9,感謝の告白
暗い林道を抜けた村外れにある茅葺の家。昔はその家をお化け屋敷だと言って、近づく事も躊躇っていたものだった。何故ならば周りは背の高い木々に囲まれていて、昼間であろうと薄暗く、建てられてから相当な年月が経っているので、外装がボロボロだったからだ。
鈴音が最初にこの家へと立ち寄ったのは、まだ三,四歳の幼い頃だった。冒険と称して友達と村を散策していると、村の外れに古い家を見付けたのである。あんなボロボロの家に誰が住んでいるのかと帰ってから母に尋ねたところ、母は明るく「素晴らしい人が住んでいるのよ」とだけ答えた。鈴音は、幽霊屋敷の主人が素晴らしい人だなんて悪い冗談を言われたのだと思い、夜中にこっそりと家を抜けだして、友達数人と幽霊屋敷へ向かった。
明かりのない暗い山林を通り抜ける事には恐ろしさを感じたけれども、好奇心のほうが勝っていた。そうしてお化け屋敷の戸を叩き(皆が恐れたので鈴音が代表して叩くことになった)、鈴音は真剣な表情・真剣な声音で挨拶をした。
「お化けさん、お化けさん。あなたは良いお化けさんですか?」
そうすると寝巻き姿の老夫婦がクスクスと笑いながら戸をゆっくりと開けた。小さな子供達が二人を恐れて蒼白な表情で見上げていると、その当時から白髪を後ろで一つに縛っていた彼が小さな声で脅かすように言った。
「いいや、悪いお化けさんじゃ」
鈴音は家から持ってきた数珠をジャラジャラさせて「南無阿弥陀仏!」だの「南無法蓮華鏡!」だの適当にそれっぽい言葉を並べてみたが、恐ろしい事に老夫婦は笑って鈴音の頭を撫でてきたのである。
その老夫婦こそが古瀬一太郎と、当時はまだ健在だった彼の妻、古瀬おたつであった。
彼の古い家は外装も内装もまるで変わっていない。家の中にある外国の珍品やその配置、流れる空気までもが昔から変わっていないようだ。鈴音はこの時漸く、懐かしい故郷へと帰ってきたのだと実感した。
「そんなに珍しいかの?」
鈴音があまりにも家の中をキョロキョロと見渡すものだから、一太郎が可笑しそうに言った。
鈴音は結局、一太郎の家に今晩は泊まらせて頂くことになっていた。一太郎の誘いを断り切れなかったということも無くは無いが、一太郎ともっと話したいという欲求に負けた事のほうが大きい。彼は博学で見聞も広く、知らない事は無いんじゃないだろうかという印象を抱く程に知識が豊富だった。話せば得るものも多いはずだし、何より十年振りの再会なのだ。会って直ぐさよならでは淋しい。
まず、一番気になっていた事柄を尋ねることにした。鈴音は一太郎が出してくれたお茶を頂いて(何が入っているのか、お茶にはほんのりとした柑橘系の甘味があった)、体を温めてからゆっくりと切り出した。
「あの……この村、赤坂村は昔から伝統を重んじてきた事で有名な古い村でしょう? 何故、住人を一太郎さんしか見かけないのでしょうか?」
一太郎はその問いに「ふーむ」と何か迷うように唸ってから、自分の分のお茶を一杯飲んで答えた。
「そうじゃの、さぞ驚いた事であろう。その話しをするにはまず、生け贄の制度について話す必要がある」
このタイミングで生け贄の制度が出てくるということは、大よそ鈴音が予測した通りの展開がおこったのだろう。事実、大半は予想した通りだったが一部は予期していなかった。
「生け贄は百年に一度の期間で、ある孤独な無人島に……〈神住み島〉と言う名じゃが……とにかく、そこに娘を一人置いて行くという残酷なものじゃ。その娘の家族には莫大な名誉と恩賞金が支払われるのでな、皆がこぞって申し込む」
申し込む……? 鈴音は、聞かされていた話しと違うではないかと、自分の事だというのに酷く冷静に考えた。生け贄は国王が見定めた国中の臣民から選ばれる筈ではなかったのか……。申し込むという事は、家族が娘の命を見返り欲しさに捧げたという事ではないか。そして、つまりはそれが自分だったという事になる。
