6 ザフラの明星③
黄金の腕輪から現れたのは山のように巨大な男。ターバンを目深にかぶって顔がよく見えないためか得体が知れない不気味さがある。
「で、でかい……!」
琥珀の髪をした少年が呟く。アシュラフも想像より大きな魔神が出てきた事で驚きを隠せなかった。ちらりともう一人の魔神であるスィラージュを見るが彼はあまり動じていなかった。
「れ、レザー……、魔神の話ってほんとうだったの……?」
ひきつった笑みを浮かべる相棒に、黒髪の彼は厳しい顔のまま返事をしない。二人の盗賊の様子からは半信半疑で魔神を呼び出したと見てとれる。アシュラフの時と同じだ。
スィラージュの時とは違い、巨躯を誇るその腕輪の魔神は自由になった事を喜ぶように笑った。
「雨雲よ天を閉じよ、風よ吹け、雷鳴よとどろけ!」
両手を広げ空に命じる。すると魔神の言った通りに黒い雲が空を閉ざし強い風が吹き始めた。やがて雷の音と光が落ち、アシュラフは眉を寄せた。
「やばいか?」
「うーーん」
水差しの魔神の方に聞くと、彼はあまり深刻そうではなかった。
「ちょっと天気悪くするぐらいなら大した事はないですね」
「ちょっとか?」
強風に髪も衣服も煽られてアシュラフは立っていられそうになかった。
「それに完全に実体化出来てないですし。足元透けてますでしょう。巨大化で見栄はって足元が疎かになってるんじゃないですかねえ。魔力も大した事ない証拠です」
言われてアシュラフが腕輪の魔神を見ると、確かに体の半分から下はうっすらと透き通っている。
「貴様、我を愚弄するか!」
腕輪の魔神はスィラージュの言葉を聞きのがしはしなかった。
風が一段と強くなり、ザフラの明星の二人はお互いに支え合った。
「うわあああっ!」
巨躯の魔神が手を突き出せば、アシュラフとスィラージュの体は一気に吹き飛ぶ。強く壁に叩きつけられ、アシュラフは呻き声を上げる。
「シュラ様!」
壁にぶつかった部位がいけなかった。アシュラフの横っ腹には赤い染みが出来た。
それを見たスィラージュの瞳が、じわりと赤く染まる――。
風が、吹く。
スィラージュから青みがかった風が吹き始める。今やその髪も、ラピスラズリの青に戻っていた。
一歩一歩スィラージュが先に進むと、腕輪の魔神の生み出した風が青い風に押し負けてゆく。
「……私の主に、何してるんですか?」
この時の水差しの魔神の顔に表情はなかった。
「な……」
巨大な体を持ちながらも、腕輪の魔神はスィラージュにのみ従う風たちにたじろぎ始める。
何よりその、血のような赤い瞳を向けてくる水差しの魔神に怯えている自分に気づいた。
この魔神はスィラージュとの実力差をやっと知ったのだ。
近づいてくる青い髪の魔神に、腕輪の魔神は逃げるしかなかった。巨躯を空へと飛び上がらせて、ザフラの城下町を見下ろす。
スィラージュは簡単に追いついた。腕輪の魔神と比べたらちっぽけな体躯だが、スィラージュが腕を上げるとその指先に強い魔術がこめられる。
「あと百年くらいは腕輪の中で大人しくしてくださいね」
見えない何かによって首を絞められた腕輪の魔神は、逃れるため彼の言う通りにした。自ら腕輪の中に戻ったのだ。封印されし魔神にとって、その行為は牢に戻ると等しい。だが腕輪の魔神には選択肢が他になかった。
空に浮かぶ巨大な男の姿は一瞬にしてかき消えたのだった――。
雷さえ鳴らないものの、風が止まない。すぐに降りてこない従者に、アシュラフは息を吸う。
「スィラージュ、落ち着け。こんなのなんでもない」
脇腹をおさえながらもアシュラフは立ち上がった。
風がぴたりと止んだ。ものすごい早さでスィラージュは主の元へと飛んで来る。
「シュラさまあ~~っ! でもっ、せっかく治ったばかりなのにい!」
泣きそうな顔と情けない声はすべてを台無しにするには充分だった。どさくさに紛れてアシュラフに抱きついてきたのも彼女には鬱陶しい。
「うぜえ。傷口がちょっと開いただけだ」
「ちょっとじゃないですう!」
やけにくっついてくる従者を押し退けると、アシュラフは地面に転がる黄金の腕輪を眺めた。スィラージュが脅したお陰で、しばらく腕輪の魔神に警戒する必要はないだろう。
結局アシュラフはまたスィラージュの魔術に頼ってしまった結果になったが、まさか相手も魔神を呼び出すなんて思わなかった。スィラージュがいなければ魔神には対応出来なかっただろう。今回のような場合は気にしない方がいい。アシュラフはそう自分に言い聞かせた。それにスィラージュはアシュラフが何か言う前に勝手に切れたのだ。
