1 国王の出立①
夢と現の狭間で、意識もあるのかないのか分からない。
まどろみながらもアシュラフは瞬きをした。まだ眠っていたい、そう思うのに頭のどこかが目覚めを促しているような気がする。一度だけ強く目に力を入れると、アシュラフは瞼を上げた。
さらさらとした毛並みのよいラピスラズリ色の髪が視界に入る。青みがかった黒いまつげ。少しふせられた瞼が震え、鮮やかな赤の虹彩が覗く。
互いの鼻の先がぶつかりそうなほどの間近さで、少年はふにゃりと笑った。
「おはようございます、シュラ様」
寝起きの頭ではアシュラフはすぐには行動に移せなかった。ここがどこで目の前の少年が誰か思い出すのに時間が要った。
ここはザフラ王国の王宮、アシュラフ王女の寝室。そしてアシュラフは自分の寝台の上で昨夜の眠りから覚めたところだ。目の前の、十代後半ほどにしか見えぬ少年は何百年も生きながらえているだろう、人とは異なる存在――魔神だ。
魔神と人とでは常識が異なる場合もあるかもしれない。アシュラフは未だもってこの魔神の事をよくは知らない。
だからといって――嫁入り前の娘の寝台に侵入して添い寝するような行為が、許されていいはず、ない。
「こんの……っ、くそたわけがああああああ!!」
その怒号は王宮の外にまで響き渡るほどだった――。
気安く王女の寝台に寝転がる魔神を蹴り落とすと、アシュラフはすぐさまスィラージュを寝室から追い出した。
彼女は着替えて寝室から出るとスィラージュの行動がいかに問題であったか説明しはじめたのだが、怒りの方が勝ってしまい息が荒くなった。
「本当に信じられんやつだなお前は! 誰がわたしの寝室に入っていいと言った?!」
許可なくアシュラフの寝室に入る事を禁じると険しい顔で説教したにも関わらず、スィラージュはつまらなそうに唇を尖らせる。
「えー。私の入っていた水差しを肌身離さず持っていたのは、シュラ様の方じゃないですかー。久しぶりに出てきたらシュラ様が目の前にいたから、起こしただけですのにー」
ずっと持ったままだった魔神入りの水差しは、持っているのを忘れるくらいアシュラフの手になじんでいた。だがそれは中に何か入っているという認識がほとんどなかったからだ。アシュラフは子供っぽく拗ねる魔神に鼻白む。
常に携えていた自分が悪いのか、それならば捨てよう――という短絡さでアシュラフはスィラージュの水差しを投擲しようと身をひねる。
「だからって捨てようとしないでくださいよ?!」
まるで自身が崖から突き飛ばされそうだとでもいうように、スィラージュはアシュラフにしがみついて制止する。
腰に巻き付く魔神は鬱陶しいが、心から慌てた様子のスィラージュを見てアシュラフは少しばかり溜飲を下げた。彼女は水差しを掲げるのは止め、自分に抱きつくスィラージュの手を跳ね除ける。突き放された魔神の少年は、床に膝をついたままアシュラフを見上げる。
「ほんとにあんまりどこかにやらないでくださいね。今の私は願い事の曖昧な部分にかこつけて外で自由にいられるんですから。誰かに拾われたら、また他の人の従者になってしまう」
心細そうに眉を寄せ、スィラージュは懇願した。
そう、正式にはアシュラフはこの水差しの魔神の主ではない。次の主が見つかるまでの仮の状態のようなものだ。スィラージュは、アシュラフの最後の願いを拡大解釈して、願いはまだ叶えきっていないとして彼女について来た。新たな主という強制力が働けば、今のままではいられない。もちろんスィラージュに新しい主が出来てもスィラージュはアシュラフと関わる事は出来るが、以前のように彼女のために魔術を使う事は出来ない。
スィラージュは水差しの持ち主の願いをまだ叶えきっていないという事にして、未だにアシュラフを主と見なしている。
故あってアシュラフは怒涛のような旅をして、その帰路にも魔神の力が必要だと判断した。スィラージュはアシュラフに親しみを抱き、彼女が助けを必要とした旅を終えても未だ彼女のそばに留まっている。
散々助けてもらったというのに王宮に着いたからと放り出すのも礼に反する。そういう契約だったとはいえ、用済みになったからはいさよならではあまりに人情的でない。かといって魔神であるスィラージュに何か褒美を与えるのも違う気がするし、このまま自分の元に置き続けるのも正しいとは思えない。結局のところ、アシュラフは未だにこの魔神の事を扱いかねているのだ。
立ち上がったスィラージュを見て、アシュラフは息をひとつ吐く。
「まあ、お前みたいなテキトーな魔神つかまされるやつが可哀想だしな。仕方ないからしばらくわたしが管理してやるよ」
「ええっ、何気にひどくないですか?!」
涙さえ浮かべそうな哀れっぽい表情で、スィラージュは縮こまる。アシュラフとしても半分冗談のつもりだったが一々反応が大げさなスィラージュに、かえって面倒になってきた。
目を伏せ大きく息を吐き出すと、アシュラフは片手を腰にあてる。彼女はもう一方の手にある黄銅の水差しを眺めた。
「……具合は、よくなったのか」
スィラージュがしばらく水差しにこもっていたのには理由がある。大怪我をしていたからだ。その療養のために水差しで大人しくしていると言って出てこなくなったのだ。
最初、尋ねられた魔神はきょとんとした顔をしていたがすぐに満面の笑みに変わる。主が自分の事を心配してくれていると思ったのだ。
「ええ、おかげ様で。シュラ様もすっかりお元気なようで」
スィラージュだけではなく、アシュラフもなかなかに小さくない怪我をしていた。今では他者の顔面に蹴りを入れられる程に回復したのを、彼は身をもって知っていた。
「お前が最初から治療してくれれば今頃もっと全快だったんだがな!」
「なんかさっきから棘がありません?」
顔をそむける主にスィラージュはまた唇を尖らせる。
確かにスィラージュは彼女の大怪我をすぐには治してやれなかった。しかしそれは様々な制約があったからで、彼なりに思考した結果だったのだ。すっかりアシュラフに懐いてしまった今では、あの時綺麗に治してやれたらよかったと思う。結局はスィラージュのいたらなさが原因ではあるが、アシュラフも納得の上だったはず。そう強くでられると、スィラージュは落ち込んでしまえそうだ。
「……ったく、他人の事ばっか心配して……」
スィラージュの主はもごもごと口の中でつぶやいたので、彼は上手く聞き取れなかった。
「なんて言ったんですか?」
そっぽを向く主に、彼は顔を近づける事にした。その気配を感じとったアシュラフは、避けるように歩き出す。
「お前のヘラヘラした顔を見ると、苛つくって言ったんだ」
語気も荒く言い放たれ、スィラージュは眉を八の字にした。笑うと苛立たれる、とはどうしたらいいのか。
「……そんなあ、アシュラフさまあ〜……」
情けない声になりながらも、スィラージュはアシュラフのあとを追った。