「最終的には申し込んだ者の中から国王が選んだ者が犠牲になるのじゃが、その際の恩賞というのは家族だけではなくその娘の出身村にも、家族の許可があれば渡す事が出来るのじゃ。もう、分かるじゃろう。この赤坂村にはかつて若い娘が生け贄に捧げられた。その娘の犠牲によって、彼らは上流地区に引っ越したのじゃ--どうかしたかの?」
一太郎はぐったりとしている鈴音に向かって言った。鈴音は「いえ……何でも」と力なく返したが、何でもないわけが無い。鈴音は、想像していたよりも人間は残酷なんだ、と悲しく思った。
鈴音は体に力が湧いてこなかった。全ては偶然ではなく必然だったのだ。わたしは家族に一度殺された身で、国に一度殺された訳でもあるのか……。驚きや悲しみといった感情よりも脱力感の方が大きかった。人は自分の幸せの為になら愛情をバッサリと切り捨てられるのか。それともわたしは家族に……愛されていなかったのだろうか? 生け贄の日に見せた母の涙は何だったのだろう。
「まぁ、楽しい話ではないのぅ……」
一太郎がもう一度お茶を飲みながら言った。そして鈴音はハッとした。何故おじいちゃんはこの村に残っているのだろう。村人全員に与えられた筈である国からの恩賞を、彼はどうしたのだろう? 疑問に感じたときには口に付いて出ていた。
「一太郎さんは、何故この村に残っておいでなのですか?」
一太郎は湯飲みを机に置いて(気のせいか涙ぐんでいるように見える)、言った。
「その娘とわしは知り合いでの。まぁ狭い村じゃから当たり前のことと言えば当たり前なのじゃが。その子の犠牲から生まれた物で、どうやって幸せになれると言うのじゃ」
鈴音は顔を上げた。一太郎は真剣な表情で続ける。
「犠牲で幸せになるというのは、確かに世の中の心理であろう。人間の進化は犠牲を学び、犠牲に学んだ為の成果じゃ。だからこそわしは村人達がどんな暮らしをしようが到底構わぬ。腹立たしい事ではあるが、あの子の犠牲を忘れて生きていくのもよしとしよう」
「じゃがわしはそうならぬ。あの子の顔を忘れぬ、名を忘れぬ、笑顔を忘れぬ。どうせ残り短い人生じゃ。せめて少しでもあの子に報いたい。十年間そうして暮らしてきたが微塵も後悔はしておらぬ」
一太郎は続けて一気に言った。鈴音は、何故一太郎が廃墟となった鈴音の家に来ていたのか漸く分かった。おそらく毎日通っているのだろう。楽に生きる事よりも大切な何かがあるのではないかと、一太郎は考えてここに留まり続けているのだ。
そして、それは何よりもその娘の為、鈴音の為を思っての事なのである。
(おじいちゃん、わたしは生まれ変わったんです……。家族から与えられた昔の名前を捨てて、レインおじさんに付けてもらった名前を名乗り、人間としても鬼人としても生きながら……)
鈴音は暗い気持ちを振り払って優しい口調で切り出した。それは一太郎に対しての感謝の気持ちでもあったし、それよりも大きな気持ち、この人に幸せになってほしいという思いからだった。
「もし……わたしがその娘だったら……」
一太郎が不思議そうに鈴音の顔を見詰め直す。そこに懐かしい娘の顔をみたのか、一太郎は一瞬驚いた表情をした。
「それほどわたしを思ってくれているアナタに、幸せになってほしいと願うでしょう。過去の柵からぬけて、理屈なんか抜きで、ただただ、幸せになって下さいと願うでしょう」
「お主……?」
鈴音は目に涙を溜めながら、一太郎に笑顔を向けた。心の底から溢れ出た笑顔だった。正体がばれても、わたしが生きている事を隠して、この人をこれ以上苦しめたくない。
「わたしは鈴音って言います。でも、昔呼ばれていた名前とは違うんです。わたしは綾乃。音無綾乃って言う名前でした」
鈴音は妙に照れくさくなったが、一太郎は、何を突然言うのかと首を横にゆっくりと振った。
「うん、久しぶり……一太郎おじいちゃん」
一太郎はその呼び方にドキッとしたようで、ジッと鈴音の瞳の中を覗き込むようにして見た。そしてもう一度首を振ると、恐る恐るといった口調で言った。
「まさか……」