4 ザフラの明星①
ザフラとは、古の言葉で“咲きほこる花”を意味する。その名の通り、砂漠にあっては充分すぎるほどの水場がある土地だ。ザフラ周辺にしか生えていないネレンの花がザフラの象徴として捉えられる事もある。ザフラに住む者はネレンの花を好む。砂漠の暑さにも耐える健気なネレンの花は、アシュラフの住む王宮のいたるところに咲いていた。
淡い紫色のネレンの花を眺めながら、アシュラフはスィラージュの到着を待っていた。
これから城下町にアシュラフたちは赴く予定だが、何の準備もしないで向かう訳にはいかない。アシュラフはハーフィドに外出の旨を伝え、着替えた。ハーフィドもアシュラフの趣味を知っていて、彼と共に町に向かった事もあった。今回彼は同行しないが、ハーフィドはアシュラフたちのあとを護衛に追わせる事にした。
待ち合わせ場所は王宮の正門前だった。ナツメヤシの木の陰で涼みながら待っていたアシュラフは、花壇の端に腰かけていた。
「あれ。シュラ様、着替えちゃったんですか」
顔を上げると、スィラージュがいた。相手が意外そうな声をしていたので、アシュラフは何を不思議に思う必要があるのか疑問になった。今のアシュラフは動きやすさを重視した、ほとんど男に見える服を着ていた。
「町に行く時はいつもこんなだ」
「さっきの格好、かわいかったですのに。よそいきの服って感じでゴージャスで素敵で」
残念そうな顔と残念な表現力で褒めたたえるスィラージュの言葉を、アシュラフは聞こえていないかのようにふるまった。
「それよりお前こそ……いつの間に髪と目の色を変えたんだ?」
アシュラフの身長よりいくらか背の高いスィラージュを、彼女は見上げる。改めて眺められ、魔神は目をぱちくりとさせた。
光の加減で青みがかって見える黒髪は常に手入れをされているかのように整っている。その茶色の瞳は、他者を思いやる心を映し出す。東方由来の紋様が刻まれた群青色の上着が少し目立つが、あとは取り立てて言う事などない普通の少年に見える。
人好きのする笑みを浮かべると年頃の娘はスィラージュに胸をときめかせる事もあるだろう。しかしアシュラフはスィラージュの笑った顔ばかり見ているために何のありがたみもなく、まして胸をときめかせる事などこの先一度だってありそうになかった。
はじまりの出会いが、“あれ”だったから。アシュラフにとってスィラージュはどれだけ軽口を叩こうと、時折鬱陶しく感じようと、人にはない力を持つ魔神でしかない。
初めて会った時、水差しに封じられていた魔神はラピスラズリ色の髪と、ルビーのような赤い瞳を持っていたはずだ。つい先ほどまでアシュラフは自分自身の事と父王の事で頭がいっぱいだったため、スィラージュの変化になど気が付けなかった。
「昨日シュラ様の部屋を出たあたりからでしたかねえ。王宮の人を驚かせたらいけないと思って」
自分の容姿が普通の人間には奇異に映るとスィラージュは知っているようだった。以前この魔神を連れて外を歩いた時も、今のように人間を装った髪色や瞳に見せていた。黒い髪も見慣れているので彼の変装もアシュラフにとって違和感はなかった。
「道理で……」
「道理で、何ですか?」
「誰もお前に注意を払わないなと。見た目がそれだと、お前存在感ないな」
現在国王不在の王宮で魔神がいると騒ぎになっても困るので、アシュラフとしては問題はない。
「え、えええ……」
ほとんどの人にとって賛辞にはとてもならない言葉をもらい、スィラージュは戸惑いきった情けない声を上げる。
「とにかく行くぞ」
主の所見について異議を申し立てたいというような顔をしたスィラージュをしり目に、アシュラフは歩き始めた。
王宮の門を抜けてしばらくすると礼拝堂があり、市場が広がる。まずアシュラフは商店の並ぶ通りに向かった。町の目抜き通りをたくさんの店が埋めつくす、ザフラで一番活気ある場所だ。様々な色やにおいや声に音――それに様々な人が行き交う。
