3 国王の出立③
廊下にはハーフィドとアシュラフ、スィラージュが残った。国王一行に置いてけぼりにされた者たちは黙して己の思考に没頭した。
その沈黙を破ったのは、不満を顔に出したスィラージュだった。
「何ですか、さっきの人。“ご心配なきよう”だなんて、私のアシュラフ様に感じ悪い顔をして」
「いや、お前のじゃないから」
訂正だけは素早く。アシュラフはすっかり忘れていたスィラージュに呆れた目をやる。誰が話題になっているのかハーフィドも気づいた。
「わしの息子ですな。四番目の息子、ユーナーンと申します」
「ああ……ユーナーン。久しく会っていなかったから、すぐには分からなかった」
ハーフィド・アズハルには五人の息子がおり、その全員との面識がアシュラフにはある。アズハルは代々軍人の家系で、軍の要職に就いている者ばかりだ。アシュラフと年の近い子供は遊び相手として幼い頃から付き合いがある。ユーナーンともまだ小さな頃には遊んだものだった。相手が遊びよりも鍛練を大事に思うようになってからは顔を合わせる事もなくなり、近年はほとんど会っていない。
「昔からの、知り合いだ」
「ふう~~ん。そのわりには、なんだかそっけなかったですけど」
軽く説明してやると、スィラージュはつまらなそうな顔をする。アシュラフの記憶の中でも、昔のユーナーンはあんな風につれない様子はなかった。もちろん、職務中なのもあったろうし、幼い頃と今では変わってしまう事もあるだろうが。
「申し訳ありませんなあ。どうにも少し前から、あやつも難しい年頃になってしまったようで。わしにも冷たい目をしてくる事がありましてなあ」
ハーフィドは困ったように笑いながら、白いふっさりとした眉に指をつっこんだ。
「反抗期か……? でも確か、ユーナーンってわたしの五つか六つ上ぐらいだから、もう二十歳ぐらいじゃなかったか?」
親や周囲の人間に態度を変えるような事は、十代の若者にはよくある。だがそれも二十歳を過ぎれば少しは薄れる。あれが反抗期だというのなら、少し長すぎやしないか。あるいは遅れてやってきたのか。
「ま、まあ、あやつにも、いろいろ思うところがあるのでしょうな……。悩んでいるような素振りもありますし」
親としては少しはかばいたくなるものだ。アシュラフとしてもさほどユーナーンに反感を抱いた訳でもない。
「とはいえ、剣の腕は息子たちの中でも二番手ほどの実力ですから、護衛としては役にたつと思いますよ」
「……そうだろうな」
ハーフィドの剣の腕を、アシュラフはよく知っている。彼が言うのならその通りなのだろうと思えるくらいにアシュラフはハーフィドを信用している。
それでも、アシュラフは誰が護衛についても父王の心配をしただろう。先の事件ではアシュラフの剣はほとんど役には立たなかった。そんな自分がアーディルについて行ったとしても何の力にもなれないかもしれないが、どうしたって不安なのだ。アシュラフにはもうザフラ王の無事の帰還を神に祈るしか方法はないのかもしれない。そう思うと、余計に不安が重くのしかかり、彼女は音を立ててため息をついた。
旅支度に時間が要るため、翌日にアーディルは発つ事になった。
アシュラフの想像通り、ハイダルの王の住む都を目指して、ザフラ王は旅に出る。アシュラフは知らなかったが、アーディルは九死に一生をえてザフラに戻ってきた直後、ハイダルに使者を送っていた。
ガンナーム帝国が大胆にもザフラ王殺害を目論み、アシュラフを傀儡にしてザフラを操ろうとした。しかしアシュラフは逃げのび、魔神であるスィラージュの力を借りてザフラ王を救出した。
ザフラは軍を動かした訳でもないから、ガンナームが突然の侵略をかけてくる事はなかった。だが先の奇襲は、あまりにも見過ごせないもの。ハイダルとてそれを聞けばザフラ王の話を聞く気になるだろう。
中立国を目指したはずのザフラ王は、ハイダル王国に助けを求めに行く。ハイダルがいかなる条件を出すかは未知数だが、アーディルはハイダルにつくと決めたのだ。
ハイダルの都イスバニールまで駱駝で半月以上かかる。短いとはとてもいえぬ旅路だ。アシュラフがスィラージュと共に移動したガンナームの都アブヤドとザフラも遠いが、今回は魔神の手助けもない。万全の準備を整えたとはいえ、アシュラフの顔色が明るくなる事はなかった。
ザフラ王の一行が地平線の向こうに消えても、アシュラフは露台から動く事が出来なかった。いつまでも父王の通った砂漠の上を眺めながら、室内に入ろうとしない。もう日は随分と中天に近づいている。
「シュラ様、そろそろ中に戻りましょう。日差しがお体に障ります」
この辺りの地域は日差しがとても強い。水差しの魔神の声も聞こえていない訳ではなかったが、今は少しどうでもよかった。アシュラフの頭の中は次期後継者としての課題でいっぱいだ。
