第1話 ねぼすけの主
こぽこぽこぽこぽ・・・。
心地よい水の音と慣れ親しんだ感触に浸りながら、「彼」はそっと目を開けた。
日の光が僅かに差し込む湖の水底で、水草はゆらゆらと身を任せている。「彼」が体を起こすと、「彼」の凄烈な気が湖一杯に広がっていく。目覚めたばかりの「彼」の恩恵を得ようと、岩陰の傍に「彼」の眷属達が次々と群がってきていた。
「彼」は湖の主。はるか昔から、この湖に住まうものを守ってきた。
「彼」が平和で退屈な高天原から、この湖の底に移り住んだのはずいぶん前のことだ。人間とは比較にならない長い時を生きていた「彼」でさえ、高天原にいたころの記憶は曖昧で霞がかっている。
神代のころから、「彼」が起きているときはもちろん、深く長い眠りに就いている時でさえ彼の清浄な気がこの湖を守ってきた。一度だけ、ある人間の怨嗟でこの湖が壊滅的な穢れを負ってしまったことがあったが・・・。
「我が主よ。」
抑揚のないこの声の主は、蛇体に四肢を有し、細い角と血の様に赤い髭をそよがせ、その背は青い斑点があり、体は錦のような輝きを持っていた。そして、腰から下は全て逆鱗となっており、長い尾の先には大きな瘤がある。「彼」と似て「彼」ではない者。
「蛟か。久しいな。」
「お目覚めになられましたか。あなたが眠りについて、約1000年。少しは心を慰められましたか?」
「うむ・・・。」
「彼」は少し苦い笑いを返した。「彼」が眠りに就くきっかけとなった事件を思い出すと、未だに胸が締め付けられる思いだった。「彼」が引きこもる原因―恋焦がれて強引に手に入れた妻を手放さなければならなかったことーが「彼」の中で重くのしかかっている。
「寝ぼすけのあなたが、あれだけ寝てもダメなのですか。こうなったら・・・。」
かっと蛟の目が光り、手を「彼」にかざした。
この蛟の様子に慌てた「彼」は咄嗟に身構えた。蛟は、「彼」と違って長い時を眠らずに過ごしてきた。ある時は人の子として生きていたことがあり、術を使うことを得意としている。
「蛟。そなた、何をするつもりだ?」
蛟の手から、だんだんと強い光が発せられていく。目覚めたばかりの「彼」は、結界で身を守ることも出来ずにたじろぎながら「彼」の眷属に問う。
「失恋に効く薬は、新しい恋だとあなたの愛妾がおっしゃってました。奇しくも、あなたに合う極上の器が上にございます。」
「何・・・?」
「我が主よ、人の一生など我等にとってはまたたきの間のもの。少しだけ、息抜きをしていらっしゃい。」
主に向かってなんて言い草だ と文句も言う間もなく、「彼」の体は光に飲み込まれた。
最後の光の余韻が消え、蛟はため息をついた。
「今度こそ、あなたに相応しい花嫁を見つけてくださいね・・・。蒼龍様。」
「はぁぁぁぁあ!」
年頃の女性らしくない雄たけびで、天野海月はベットから飛び起きた。なんてことだ、今日は数学のテストがあるのに。こんなときにこんなときに・・・。
長い黒髪を梳きながら、海月は先ほどの夢を思い出す。
蛟によって、人間の体に魂を飛ばされた哀れな湖の主。期限は人の一生分。
その哀れな湖の主、蒼龍。
・・・わたしだ!
自覚してしまった瞬間、走馬灯のように駆け抜ける膨大な記憶。
確信にかわり、海月は脱力し頭を抱えた。
おのれ、蛟よ。
花嫁というならば、何故人間の女の体に私を宿らせた。