問題は茫然自失している二人の少年たちだ。彼らはまさか、スィラージュが魔神などとは思ってもいなかったのだろう。巨大な魔神を黙らせたのがあの細身の少年などと誰が想像出来よう。突然の魔神と魔神の対決に、盗賊の子供たちはついていけてなかった。
「さて……こいつら、どうしてやろうか」
目の前にアシュラフに立たれて、黒髪の方の少年が先に我に返った。戸惑いが消えぬままでもアシュラフを見つめ返す。その表情は年相応に見えた。彼の濃褐色の左目の下には小さな傷跡があるとアシュラフは気づいた。
盗賊に馬鹿にされたからと彼らを捕まえる気になったが、アシュラフもまさかこんな幼い子供たちだったとは考えなかった。自分より年下の子供たちを進んで牢に放り込む気になれない。
一度口を開いては閉じ、アシュラフはまた開いた。
その時、何者かが盗賊とアシュラフの間に割り込んできた。
「レザーおにいちゃんたちからはなれろ!」
わらわらと小さな小さな影が、四つ。
「きたないかねもちなんかきらいだ! あっちいけ!」
十歳にも満たない子供たちが、年上の少年たちを庇っている。中には小さな足や手でアシュラフを攻撃してくる者もいる。あまり痛くはなかったが時々痛い。アシュラフは目を丸くするしかなかった。
「バカお前ら、隠れてろ!」
手で幼子らを抑える黒髪の少年は、彼らのリーダーなのだろう。
小さな小さな子供たちはアシュラフに不満の目をぶつけてくる。幼い顔で睨みつけられても怖くなどないが、アシュラフは二の句が告げられない。傍らのスィラージュは小さな敵にすら警戒して、子供たちをつまらなそうに見ている。
「えっとおー。こんなこと言いたくないんだけど、このチビどもだけでも見逃してくれない……ですか?」
琥珀色の髪の少年がアシュラフに頼み込むと、もう一人が彼を振り向く。
「カリム、だからお前だって逃げろって」
「やーだよ。レザーひとりにカッコつけさせるかってんだよ」
年長の二人が言い合っているが、内容は同じだ。彼らは仲間を守ろうとしている。
「この子たちは……」
アシュラフが幼子たちを眺めていると、細い目の彼が体を起こす。
「孤児だよ。……です。誰もいないから、おいらたちが面倒見てる」
「オレたちは、崖下生まれだ」
すっかり元の鋭さを取り戻した目で、黒髪の少年は言い放つ。
「シュラ様、崖下って?」
「……いわゆる、貧民街だ」
ザフラの国は崖の上のオアシスに町があるが、崖の下にも人の住まいがある。実のところ崖の上での生活はお金がかかる。崖の上にも貧しい者はいるが、それよりも下の存在がいる。崖の下には身よりも金もなく職もない者が身をよせあって生きている。為政者はどうしても崖の下を見落としがちで、アシュラフも城下町に出掛ける時は崖下を範疇に入れていなかった。
「お前ら王族は城下しか目に入らねえんだろ! ザフラには崖の下にも人が住んでる、それなのに崖の上にしか礼拝堂はねぇ、孤児院だってねえ! オレたちが見つけなかったら、こいつら……」
一番小さな子供はまだ五歳くらいであろう。そんな子供が一人で生きていけるはずがない。リーダー格の少年が声をあらげるので、幼子たちは不安げだ。
「お前らは自分の足元が見えねえんだ! だから王族も金持ちも大嫌いなんだよ!」
アシュラフは奥歯を噛みしめた。本当に彼女は知らない事が多すぎる。
両手の拳を握ると、アシュラフは年長の二人を含めた子供たちをゆっくり見つめた。
「……すまなかった」
顎を引くアシュラフの神妙な様子に、スィラージュは口を開けた。
「シュラ様……」
わずかな間揺れていたアシュラフの碧の瞳は、すぐに決然としたものに変わる。
「だが、お前たちの行為が罪だという事に変わりはない」
少年の一人の肩がびくりと動く。
「処罰はしないとな」
アシュラフは努めて突き放した顔をした。
「く……」
苦々しい顔をする黒髪の少年は、その処罰が仲間たちにも及ぶ事をこそ恐れている。相棒に視線を向けると、目が開いているかも分からない細い目からは不安しか感じとれなかった。死すら覚悟したような目で、黒髪の少年は俯く。
そして――ザフラの王女が空気を吸い込んだ。
「お前たちには朝から晩まで働いてもらうぞ。王宮でな!」
