9 父と子
その警備兵はわざわざサウード将軍を探し出す必要はなかった。偶然にも彼の方から廊下を歩いてきてくれたのだ。
赤いターバンも顎を覆う髭も初めて目にした時と変わらない。何よりアシュラフはあの使者の男の狡猾そうな瞳が嫌いだった。アシュラフはサウードを目にした途端に身構えたが、彼は警備兵に興味など見せていなかった。
しかしアシュラフの顔を見た瞬間、しばしアシュラフに目を奪われた。次第にサウードは魔神の力を理解した。歯を少し見せて笑うと、警備兵の手からアシュラフを引ったくる。
物言わぬ将軍は隣にいた部下にもアシュラフを連れてきた警備兵にも構わず、来た道を引き返した。階段を登り、大きな分厚い扉を開けさせると、御前であるというのに声を大きくする。
「バヤジット様!」
真珠の宮殿の謁見の間は、ザフラ王宮のものとは比べ物にならないくらいの広さと細かな装飾を備えていたが、今のアシュラフにそれらを見る余裕はなかった。謁見の間では帝王が大臣たちと話をしている最中であって、普通であれば身分ある者だとしても彼らの会話を遮るなどという無礼な行為が許されるはずがなかった。しかしサウードはバヤジット二世の非難の目も構わずに先に進む。
「やっとお望みのものを見せられる日が来ました」
帝王にほど近い場所にくると足を止め、アシュラフの身体を放り投げる。
肩から倒れこむ事になったアシュラフは打ち付けた場所に顔をしかめながらも、すぐに身を起こそうとする。が、サウードが子供の背を足で押さえつける。
「うぐっ」
呻くアシュラフの声を耳障りだと思ったかのように、バヤジットは嫌悪に歪めるが、将軍の言葉が真実であるかを知るためにアシュラフを検分する。不利な状況にあって、敵対する勢力の頂点に立つ者に見下ろされるのは、楽しい事ではなかった。
絶対的な王者の目をするバヤジット・セリム=ネヴシェヒル――アシュラフも彼の事を少なからず知っている。すべて父に教えられた事ではあるが、歴代ガンナーム帝王の中でも飛び抜けて才のある男だという。輝く宝飾品に身を包んでいるが、その体が戦場にて敵を屠るのに適した筋肉を持っている事は隠せていない。その瞳は厳格ながらも理知的な光をたたえ、彼が才能を発揮するのは力でものを言わせる時だけではないと教えている。
顎髭だけでなく口の上にも髭があるバヤジット二世は冷えた目つきになる。
「……余が所望したのは、こんな薄汚い子供だったかな」
馬鹿にされたと分かりアシュラフは身をよじるが、それを察したサウードの足が更に力を込める。バヤジットがそんなアシュラフを気遣った訳がないだろうが、厳しい目線をサウードに向ける。無言の命令を理解したサウードは最後に小さく子供を踏みつけて、足を離した。彼は代わりにアシュラフの両手を後ろ手で拘束して引き寄せる。
帝王やサウードに何かを言われる前にアシュラフは先手を打った。
「我が名はアシュラフ! ザフラの正統な王国王位継承者だ。我が父アーディルを返してもらいに来たぞ!」
バヤジットの瞳が、何かを楽しむような目になる。しかしそれは浅薄な子供の悪戯でも見るような非常に見下した目つきだった。
「ならば指輪を見せてみろ」
一拍おいて、ザフラ王家の指輪を引き出すためのに吐かれた言葉ではない、とアシュラフは気づいた。彼はアシュラフが本当にザフラ王家の人間か疑っているのだ。
バヤジット二世とアシュラフは直接の対面の経験はない。だが両者共に一国の王族に名を連ねる者。相手の口伝の詳細なら聞いている。アシュラフがどういう人物か、バヤジットも知っているはずなのだが――。
今のアシュラフは本当の姿ではない。最初にかけられたスィラージュの魔術がまだ解けていないのだ。どうやったらこの身の魔術が解けるのかは分からないが、頼みの綱のスィラージュは庭園に置いてきてしまった。その上重要な指輪もそこにある。指輪を置いてきた事が裏目に出てしまうのか。
「出せぬか」
こうなれば、一か八か。
