57,神樹の下で
鈴音はレインの話を聞き終え、心に残った苦々しい思いに抗っていた。人々が作り上げた地獄。鬼人が導いた償いの歴史。それ等に意見するには自分がちっぽけ過ぎる。
目の前の男は、自分の恩人であり、家族であり、過去の復讐者。彼は立ち尽くし、鈴音が言葉を発するのをひたすら待ち続けている。しかし、彼女にはかけるべき言葉が思い浮かばない。何を言えと言うのだろう。わたしの言葉は余りにも儚い。
鈴音はレインと向かい合い、沈黙を続けた。冷たい風が二人に吹きつける。グルルの血が着物に染み込み、肌に感じられた。鬼と人間の争い。それは共生という形で今のところは落ち着いている。
それでもおじさんの一言で、きっとその絆は簡単に崩れ去る。
そして一度崩れた絆を繋ぐ事はもう永遠に出来ないだろう。
おじさんは言っていた。私は怨恨を崇拝していると。それは病のように彼を蝕み、永劫回復する事はない。ならば彼の言うように、ここでおじさんを、私が罰するべきなのだろか。そうして絆を維持するべきなのだろうか。分かっている。そんな事が出来る筈はない。
鈴音の夢の原点はレインの存在が大きい。彼の為に鈴音は努力を積み重ねてきた。その結果たくさんの幸せを得た。そんな鬼を、邪魔になったから消せと言うのか。考えられない。困惑の中、鈴音は意を決して口を開けた。
『わたしは……綾乃として生きる道を捨てました』
レインは微笑みを湛えた表情でゆっくりと頷く。
『貴方に与えられた名前……鈴音としての生を歩む事を選んだ……鬼人と共に生きたいと願ったからです。ここまで来るのに、わたしは友人を失いました』
鈴音はレインの覚悟の瞳を見つめ続けた。だからこそ、その瞳が僅かに動揺を表した事にも気が付いた。
『わたしは人の世界で生きて、幸福や友情、愛や悲しみ、死や生を学びました。どれもわたしが、無意識の内に、人間達に諦めていた部分です。それでも彼等は示してくれました。生きる為に理不尽な世界に抗い、過去を後悔し、償っていく姿を。苦しくても悲しくても進んでいく、人間の姿を……だから……』
鈴音は息を吸い込み、告げる。
『それを崩させやしない。貴方の信念を……否定してでも!』
レインおじさんは表情を変えずに頷いた。その言葉を待ち望んでいたかのように。
瞬間……鈴音は背後から力強く引っ張られ、状況を理解できないまま首筋に刃物を当てられた。知らぬ間に、貧相な身なりの男が鈴音の背後へ向かい、彼女を捕らたのだ。気が付くと、数十人の一団が、武器を構えて森に侵入していた。
鈴音は男を振り払おうと身体を揺すったが、男はニヤニヤと笑いながら更に刃物を強く当てる。鋭い痛みが走り、首から血が僅かに流れた。
「あーあ、通じるか?」
槍をレインに向けた男が、拙い話し方で尋ねた。鈴音は瞬間、即座に理解する。彼等は外国の戦艦に乗っていた人間達だ。太陽国を襲撃する拠点として上陸したのだろう。鬼人がいるとは知らずに。
鈴音は恐れながら、レインおじさんの様子をチラリと伺った。おじさんは怒りと憎悪に燃える表情を浮べ、顔に刻まれた多くのの傷からは憎しみが溢れている。鈴音は必死に首を振った。止めて、争わないでと。
『何故だ。連れ去られたら何をされるか分からないぞ!』
理解している。このまま抵抗もせずに連れていかれたら、悲惨な未来が、人間としての尊厳を握り潰された道が待ち受けている事だろう。それでも、もう誰かが争い合う姿は見たくない。外国人達はまだ鬼の存在を恐れて何も行動を起こさない。このまま自分一人が連れていかれたら、この島から彼等は暫く身を引く筈だ。
『おじさん……わたしね』
