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青い魔神と碧の煌めき  作者: 伊那
第一部 凶刃と帝国の都
11/24

10 スィラージュ

「口が悪いですって、シュラ様」

 声はどこからか聞こえてきた。空から降るように剣が飛んでくる。回転して落ちる剣は、アシュラフの足元にしっかりと突き刺さる。

「スィラージュ?」

 魔神の声に顔を上げてもその姿は見つからない。金属のぶつかり合う音がして、アシュラフは視線を横に戻す。いつの間にか敵の一人を倒しその武器を奪って他の兵士たちに向き合うアーディルの姿があった。さすがはザフラ王、戦を嫌うとはいえ剣の腕に偽りはない。戸惑うばかりの経験の少ないアシュラフとは違い、体力が残されていなくとも機転を利かせる余裕もある。アシュラフも慌てて落ちてきた剣を取ると、父に倣う。

 相手が武器を手に取ったからと警戒を思い出したのだろう、帝国の兵士たちは段々と表情を厳しいものに変えていく。

 既に彼らの間でアシュラフが突然姿を変えた事は過去のものとなったようだ。アーディルに剣を振りかぶる者があり、ザフラ王はそれを奪った剣で阻む。我が子をかばうような位置にいる父王だったが、彼が他所に意識を奪われていると、当然アシュラフにも敵の手は及んでくる。

 寸でのところでアシュラフは顔面を切り裂く(やいば)を剣で受け止める事が出来た。バヤジット二世はアシュラフたちを捕らえよと言ったはずだが、彼らには相手を傷つけてでも構わないからという無言の訴えも聞こえたらしい。

 刃と刃のぶつかり合う音が間近で鳴っている。ガンナーム兵の剣を押す力の方が強く、アシュラフは一瞬彼の剣に弾かれそうになる。単純な腕力では女であるアシュラフは負けてしまうが、伊達に幼い頃から剣術の鍛錬を積んではいない。それも師の一人は背後の頼りになる父王その人だ。アシュラフはあえて自分から身を引いて先に拮抗した刃の押し合いから抜け出す。少しバランスを崩してしまったが足を一歩下げた反動を利用してそのまま相手の腹を蹴り出す。怯んだ瞬間を狙って追い打ちをかける暇もなく――次の刺客がアシュラフを襲う。

 今度は間に合わない――傷の一つは覚悟したアシュラフの前に、小さく風が吹いた。

 眼前の男が、突然空から生えた足に足蹴にされて床に頭を打ち付けている姿をアシュラフは特等席で見ていた。その足の持ち主はアシュラフに剣を投げつけた張本人だろう魔神だった。

 スィラージュは何もないところから現われ、そこから飛び降りてきたのだ。ふわり、着地した魔神の姿は、髪の色が鮮やかなラピスラズリ色で瞳が赤い事以外は、普通の人間の姿であった。

「遅くなりました、アシュラフ様」

 声はかすかに申し訳なさそうだが常と変わらぬ穏やかな笑みの少年。その身に受けた傷は治ってはいなかったが、どういう原理なのか切り刻まれたはずの服だけは直っていた。その修復された衣装も、鮮やかな髪と瞳の色も、人にはないものだと知りながら、アシュラフはよく見知った笑顔を見ているだけで気が抜けそうだった。

「いや、別に呼んでないし」

「そんな、ひどい」

 アシュラフがつい否定すると、スィラージュは悪い男にもてあそばれた乙女みたいな声を出し、わざとらしい悲しげな顔をしてみせる。

 そんなほのぼのする主従のやり取りを、帝国の人間がのんびり見ているはずがなかった。

「水差しの魔神……!」

 中でもサウードは驚いたように目を見開きながらも、口元を歪めていた。バヤジットも穴のない天井から舞うように降りてきた魔神に驚きを隠せていない。気が付くと、兵士たちはすっかりアシュラフたちから身を引いていた。はじめて見る魔神の存在にすっかり戦意をなくしたらしい。