「指輪の隠し場所を知りたくば我が父の無事を確認させろ」
子供の高い声に、王は片方だけ眉を持ち上げる。その唇は閉じられたままだ。
バヤジットは指輪を、アシュラフはザフラ王を要求する。交渉は平行線を辿るだけかと思われた。
あの強い意思を見せる帝王が簡単にアシュラフの提案にのる気はしない。父の姿を先に見せろと言うのは当初の予定通りだったとはいえ、アシュラフは自分に有利な条件など一つもないように感じていた。
永遠に続くかと思われた沈黙が途切れる。
「指輪の在り処を話したくなるようにしてやろう」
ガンナーム帝王バヤジット二世は側に控える忠臣に顎だけで示すとすべてを伝えた。その男はすぐさま謁見の間を飛び出して行く。アシュラフにはバヤジットの考えが読めない。どういうつもりで、臣下を他所へ遣わしたのか。アーディルを連れてきてくれるとでもいうのだろうか。あの帝王の顔を見ていると、とてもそうには思えない。
相手側の出方を待つ間、アシュラフは縄を持ってこさせたサウードに手首を強く縛られる。両手首が窮屈になって気分がよくなるはずがなかったが、アシュラフは少しだけ周囲に気を配る余裕が生まれた。この場に入場した当初は何人もいた文官と思しき身なりの者たちは、ほとんど姿を消していた。代わりにやって来たのは軽装備の武人たち。警備兵だろうか、二十人以上いる。アシュラフは自分が逃げ出せない状況を作られているのを感じた。
大仰な音を立てて、謁見の間の正面扉が開かれた。アシュラフのいる場所からだと遠すぎてすぐには誰が来たのかは分からない。
その人物は男二人に引き立てられて、アシュラフの、ひいてはバヤジットの元へと歩かされていた。中央の人物の顔の造作が分かるようになると、アシュラフははっと息を飲む。久方ぶりに見るアーディルの姿は、随分と憔悴しきっていて、健康そうとはとてもいえない顔色だった。当たり前だろう、別れた時の父王は、サウードからの深い一太刀を受け重傷を負っていたのだから。あれから数日しかたっていないのだ。傷が快癒するはずもない。
「父上……!」
敬愛する父の元に駆け寄ろうとしたアシュラフを、サウードは解放したりしなかった。アシュラフを拘束する縄が引かれる。
アシュラフの三キュービットほど手前で、ザフラ王アーディルは力尽きたように膝をつく。
「……今の声は、アシュラフ……か……?」
顔を上げるような余力もないのか、アーディルは今にも倒れそうだ。病に伏しているかのように涸れた声はか細く、傾いだ身体は希望を失った囚人のように見える。
「父上! わたしです、アシュラフです!」
アーディルを両脇から支える男たちは、自分の君主に目線だけでお伺いを立てる。バヤジットは頷くと、自分の元に連れてくるようにと目で訴えた。
満身創痍のザフラ王は無理やりに立たされると、また男たちに連れられて歩かされる。実に緩慢な動作で彼らは帝王の御前に向かう。
「そんなはずは、ない……アシュラフが、ここに居るはずはない」
自分の子供の顔も見ずに、アーディルはうなされた病人のようにぶつぶつと口の中で自分に言い聞かせる。
「父上、わたしです! 今はこんな恰好ですが、アシュラフですって!」
一瞬だけ、父王はアシュラフを見たような気がした。しかし彼は何の感動もなく自分の足元に視線を戻した。
アシュラフは今、スィラージュの魔術で変装しているだけなのに、父親にも分かってもらえないのか。
父にまで見限られたら、アシュラフは一体どうしたらいいのか。
目眩がしそうになる。
バヤジットは父をその側においてどうしようというのか。アシュラフが本物のザフラ王の子と証明出来なかったら、アーディルを殺そうというのか。
今すぐ指輪を取りに戻ればいいというのか。
しかしそうしたら、ザフラはガンナームの手に落ちる。
覚悟した事とはいえ、アシュラフにはどうしたらいいのか分からなかった。
(どこをほっつき歩いてるんだよ、スィラージュ……っ!)