「え」
あんぐりと口を開けたのは義賊の少年たちだけじゃない。スィラージュも主の突然の言葉についていけなかった。
内心で彼らを驚かす事が出来たと満足するアシュラフは、顎に手をあてる。
「まずは雑用でもしてもらおうか。小間使いってやつだな。ついでにハーフィドかウマルに鍛えてもらえ。そんででかくなったらそのうち手に職つけろ。警備兵ならそう難しくはない」
処罰などと言っておきながら、アシュラフは王宮で働く特権を与える。通常なら有り得ない事だ。職にもよるが宮仕えには相応の身分が必要だ。
「な、何言って……ふつう処罰って言ったら鞭打ちとか」
狼狽しながらも、リーダーは仲間の気持ちを代弁した。するとアシュラフの目付きが据わったものに変わる。
「お前、仕事なめてるのか? しかもハーフィドの本気のしごきはきついぞ。それに大嫌いな王族にこき使われるなんて、お前たちにはこの上ない罰じゃないか?」
それにしたって、細民が王宮に働き口を見つけるなど大抜擢だ。盗みをしてその日暮らしで生きていた少年たちには待遇がよすぎる。
まだ信じられない様子のザフラの明星の面々。そこでアシュラフは、少年たちに微笑みかけた。
「お前たちが今のザフラに不満があるなら――わたしがいつかザフラを変えるから、お前たちも変わるんだ」
職のない者には新たな職を用意する。為政者は過去にそういう事を何度もしてきた。いつも上手くいくとは限らない。だがアシュラフはきっとザフラをよりよい方向へ変えてみせる。
“ザフラの明星”の彼らには義賊を始める行動力がある。権力者に立ち向かう勇気がある。国の行く末を担う未来がある。そんな若者たちと共にザフラを作っていけるのなら、アシュラフは彼らを見捨てる訳にはいかない。
琥珀色の髪の少年は、アシュラフの瞳に可能性を見た。彼女なら、仲間を背負って歩いていける。ザフラの明星という小さな盗賊団よりももっと多くの民を。
「ほ、ほれた……」
呟いた声はアシュラフまでは届かなかったものの、細目の彼が王女に釘付けなのは明らか。隣の少年もアシュラフに文句を言わずにアシュラフを見つめている。
少年二人の様子はスィラージュにとって面白くないものだった。
「……シュラ様はちょっと、その漢気放つの控えた方がいいんじゃないですかね」
「何を訳の分からん事を言っているんだ」
顔を上げたアシュラフはやっと、城下の住人たちが集まってきている事に気づく。そして彼らが何を見にこの場に来たか、何を目撃したかも察してしまった。先程の腕輪の魔神が巨大な姿を見てしまっただろうし、スィラージュの青い髪もとても目立つ。
横目でスィラージュを見れば、彼はまたいつの間にか髪の色を青みがかった黒髪に戻していた。だがスィラージュが上空に浮かんでいたのは多くの民に見られてしまっただろう。
「あー……やばいなこれ。父上に怒られる」
約束を交わした訳ではないが、アーディルとアシュラフの間では水差しの魔神の事はまだ民に公表すべきでないという暗黙の了解があった。彼らは既にガンナームという大国と揉めている。そこに魔神などという存在を持ち出すと話はよりややこしくなる。目下のところ害はないのだとスィラージュを後回しにしたのはザフラ王も同じ。
だがこうして民の目にさらしてしまった今、ザフラ王は新たに対策を練らねばならない。
父の頭痛の種を増やしてしまった事で、アシュラフは嘆息するしかなかった。
とにもかくにも王宮へ引き上げる事にしたアシュラフは、ザフラの明星の子供たちも連れて行った。
民の好奇の目を避けながらたどり着いた王宮の門の手前で、アシュラフはひとつの事に気づいた。
「そういえばまだ名前を聞いてなかったな。わたしの事はもう分かってると思うが、アシュラフだ。こっちは従者のスィラージュ」
細い目の少年が先に表情を和らげた。
「カリムっす。これからもよろしく、です」
彼は人当たりが悪くなさそうだ。カリムはそばかすのある頬を指でかいて、照れくさそうにした。
年少の子供たちも次々に自分の名を名のる。しかし黒髪のリーダーは仏頂面のままだ。そんな彼を、カリムは細い目で一瞥して膝で脇腹を突く。
「……レザーだ」
渋々といった様子を隠しもせずにレザーは目を逸らす。まだ知り合って間もないが、アシュラフにはそれぞれ“らしい”態度だと思えて笑みが浮かんだ。
「カリムにレザー。これから、よろしく」