「はは……。やっぱり、お前か」

 狼狽しきった兵士たちとは反対に、サウードはコツコツと足音を立ててアシュラフたちに近づいてくる。帝国の男の視線が自分にだけ注がれていると気づいたスィラージュは、嫌いな食べ物でも目の前にした子供のような顔をする。

 サウードが腰の剣を抜く。スィラージュはすっと目を細めた。

 彼が帝国の使者としてザフラに来た時からアシュラフは思っていたのだ。文官にしては体格がいいと。最初からサウード文官ではなく武官だったというだけだ。剣を手にしたサウードは武術に長けた男の持つ、独特の空気を放っていた。

 あいつは強い。本能的にアシュラフは察した。どうしたらいいのかと助言を乞うように父を見ると、向かってくる者が絶えたので彼は剣を杖のようについて休んでいた。アーディルは黙ってスィラージュと帝国の将軍を見るように視線で示した。彼らの間にアシュラフやアーディルの入り込む隙はない。見守るしかないのだ。

 スィラージュは以前謎の仮面の男と戦って無事に帰って来た過去がある。今回もそうなってほしいと思うアシュラフだが、彼の武運を祈りたくて仕方なかった。何かを言ってやりたいが、それすらはばかれる。ただアシュラフは父にそっと近づいて、彼に腕を貸しただけだった。

「出来れば血なまぐさい事はしたくないのですが」

 無駄と分かっていながらも、スィラージュは一人言のようにつぶやく。当然のようにサウードは聞く耳を持たない。抜いた剣を片手に一気に床面を蹴った。

 サウードのぎらついた目が間近に迫る。その剣を寸前で押しとどめるのはいつもの不可視の盾。正直なところ――スィラージュにこの場を切り抜ける策はない。どうせ魔術の使い過ぎで大したものは使えないし、使える魔術は限られている。数少ない手札で、なんとかやり過ごさねばならない。

 繰り出されるサウードの剣は正確で、まるで武術の見本のようだ。スィラージュは武術の教本など読んだ事はないが、相手の筋のブレのなさには舌を巻く。かなりの鍛練を幼少の頃からつまされたのかもしれない。だが剣筋に乱れがないのならかえって次の太刀を読みやすい。盾なしでもスィラージュは攻撃を受けずにいられた。

 避けるうちに、スィラージュは床に転がっていた剣を拾う事が出来た。剣術が出来る程ではないが、一度も手に取った事がない訳でもないし、一時しのぎぐらいには扱えるはずだ。

 何度も切りつけてくるサウード。簡単にそれを受けるスィラージュではないが、こちらが剣を持ったせいか相手の勢いはより増した。

 それに男は――わらっている。月夜の砂漠で出会った仮面の男のように戦闘狂には見えないのだが、スィラージュと対峙している事を喜んでいるように見える。気味が悪い、と余計な事を思ったからだろうか、サウードはスィラージュの左の二の腕を捉えた。魔神の血の色は灰色――サウードは軽く目を見張った。その隙にスィラージュは一度後退した。一つ閃いた事がある。魔神はにわかに口角を上げる。

 傷口から血が流れるのも構わずに、スィラージュはやや怪しげな手つきで剣を振りかぶった。もちろんサウードはそれをたやすく躱しすぐに攻撃に転じる。サウードが突き上げ、スィラージュが身を翻す。時折スィラージュの方も剣を繰り出し、当然サウードが避ける。これまでと同じ事の繰り返しかと思われたが、ある時サウードの動きが一瞬だけ遅れた。しかし彼は見た者に気のせいだと思わせるような素早い動きで再びスィラージュに剣を向ける。今度のスィラージュは何故か――避けなかった。

 思わずアシュラフが声を上げそうになった時、サウードの動きがぴたりと止まった。まるで腕を見えない力で引っ張られているかのよう。サウードは手を震わせながら狼狽した。

「貴様……何をした」

 見えぬ盾と同じように思われたが、サウードは何かに阻まれているというよりも手が痺れて動けずにいるようだった。

「ちょっと、魔術を」

 効果が表れるのに少し時間がかかる魔術を使っただけだ。そのための時間稼ぎだった。スィラージュが軽く剣先で相手の手をつつくと、サウードは自分の得物を動けぬ手から落とした。今や彼の片手だけではなく、両手両足が動かないようだ。スィラージュが顔を横に向けても切りつけられぬ状態にあるらしい。

