ」
その男の登場に、細い目を見開いて飛び上がったのはカリムだ。あまり動じてないとはいえレザーも居心地が悪そうだ。
「ウマル」
この二人は今、盗賊という仕事をやめ、ウマルの下で働いている。
ウマル・アズハルはザフラの将軍ハーフィド・アズハルの一番上の息子で、彼もまた父と同じく軍属、将軍の右腕と呼ばれるほどの剣の腕を持つ男だ。アシュラフもウマルの事はよく知っており、頼りにしている。だからこそレザーやカリムをこの将軍の息子に預けたのだ。
日によく焼けて浅黒いほどの褐色の肌、近衛兵の証しである金の縁取りのある黒い帽子を被った男は上背もあり、堂々としていて立派であった。
「姫様も。この間あんな騒ぎになったのですから、外出は控えてもらいますと言ったはずですよ」
ウマルは真面目ではあるが、おおらかさもあわせ持つ穏やかな男だ。そんなウマルでもお小言を言いたくなるのが、腕輪の魔神の騒ぎだ。
あの城下での騒ぎは、民に魔神の存在を知らしめてしまった。今はまだ王家の人間が関わっているとは思われていないが、様々な噂が行き交い、ザフラは魔神によって守られているのではと民は話している。
民をこれ以上困惑させるなとウマルは言いたいのだ。
「だからわたしは行くとは言ってない……」
アシュラフも本音では洞窟に行ってみたい。しかし自分の身分が気軽な一人歩きを許さないと、よく分かっている。アシュラフが前回血をにじませた傷口も、スィラージュの魔術で今は閉じられているが、また傷が開いてはかなわない。アシュラフは大人しくするしかないのだ。
そんなアシュラフの辛抱が続いたのも数日でしかなかった。
いくら王女とはいえアシュラフが王宮で許された行為は少ない。政治に口出しなど出来ず、大人たちに必要とされていなかった。せめて将来の為と書を読み、剣の鍛練をしてみてもアシュラフの気持ちは晴れない。それどころか王女が剣を振り回す姿に眉をひそめる者までいる。実際、ただ父を待つだけの王宮はアシュラフにとって居心地のいい場所ではなかった。何か目的でもあればよいが、明確なものはない。
アシュラフは何も出来ない自分と向き合えるほど大人ではなかった。ただ待っているだけというのも性に合わない。そして、この頃からアシュラフの中で生まれ始めた考えが、煙のように彼女を取り巻いていた。
「城下から離れるとなると……また新しいやり方で居留守を使わねばならんな」
城下町より距離が離れた地に行きたいのだ。アシュラフは軽々しく馬を借りる事も出来ない。面倒だと息を吐いた。
自室から窓の外を眺めればザフラの町が見下ろせる。そのずっと奥の広大な地平線も。鳥のように翼を広げてすぐにでも飛んでいけたらよかった。アシュラフは己のちっぽけさと外の世界の広さに嫌気がさした。
「お出掛けですか?」
ひとりごとのようなアシュラフのつぶやきに嬉しそうにしたのはスィラージュだ。なんの気はなしに彼を振り向くと、茶色の瞳を輝かせた魔神がいる。
(やっぱり、犬……)
外出の気配に気づき、尻尾を振って飼い主の足にまとわりつく犬を想像したアシュラフ。その事でこのスィラージュを置いていきたい気持ちにもなったが、魔神の力を借りずに王宮を抜け出せる気がしない。
「そう出来たらいいんだが……。例の洞窟が気になって。ほら、カリムが言っていた」
「ああ、実は私も気になっているんですよね」
「しかしなかなか王宮を出られないからな」
またため息をつきそうになったアシュラフに、
「じゃあ、覗くだけ覗いてみます?」
スィラージュは事もなげに告げた。
「は?」
「“シャマルダルの宝”って知ってます?」
案内したいところがある、とスィラージュはアシュラフに部屋を出るよう言った。
中庭を横切り城壁近くへとスィラージュは進む。
アシュラフは馴染みのない言葉を聞かされ、しばし考えこむがやはり心当たりはない。その無言を否定と受け取ったスィラージュは、しかしすぐには説明をしなかった。
「私もまさかとは思ったのですが、そのうちの一つがこの王宮の物置にあったんですよ」
物置と言うと、スィラージュの水差しが放置されていた場所でもある。幼いアシュラフが初めて魔神の入った水差しを見かけたのは、宝物庫でなく物置だった。
スィラージュの封じられていた黄銅の水差しは細かな模様が刻みこまれているが、さしたる珍しさもない。中に魔神が封印されていなければ物置にあってもおかしくない代物だった。だが今度はシャマルダルの“宝”という名前を持っている。アシュラフには、そんな大層なものが物置にあるとは思えない。