ピスタチオの実、干したイチジクや葡萄などの果実を売る店でアシュラフが立ち止まると、店主は彼女に気さくな笑みを浮かべた。
「おっ、殿下。こんにちは」
奥にいた店主の妻もアシュラフに気づくとにっこりと笑顔を作る。
「ザクロジュースでも飲んでいかないかい?」
アシュラフが何かを言う前に、店の者は器にジュースを注ぎ終えてしまった。強引、というほどではないがアシュラフは断りきれずにジュースを受け取った。同行者に気づいた店主の妻は、スィラージュにもザクロのジュースを渡す。スィラージュがうれしげにジュースを受け取り、おいしいと絶賛したので、店主たちはより笑顔を深めた。
アシュラフは、別の店でもアーモンドの甘い焼き菓子を勧められたり、焼いた羊肉を押し付けられたり、新作の刺繍の被り物をお勧めされたりした。
「今年は綿花の育ちがちょっと悪くてな」
「西の港町で変な事件があったらしいの」
その間、町の者はアシュラフに様々な話をしていた。スィラージュは民が王族にここまで親しげに話すのも、小国ならではかと感じた。話の内容は当然、ザフラに関わる事。民との会話でアシュラフは国の現状を知ろうとしているのだとも、彼は気づいた。
「……シュラ様って、皆さんに慕われてるのですね」
加えて、ほとんどの場合、城下の者はアシュラフの訪れを喜んでいる。これまでにアシュラフが繰り返し城下に足を運んだからの結果だと分かるが、スィラージュには主が受け入れられているのを見るのがうれしかった。
「そうだといいんだがな」
しかしアシュラフの表情はあまり楽しげではなかった。
町の賑やかな様子。アシュラフが以前城下に来た時と変わりはない。異国の地ガンナームで見た市場ほどの広大さはないが、ザフラの市場とて活気は同じくらいだ。小さいながら豊かな国、ザフラ。
「このままでは――」
ザフラの民はまだ何も知らない。これからザフラが、ガンナームとの対立を深めようとしている事を。
平和なこの生活を、アシュラフは守りたい。そうしなければならない。今は父の帰りを待つだけなのが、たまらなくつらい。
町の活気を見て励まされるどころか、アシュラフはもどかしさに苦い顔になっていた。
そんなアシュラフの耳に、いつの間にか水売りと会話するスィラージュの声がやってくる。
「盗賊団、ですか?」
あまり感心しない単語だとアシュラフが、スィラージュの話し相手に顔を向けると、水売りは王族に今気づいたような顔をした。慌てたような水売りの男に、アシュラフはいいから続きを話せと催促する。
男は少しばかり居心地の悪そうな表情をして、話しはじめる。
「このところ町にたびたび出没するようになった、盗人どものことでして。どうも義賊を気取ってるのか、金持ち相手にしか盗みは働かないみてぇなんですが」
「そうは言っても、窃盗に変わりはないだろう」
盗みはよくない事、というアシュラフの考えに揺るぎはない。
ここで、水売りはアシュラフに水を提供すべきだと思い出した。彼女の口をふさぎたかった訳ではないだろう――多分。
アシュラフは受け取った水で喉を少しだけしめらせると、目で促した。男は叱られたみたいな顔で口を開く。
「ま、その盗賊のひでえ被害はねえみたいなんです。とにかく逃げ足が速いのなんのって。誰もあいつらの尻尾を掴んだ事はないって、もっぱらの噂ですよ」
町の犯罪に関してアシュラフは多くを知らない。盗賊が捕まった際の刑罰についても分からない彼女に出来る事があるとは思えないが、見過ごしていい話ではない。その盗賊たちの目的は一体何だろうかと、考えこむアシュラフはまた表情を硬いものにしていた。
「やつらは、盗賊のくせに自分たちの名前を持ってやがる。その名も――」
水売りの男は、神妙な顔をしてひとつ区切りをつけた。彼が息を吸った時、