 案外と簡単に事が済んだと、スィラージュは安堵していた。だが自分とその主の現在置かれた状況を考えると、敵を戦闘不能に陥らせるだけでは充分ではないと思い直す。サウードを人質にとって安全なところまで連れて行くのはどうだろうか。名案のように思われたそれを実行するべく、スィラージュは再びサウードに向き直る。自分の意のままにならぬ身を持つとは、ひどく苦痛らしい。サウードはだらだらと汗をかいてスィラージュを睨みつける。

 仮にもスィラージュは魔神という身の上だ。人からどういう目で見られるか、自分を知っている。動けなくさせられた恨みだけではないサウードの感情が瞳から読めたような気がして、大きな息を吐きたくなる。今はそんな事を気にしている場合ではないと、サウードにかけた魔術を解いて人質役を演じてもらおうと剣を突きつける。

「剣を下ろせ! この娘がどうなってもいいのか?」

 思いもよらぬ声。スィラージュは自分の心臓が縮み上がるのが分かった。振り返る前から苦い顔をしていた。そこには兵士の一人に腕を取られ刃を喉に押しつけられているアシュラフの姿があった。

「シュラ様……!」

 スィラージュも全く同じ事をしようとしていたのに、僅かな差で先をこされてしまった。油断をしていた。あの美しい喉に傷でもついたらと思うとスィラージュは耐えられそうにない。敵の接近を許してしまった自己嫌悪で奥歯を強く噛みしめる。

「こっちは気にするな、こんなヤツはわたしが――」

 気丈に振る舞うアシュラフがむしろ痛々しく感じ、スィラージュは現状打開策を探して視線をさまよわせる。隣にいたはずのザフラ王はすっかり膝をついてスィラージュと同じような顔をしている。よく見れば彼のうずくまる床には赤い血が広がっているではないか。顔色も青を通り越して茶色く見える。このままだと彼の命も危ない。

 だが、アシュラフを人質に取られてはどうする事も出来ない。兵士はスィラージュが腕を少し動かすだけでもアシュラフへの拘束を強めてしまう。魔神だからとひどく用心しているようだ。

「……く……っ」

 残りの魔力も少ない。スィラージュに出来る事は僅かだが――

「後ろだ!」

 突如アシュラフが叫んだ。その表情があまりに切羽詰まっていると気づいたその瞬間に、スィラージュの脇腹に剣の先が生えていた。スィラージュはやけにゆっくりと自分の右の腹に視線を落としていく。アシュラフが言っていたのはこの事か、と頭の冷静な部分が納得する。背後にいるのは、人質にするため魔術を解いたサウードだけ。

 剣ごと脇腹に左手を添えると、スィラージュはぐっとそこを押さえた。空いた右腕は肩の後ろに回すと、まだ剣を持ったままのサウードの腕を掴む。そのまま、スィラージュは自分に刺さる剣が食い込むのも構わず、サウードの腕を捻って彼を放り投げた。

 何か魔術で補助をしたのかもしれないが、鮮やかな投げ技だった。代償にスィラージュは一層血を滴らせる。仰向けに倒れたサウードはまだ気を失ってはなかったが、剣を腹に埋めたままのスィラージュに真上に来られ、暗い目で見下された。

「お返しします」

 冷えた声でスィラージュは腹からサウードの剣を引き抜くと、彼の顔の真横に突き立てた。さすがに荒い息になるスィラージュは、すぐに自分の主の事を思い出す。振り返ると、アシュラフを拘束していた兵士は彼女の肘での一撃で白目を剥いているところだった。間抜けな声を上げてよろめく兵士の脛に、アシュラフはとどめをお見舞いした。

 魔神の元に駈け出したアシュラフの姿に、スィラージュは小さく表情を和らげる。

 もはや謁見の間にアシュラフたちに剣を向けて立ち向かおうとする者は、なかった――。

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