6,旅立ちの日
雪がその姿を消した春の初め。鬼の島は元の緑豊かな景色を取り戻し、深緑の森や春の植物達が姿を現している。雲間から顔を出す暖かな太陽の日差しが、緑の島とそこで暮らす鬼人達の心を明るく照らしていた。
今日弥生の十日は鬼人学舎の卒業式である。暖かい風が春の甘い匂いを島全体に届け、自然までもが成人になった鬼人達を祝うように、穏やかな陽気だった。
卒業生七人は、涙を流す者もいれば、胸を張って校長の祝辞を聞く者もいる。しかし、そこにいるべき八人目の卒業生がその場にはいなかった。
卒業式が始まる直前の事である。村長が卒業生達の待機する学び舎の教室に突然現れた。老齢の青鬼である村長は、威厳のある長い白髭を胸の辺りにまで伸ばし、顔に刻まれた深い皺を歪ませながら、ゆっくりと言った。
『すまぬが……鈴音、今すぐに、儂の家に来るのじゃ』
村長の言葉に逆らう事は許されない。正装をしたリアンや赤鬼三人組を含む同級生達は、何事かと皆不思議そうな表情をしている。鈴音は渋々同級生達に別れを告げて、村長の後を着いて歩いた。
村長の家は二階建てで里一番に広く古い。とてつもなく大きな村長の家屋、その一室で、鈴音は姿勢を正して村長と向かい合い、話しを始めた。
『どうか……なさったのですか?』
鈴音は厳しい顔をしている村長の顔を見て、緊張しながら言った。心臓の鼓動が高まる。
『茶も出さずにすまんの。お主が人間の土地へと渡る日を告げねばならん』
この島を離れる日。皆と別れる日を、鈴音は想像して悲しい気持ちになった。でも、これは自分で選んだ道だ。鈴音は真っ直ぐに村長を見て尋ねた。
『何時ですか?』
『今日じゃ』
村長の思わぬ返答に、鈴音は『え?』と聞き返した。すると、村長は申し訳なさそうに続けた。
『すまぬ……しかし、これは鈴音、お主の為を思っての事なのじゃ……』
鈴音はどこか遠くから村長の声が聞こえるように感じながらも、姿勢を崩さずに村長の話しを黙って聞き続けた。
『太陽国の人間の船が、島の周りをうろついておる。理由は知らんが、奴等は定期的にやって来ているようじゃ。鬼イルカ達は、相当に気分を害しておるじゃろう。鈴音、お主は早急に彼等との仕事を終わらせなくてはならん。鬼イルカ達は、お前もよく知っている通り……気分屋じゃ』
『でも、今日じゃなくても……』
『交渉次第でイルカ達は何とかなるやもしれん。しかし、島の周辺をうろつく人間に、儂達鬼人がこの島に居ることを悟られてはならん……。そのためには、人間が姿を見せぬ今日が機会なのじゃ』
鈴音はそこで、はっとして声を上げた。
『三日前は……国王の誕生日……』
村長は頷いて答える。
『そうじゃ。奴等は、王の生まれた日に海に出る事はせん。太陽国からこの島まで四日。その間に、お主はこの島を離れるべきじゃ。すまぬ、もっと早くに告げるべきじゃった』
この三日の間に告げる事が出来なかったのは、言い出せなかったからであろう。卒業という祝い日に、皆と別れなければならないなんて……。
それでも、鈴音はにっこりと笑うと、急いで立ち上がり、村長にお辞儀した。
『有り難うございます。準備して来ます』
村長は鈴音の態度が意外だったらしく、呆けている。鈴音は村長の広い家を出て、今日別れを告げる事となった、我が家へと急いで向かった。
家に帰るとおじさんが驚いた様子で鈴音を出迎えた。
『どうしたんだ?』
鈴音は息を切らしながら、村長に告げられた事を説明した。おじさんはその間口を挟まずに、鈴音の話しを聞き続けた。
『そうか……そうか……。また、人間の都合か……』
『仕方ありません。それに、わたしはこれで良かったと思っています』
鈴音は一ヶ月前から準備していた荷物を整理して、鬼蚕の糸から作った衣のまま、袋に必要な物を入れつつ言った。
『何故だ……?』
おじさんは怪訝そうに眉を潜める。鈴音は今や、パンパンになった袋を持って立ち上がった。
『ひっそりといなくなった方が、皆に迷惑を掛けないで済むでしょう。おじさん、わたしが去っても、今日は誰にもこの事を告げないで下さい。せっかくの祝い日なんですから。わたし、鬼イルカのカイン達に事情を伝えて来ます。卒業式が終わるまでには、もう一度帰って来れると思います』