あの魔神さえ、ここにいたら。勝手に置いてきたのはアシュラフの方なのに、彼の不在が今はひどく心細い。
「さて父は否定しているが、子は肯定している。どちらにせよお前は指輪の在り処を知っているようだな」
バヤジットの隣で膝を折るアーディルは、自分の身に何が起こっているのか把握出来ていないようだ。一度バヤジットはアシュラフを愉悦の瞳で眺めた。
「父の傷の深さを見たら、お前は指輪の場所を思い出せるだろうよ」
言葉通りバヤジットがアーディルの傷口を見せるという事はなかった。その手があやまたずアーディルの背を目指していた事で、アシュラフは悲鳴を上げる。
「やめろ……っ!」
服の上から、アーディルの傷口を抉ったのだ。あの帝王は。アーディルは声にもならないのか、空気を吐いて痛みに背を逸らす。
バヤジット二世は脅しているのだ。アシュラフが指輪の在り処を言えないのなら、その重い舌を軽くしてやろうと――アシュラフの父を痛めつける。父王のためにここまでやってきたアシュラフならば、父のために降伏をするだろうというのだ。
拷問に等しいその行為は止まらない。アーディルの苦悶の声だけがうるさい。
「やめてくれ!」
こんなはずではなかった。アシュラフは父王を助け、共に帝国を出るだけのつもりだった。
何故こんな事に。
指輪の元に帝王を案内すればいいだけの事なのに。
アシュラフはすべてを拒絶するように、耳をふさいだ。
真珠の宮殿の庭に、ラピスラズリ色の大きな鳥が倒れていた。巨大な体は普通の鳥ではないとその存在だけで教えている。怪鳥は死んだように動かない。
彼はまだまどろみの中にいた。
声が、聞こえた。
ふいにぴくりと一度動いたかと思うと、スィラージュの意識はゆっくりと浮上する。静かに、だが確実に。
――スィラージュ……――
初めて会ったのは、スィラージュの封じ込められていた水差し越し。アシュラフは半分死にかけて、それでも命を賭して父親を助けようとしていた。
それじゃあ、アシュラフを誰が助ける?
スィラージュはいつからかそう思っていた。
呼ばれたなら、行かなくては。
スィラージュはアシュラフの魔神なのだから。
突然、アシュラフの身がぞくりと震えた。風も吹き込んでこないのに、冷えた風を感じる。背中を競り上がる感覚は寒気にも似ていたが、過去の経験の何かと一致した。
一瞬、青い風に包まれる。
みしりと気のせい程度の音がして、徐々にアシュラフの身は伸びていった。それは信じられない光景だった。小さな子供が何年もかけて行う事を、秒単位でおこなっている。謁見の間の人間全員が目を大きく見開いた。
柔らかで小さな腕はほっそりとした長い手に、短い足は伸びて華奢な足へと変わる。手が大きくなったために縄は緩み、ぶちりと切れた。胸はふくらみ全体的に丸みをおびた体つきになる。頭のターバンはおさえきれずにほどけていった。顎の下ほどの長さの髪はつややかな黒。服は大きくならなかったので窮屈ではあるが、元がゆったりした寸法だったのでアシュラフはなんとか全裸にならなくてすんだ。
そこには小さな子供ではなく、十代半ばの娘が居た。
凛とした瞳は碧玉の色で、アーディルそっくりの眦をしていた。