鈴音は捕われたまま話し始めた。男はますます強く刃物を当てたが、全く気にもならない。
『おじさんのことが大好きです。だから、もう争わないで下さい……』
男の「だまれ」という言葉と共に、鈴音の腹に拳が飛んできた。痛みが走り、呼吸が詰まる。それでも話しを続けた。
『わたしは一時期、愛って何かなって、考えていた事があります』
頬を殴られ、口が切れる。血の味が舌に広がっても、鈴音は構わず話し続けた。レインは拳を握り、歯を食い縛って憎悪に耐えている。
『わ、わたしは自分なりに答えを出しました。……愛するって、誰かの幸せを、無償に願うこと……だから……』
男が再び鈴音に拳を振るう。レインは武器を構えている人間の一団を襲おうとして、思い留まっていた。只管 暴力に耐える娘の願いを叶える為に。拳から血が滲む程怒りを堪えている。
『だから、幸せに生きて下さい。もう、誰とも争わないで……』
レインは目をカッと開いた。何かを悟り、衝撃を受けたように、小さな声で彼は言った。
『すまない、鈴音』
鬼が言葉を発し、外国人に緊張が走る。突然、剣を構えた男の一人が宙に舞い上がり、地面に叩きつけられた。人間の誰もが反応しない間に、レインは五人の敵を排除していた。青い鬼は、戦士として叫んだ。
『もう私の大切な者を、誰にも奪わせはしない!』
戦闘が始まる。鈴音を捕らえていた男は鈴音を突き飛ばして争いに参加した。レインは武器を圧し折り人を蹴飛ばし、あらゆる手段で敵を圧倒していく。力の差は歴然だった。
鈴音はその様子を歯を食い縛って眺めている。止められなかった……わたしには。そう思った瞬間、レインの身体を槍でついた者がいた。血が飛び散り、レインはその槍を追って、逆に人間の身体に突き立てた。
ああ……止めて……お願い。もう闘わないで……。どれだけ強く願っても、争いの音は消えない。レインの身体には傷が増えてきた。大きな無力感。自分は何も出来ない。大切な家族が死んでしまう。
『やめてぇぇぇ!!』
鈴音が叫んだ時、既に勝敗はついていた。生き残った数名の外国人は逃げ去っていく。屍の転がる森の中に立つのはレインただ一人。身体を血に染め、荒い呼吸で佇んでいる。
鈴音は足を踏張って立ち上がり、おじさんの近くに寄り添った。おじさんは鈴音の頭を二度ポンポンと叩くと、膝をついてその場に倒れる。鈴音は必死におじさんの身体を支えた。わたしの家族……誰よりも、誰よりも大切な人。
横たわったおじさんの頭を、鈴音は膝で支える。身体にある新しい傷はとても深い。助からない……直ぐにそう悟った。
おじさんはしばらくすると瞼を開け、鈴音を見上げた。神の樹下、微かな呼吸で胸を上下させ、虚ろな瞳で自分の娘を見つめている。そして、か細い声で言った。
『結局……私は……恨みに支配された……愚かな鬼人……きっと彼等も……私を許しては……くれないだろう』
鈴音は溢れる涙を堪える事は出来なかった。こんな運命を誰も望んではいなかった筈だ。震える声でなんとか言葉を紡ぎ、答えた。
『例え世界中の誰がおじさんの事を許さなくても……』
レインは不思議そうに自分の娘を見つめる。鈴音は無理に湛えた微笑みを浮かべて言った。
『わたしは、おじさんの事を愛しています』
レインも静かに微笑みを返した。そして鈴音と手を繋ぎ、瞼を閉じた。鈴音はおじさんの頭を支えながら、そっと尋ねた。
『貴方は人のことを恨んでいますか?』
『ああ……』
『なら、わたしのことも?』
『いいや……』
『……なんで……』
『お前を愛しているからだ』
強い風が吹いた。大木の枝に付いた青い葉や、地面に落ちた枯れ葉達が宙に舞う。冷たい風が、鈴音とレインに強く吹き付けた。