鈴音はそう言うと、急いで海岸沿いに向かった。
その日の昼。鈴音はカイン達(鬼イルカ)に事情を告げ、急いで里に戻ってきた。しかし、不思議な事に、そこには誰もいない。おじさんもアンおばさんも、誰の人影もなかった。皆、卒業式を見に行ったのだろうか。最後に挨拶をしたかったのに……。
『よう、人間』
鈴音は声を掛けられて、後ろを振り返った。そこには、アンおばさんの白い飼い鬼犬、アードがいた。
『……結局、名前覚えてくれなかったね』
鈴音は、少し笑みを浮かべて、アードを愛しそうに見詰めながら言った。
『皆、何処にいったのかな……せめて、叔父さんとリアンには、挨拶したかったのになぁ……』
空を見上げながら言う鈴音に、アードは、何が可笑しいのかクスクス笑っている。
鈴音が怪訝な顔をすると、誤魔化すようにアードが言った。
『まぁ、人間。鬼人にも事情があるのさ。さぁ、この家にも、お別れを言いな』
『どうして、今日わたしが島を出ていく事……知ってるの?』
鈴音が首を傾げて言うと、アードは妙に焦って、何か思いついたように言った。
『鬼犬の聴力は凄いんだよ』
鈴音は無理に納得して、『そう……』と微笑み、我が家に向かって丁寧にお辞儀をした。十年間の思い出を、胸に秘めながら--。
鈴音は大きな広い森をアードと共に抜けた。途中、叔父さんと初めて出会った巨樹にも行き(島で育つ内にこの巨樹は御神木だと知った)、赤い小さな猛毒の実を見て、懐かしそうに目を細めた。
海岸の小さな木製の船には既に荷物を置いてあり、遠くのほうでは鬼イルカ達が泳いでいる。取り敢えず、浅瀬を出て鬼イルカが泳げる場所まで、小船を漕いで行かなければならない。
鈴音は振り向き、砂浜に座っているアードを見た。
『お別れだね……』
鈴音は泣きそうになり、顔を俯けた。ここに来るのは、自分の運命を悲しんでいた、あの時以来だ。
鈴音は船に乗り込み、櫂を持った。
『人間。イルカ共のいる場所まで漕いだら、振り返ってこの島をもう一度見ろ』
アードが別れ際にそう言った。鈴音はその言葉に疑問を感じたが、ただ『うん』とだけ返した。言われなくても、最後に島の姿を見ようとは思っていたのだ。
『バイバイ。またね』
鈴音はそう言って、櫂で漕ぎだした。中々力のいる作業だったが、鬼イルカが泳げる場所まで、止まる事無く漕ぎ続けた。
『やあ、鈴音。さぁ、俺とケインの角に縄をくくれ』
小舟よりも更に大きな体躯の、鬼イルカのカインが言った。隣にはカインの弟であるケインもいる。鈴音は言われた通り、頑丈そうな二匹の角に、小舟と繋がる太い縄をくくった。
『よろしくね。カイン、ケインさん』
カインは『ほいよ』と返事をし、ケインは無言で、頷くような仕草をした。ここから一番近い人間の島まで二日掛かる。目的地の太陽国へは、そこから人間の船に乗って、更に二日掛けて行く予定だ。
鈴音は小舟の座席に座って、櫂をしまった。そして、最後に緑の島を一目見ようと振り返った。
鈴音は、そこに広がる光景に驚嘆した。
おじさんや、リアン、アンおばさんや、同級生の皆…それだけではない。村長に赤鬼達、鬼猪の軍団に友達の鬼鳥も、島中の鬼達が、海岸に何時の間にか集まっている。手を振っている者や、鬼の文字で『いってらっしゃい!』と書かれた幕を掲げている大人達。姿は見えないが太鼓を叩いている者もいるようで、ドンドンと音が聞こえる。
『無事に帰って来いよ!』
リアンの声がした。鈴音は顔を俯せて涙を着物の袖で拭った。手が震え、嗚咽が止まらなかった。
『鈴音……』
カインが何か言い掛けて、ケインがそれを制した。鈴音は立ち上がって、今まで出した事のないような大声で叫んだ。
『絶対! 変えてみせるから! 皆が故郷に帰れて、皆が笑顔でいれる世界に!』
鈴音は笑顔で、涙を目に溜めながら、手を振った。
二匹のイルカが泳ぎだす。鈴音は島の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。