アシュラフの身分を隠すにあたって男装をするだけにとどまらなかったのには二つの理由がある。より別人に見せかける必要性と、アシュラフの負った傷をふさぐためだ。アシュラフはザフラを出る前に深い傷を追っていた。それを治せないスィラージュは、肉体を小さくすれば傷もまた小さくなるという手立てで傷口を無理矢理にふさぐ事を提案した。子供の姿になったアシュラフは確かに傷も小さくなり、姿形が変わったためにガンナーム配下の者に見つからずに動けるようになった。
今は元の姿に戻った分かなり傷が痛むし腹から血がにじんでいるが、少しは癒えている。
やっとアシュラフは本来の自分の姿を取り戻したのだ。
“彼女”はザフラ王アーディルのたった一人の愛娘、今年十五になるアシュラフ王女だった。
「遅いんだよ……バカ魔神」
ここにいないスィラージュに小さくぼやきながら、アシュラフは拳を握ってバヤジットを正面から見据える。
「ザフラ王唯一の子が十代の娘だっていうのは聞いた事があるだろう。これでわたしがアシュラフだと信じてくれるだろうか」
不利な状況だというのは変わらないとしても、こうして元の姿に戻った今、アシュラフ自身の身分は証明出来たはずだ。無理に笑ってみても、先ほどよりかは何とかなる気がしてくるのが不思議だ。やはり小さな子供のままでいるより、手足の長い姿の方がよい。
「まさか……本当にアシュラフなのか……?」
父王は目を見開いたまま、娘の名を読んだ。奇跡としか言いようのない光景を見せられて、アーディル以外の者は誰一人として口を開けないでいた。自分の身に起きた絡繰りの種が魔術であると知るアシュラフだけはこの好機を見逃す事なく、父王の元に駆け寄る。アーディルを引き連れてきた兵士はアシュラフが近づくと「ひっ」と悲鳴を上げて後退した。どうやら突然の変身をしたために化け物のように思われているらしい。今のアシュラフにとっては好都合だが。
手早く父王の拘束を解くつもりだったが、彼の腕には金属製の鎖がまとわりついており、なかなか外せなかった。
そのうちにバヤジットは我に返る事が出来たようだ。
「何をしている、その者たちを早く捕らえよ!」
訳の分からぬ者が相手では交渉は不必要だと判断したのだろう。大きく手を振って、謁見の間にいる部下たちに命じる。だがそのうちの武人の大半は未だに身動きが取れないか怖気づいた顔をしている。あのサウードですら、目を見開いたまま時を止めてしまっている。
それでも彼らが自分を取り戻すのは時間の問題だろう、実際に今、アシュラフの視界の端で仲間と顔を見合わせて主君の命に従おうと頷き合う者たちがいる。
「わたしがやつらの気を引きます、早く逃げて下さい」
アーディルの拘束は解けぬままだが、だからこそ身軽な自分がこの場に留まって、兵たちの囮になるべきだと判断した。
「……馬鹿を言うな。どこの国に娘を置いて逃げる父親がいる」
はっとなって父王を見上げると、力強い碧の瞳とぶつかる。その顔の隈は濃いままだが、声にも力がこもっていて、アシュラフは思わず微笑みそうになる。身体の状態はよくないものの、心が折れた様子はない。そんな父に安堵するものの、この親子の不利は変わらない。アシュラフは腰に手をやり、剣を抜こうとした。それは空振りに終わる。いつものくせで腰に手をやってしまったが愛用していた剣はどこにもない。もちろん捕らえられていたアーディルにも武器はない。無手での格闘に自信はない。
兵の数人が、アシュラフを奇異の目で見ながらも抜き身の剣を手に近づいてくる。
「くそ……っ、帝国の呪われ者め……」
父を助けられてもここを切り抜けられなければ意味はない――しかしアシュラフはその術を持たなかった。