主不在のこのザフラ王宮を、王族の一人としてアシュラフは守らねばならない。ガンナームがザフラ王の不在を狙って何かしかけてこないとも限らない。ザフラ軍は大国と比べれば小さなものだが、守りを固める必要もあるだろう。常に外敵に気を配っていなければならない。
更に、内部の事にも油断は出来ない。小さな国とはいえザフラの政界は一枚岩ではない。アーディルの政策をよく思わぬ者もある。国を思う気持ちは同じでも、選んだやり方が違う者が、王宮には存在する。。王の留守中に彼らの好きにさせる訳にはいかない。
加えて、ザフラ王国の事を知るためには城下に出る必要もある。これはアシュラフの母である王妃がよく言っていた事だが、国を治める者ならば民をよく知らねばならず、その生活を垣間見る事が大切だ。王妃もアシュラフが生まれる前は城下で民との交流を経験したという。それに倣ってアシュラフも時折町に顔を出していた。アシュラフは、守るべきものが何であるかを思い出すには町に行くのが一番だと思っている。ここしばらくは町に出ていないので、城下町に赴く事もしたっていい。
それからアシュラフは自身の鍛練も重ねたいと思っていた。剣術の師が父王アーディルと将軍ハーフィドであるためか、自分もそれなりの腕を持つとアシュラフは自負していた。だがそれは思い上がりだったようだ。ハーフィドのようになるのは無理でも、体を鍛えておいて損はない。
「アシュラフ様ってば~、聞いてます?」
そう、それから――あの魔神の事も、いずれ何とかしなければならない。水差しの魔神スィラージュが自分の意思でアシュラフのそばにいるとしても、今のままでいいとは思えない。ただ、こちらは急ぐほどではないだろうし、まだ先延ばしに出来るだろう。他の事で手一杯な今、スィラージュには少し待っていてもらうしかない。
いったい、まず何からはじめようか。
アシュラフは考えればまだまだやるべき事がたくさんあるので、数えればきりがないと思い知った。
「アーシューラーフーさーまー?」
魔神の声がすぐそばで聞こえ、両肩を掴まれ前後に揺すられる。スィラージュが、自分を無視する主を実力行使で振り向かせようとしている。スィラージュの怪訝な茶色い瞳が目と鼻の先にあるのを知って、アシュラフはすぐに彼の腕を振り払った。
「やめろ。なんなんだ鬱陶しい」
「ええー、シュラ様の肌とお体、ひいては健康を守ろうとしただけですのにー」
確かにそろそろアシュラフも日差しが痛いと思っていたところだ。王を見送った後だったので、きちんと女性にふさわしい格好をして、頭部を覆う被り物をしていたが、布一枚くらいでは砂漠の日差しにはかなわない。
もう一度、アーディルの通った砂漠の道なき道に視線を戻すと、アシュラフは踵を返した。長い裾と飾り布を翻してアシュラフが通り過ぎる様を、スィラージュは少しの間眺めていた。が、思い出したようにスィラージュも歩き出して、主を追った。
室内に入るとアシュラフはあてもなく歩き続ける。
自分がもっと強ければ。剣の腕だけじゃなく、心も未熟なままでなければ。もっと努力を重ねて、一人前の人間であったら。こんな風に思い悩むのは、アシュラフが弱いせいだ。父親の無事の帰りも信じられないなどと。自分が何も出来ない子供でしかないと、思い知らされたような気分だ――。アシュラフのため息が、またひとつ増えた。
「シュラ様、今日は何をするんですか?」
ささくれ立った気持ちに、スィラージュの何の考えもなさそうな言葉は少しうるさく感じた。だが、アシュラフはこの日の予定をどうすべきか、考えなければいけない。急ぎの用はないが、やるべき事だらけだ。もちろん、まだ政治の話にほとんど口を挟めないアシュラフが出来る事など、大したものではない。
「もしよかったら、ザフラの町に行ってみたいです。シュラ様、案内してくださいよ」
偶然にもスィラージュの提案は、アシュラフが選択肢の一つにしていたものだ。頭の中で一人思いつめるよりは、町の者と接して自分の志を改めて確認するのもよいかもしれない。
ちらり、とアシュラフは水差しの魔神を横目で見た。まだ少し成長過程にある年頃の成りをした少年は、僅かな幼さと、穏やかさを同居させた眼差しをしていた。見た目や言動が子供らしく見えても、スィラージュは長い時を生きた魔神なのだ。時々、その優しげな瞳を見ると不思議な気持ちになる。慈愛さえ垣間見える優しさに、その身を浸したいという思いと、何者をも超越したような遠い存在だと思い知り、つれなくされたかのように心が少し揺らぐ。
ほんの、少しだけだ。自分に言い聞かせ、アシュラフはスィラージュから視線を外した。
「……そうだな。わたしも近々行こうと思っていたんだ。久しぶりに、町に出よう」
「はいっ!」
言うと、満面の笑みでスィラージュは頷いた。アシュラフは、この魔神が犬の姿だったら尻尾をぶんぶん振っていたんだろうなと思った。