「それはどんな宝なんだ? 洞窟の話と、どうつながるんだ」
「それは見てのお楽しみー」
怪訝な顔のアシュラフに、スィラージュはいいものは最後まで取っておかねばと思っているような笑みを浮かべた。
スィラージュは順に説明をはじめる。
シャマルダルの宝と呼ばれるものは四つあり、そのどれもが特別な力を持っている。その四つとは――指輪に、剣に、地球儀に、壷だ。
シャマルダルの指輪には魔神が住んでおり、持ち主の願いを叶える。シャマルダルの剣は、持てばどんな武勇に優れた者も打ち倒す事が出来る。シャマルダルの地球儀は望む地を間近に眺められる。そしてシャマルダルの壷は中にコール粉が入っており、目の周りに塗ると遠方の景色も、箱の中身であっても望むものは何でも見られるようになる。
ここまで説明されて、アシュラフにもやっと分かった。スィラージュは後半の二つ、シャマルダルの地球儀か壷があれば王宮に居ながらにして他所に行けるというのだ。
物置の前に着いて、アシュラフは不思議な気持ちになった。
ある意味でここは始まりの地。アシュラフが初めて、まともにスィラージュと会った場所。ガンナーム帝国の男たちと対峙した場所。恐らくアシュラフが生まれて初めて死を覚悟した場所。
アシュラフの内心など知らぬため無理もないが、スィラージュはさっさと物置の中に入り込んだ。
あの記憶を辿っても、感慨深い思い出でもない。アシュラフもスィラージュに少し遅れて物置に入る。その間にもスィラージュはごそごそと物置の中を漁っていた。
半分近くは“シャマルダルの宝”などないのではないかと思っていたアシュラフは、スィラージュが顔の前に何かをつきてきたので驚いた。
その地球儀は、一見“宝”には思えなかった。スィラージュの水差しの時と同じだ。
「これがシャマルダルの地球儀です」
スィラージュは、この地球儀で見たい場所の風景が間近に見られると言った。もしそれが真実なら、何故そんな特殊なものがこんな物置にあるのだろうか。アシュラフは眉を寄せた。
「この王宮の物置はどうなってるんだ?」
「魔神や魔術的なものに興味があった王様でもいたんですかねえ」
アシュラフもそれが可能性としては一番あり得そうだと思った。
「お前は知らないのか。……我が国には古くからいるようだが」
スィラージュがいつからザフラに滞在するようになったのかアシュラフは知らない。
「うーん、分からないです。私、ザフラに来てからはあんまり外に出ませんでしたから」
彼がザフラ王国に来てからだけでなく、それ以前の事もアシュラフにとって未知のもの。
「……お前はどうしてザフラに来たんだ? それに……お前は」
アシュラフはスィラージュの事をほとんど何も知らない。スィラージュには聞きたい事がたくさんある。だが――その質問すべてを口にしたら、もしすべてを教えられたら、アシュラフはスィラージュを手放せなくなるような気がした。
今のアシュラフとスィラージュの関係性は、友人というには少しずれていて、主と従者というには解消が約束されている、不安定で奇妙なもの。もしスィラージュの住み処である水差しを誰かが手にすると、アシュラフはスィラージュと離れる事になるだろう。
アシュラフはこの件を真剣に考えなければならない。しかしそれはアシュラフにとって何故か気が進まないものになっていた。
「ザフラに来たの、昔過ぎて何でかなんて忘れちゃいましたー」
アシュラフが途中で黙りこんだので待っていたスィラージュだが、結局最初の方の問いに返事をした。
気軽に言ったスィラージュが、本当に過去を思い出せないのか、アシュラフには疑わしく思えた。この少年の姿をした魔神は、見た目や言動以上に含みがあるような時がある。とぼけているだけなのでは、とアシュラフは感じるのだ。
同時に、安心している自分にアシュラフは気づいていた。何かを知る事で、何かが変わってしまうのが嫌なのかもしれない。弱気になっているようにも思えて、アシュラフは少し自分に腹が立ったが、そうでなくともスィラージュがまともに返事をしてくれる気もしなかった。
話を元に戻そうと、アシュラフは顎を少し持ち上げる。
「ところで、その“シャマルダルの地球儀”で、例の洞窟を探すんじゃなかったのか」
「そうでしたね」
言って、二人はアシュラフの自室に戻った。
果たして“シャマルダルの宝”は本物の宝であった――。