「“ザフラの明星”だ!」
別の大声が空を裂いた。
アシュラフたちに視線を向けられた水売りは、自分が大声をあげたのではないと言いたげに目を丸めてみせた。
「ザフラの明星が出たぞ!」
市場に先程とは異なる騒がしさが訪れる。中には何かを目指すように駆け出す者もいる。そのうちの一人の青年に呼びかけて、アシュラフは問いただす。
「例の盗賊たちか?」
「そっす、義賊気取りの“ザフラの明星”が出たらしい……!」
言うなり、青年は去っていった。盗賊たちのいる現場へ向かうのか。アシュラフは周囲を見回すと、小走りになって動き出した。念のため彼女が振り返ると、歩こうともしない従者がいたために睨みつける。
「何をぼさっとしている。行くぞスィラージュ」
「あっ、はい」
スィラージュは主が盗賊団を追うとは考えてもいなかったような顔をしていたので、アシュラフの反感を買った。だが今は彼の事より盗人たちだ。アシュラフは急ぎ足になる。
目抜き通りを外れると、無造作に建てられた住宅が続き、やや複雑な道になる。城下の詰め所にいる兵士たちも騒ぎを聞き付けたらしい。制服姿の男たちが槍や剣を手に声をあげ、連絡を取り合っていた。
騒ぎは大きくなれど、盗賊本人たちが見つからない。
「盗賊たちはどこだ?」
「えっ、あっ、アシュラフ殿下?!」
兵士をつかまえて問いかけると、一人目は王族の姿に驚くばかり。他に使える者はいないかと辺りに目を配ると、一人が伝令役としてやってくる。
「東の宗教学校の方だ!」
当然、アシュラフは盗賊のいるという学校のある場所を目指し駆け出した。主に振り回されるスィラージュは、「待ってくださいよ~」と間抜けな声を出す。
一行は住宅に挟まれた裏道をゆく。宗教学校にたどり着く前に、偶然彼らの方からやって来てくれたらしい。
「きゃっ、ザフラの明星?!」
先に訪れたのは目撃者の声だった。アシュラフは声の主と盗賊を見つけるため、駆ける足を早めた。
少し開けた空間に出た時、アシュラフは尻餅をついた女性と、黒い外衣を被った人物を目撃する。
「待て!」
衣の裾を陽炎のように揺らめかせ、その者はアシュラフの目の前から姿を消した。
「あれが、盗賊か?」
顔どころか体のほとんどを外衣で覆った者。一瞬見ただけではアシュラフには何がなんだか分からなかった。
「ザフラの明星は、外衣で顔を隠してるんです」
遅れてやって来た兵士が説明する。アシュラフはそれを聞きながらも盗賊の後を追った。
道の角に、黒い衣の端が吸い込まれていく。盗賊の逃げ足が速いというのは本当だった。
盗賊を追う一行がまた目抜き通りに戻って来た時、スィラージュが声をあげる。
「シュラさま、もうあんなところに……!」
さっきまではもっと近くにいたはずの盗賊が、遠くなっている。どれだけ足が速いのかとアシュラフが顔にしわを作る。
それでも彼らは目抜き通りから道を外れた盗賊の後に続くが、今度はどれだけ走っても、外衣の色さえ見つけられなかった。
アシュラフたちは完全にザフラの明星を見失ってしまったのだ。
「く……、逃げられたか」
少しでも手がかりはないかと辺りを調べていると、大きな壁の前でスィラージュが立ち止まる。
「あれは……」
背後に主が近づいてくる気配を感じ、スィラージュは目を見開いた。
“足の遅い間抜けめ!”
壁の落書きを見た時の主の反応が、スィラージュには簡単に想像出来たからだ。
壁に塗られた塗料はまだ乾いていない。ザフラの明星と名乗る盗賊は、アシュラフや兵士からまんまと逃げおおせただけでなく、彼らを馬鹿にする落書きを書く余裕まであったのだ。スィラージュは、自分の後ろを振り返るのが怖かった。
ぎしり、とアシュラフは奥歯を噛みしめた。
「ふざけるなよ。ザフラの明星とやら、絶対に捕まえてやる……!」
アシュラフの碧の瞳は義憤に燃え、拳を今にも盗賊に降りおろさんと固く握りしめていた。