55,描いた軌跡
『グルル!』
鈴音は目の前に起きている現実をようやく受け止めると、大きな声で叫んだ。グルルの黒い身体に突き刺さった木片。黒々とした血液が流れ、赤い瞳からは生気が失われていく。
死んでしまう。兵隊の槍をモノともしなかったあのグルルが……死んでしまう。あれだけ優しい鬼熊が、友達か、こんな突然に。
『ダメ、ダメ、ダメ! 死んじゃダメ!』
鈴音は大声で叫んだ。強烈な無力感が心を包み、信じられない現実に身体が萎えてしまう。それでも自分の着物の袖を破り、グルルの深い裂傷を抑えた。
『大丈夫……グルル、大丈夫だよ。まだ鬼人に助けてもらえる』
『いいや、もういい』
グルルは鈴音の涙を見つめなが呟いた。あれだけ雄々しい叫びを上げていた彼が、なんと弱々しい声を出すのだろう。鈴音は首を振って、必死で訴えた。
『大丈夫……大丈夫だからっ……』
『お前は大した奴だ。だから立ち止まるな。驕る鬼人の下へ向かえ』
グルルはフフンと笑みながら言った。鈴音は歯を食い縛る。そんな事が出来る筈はない。今まさに、気高い命が、優しい心が消え去ろうとしているのだから。大切なんだ。ずっと助けてもらっていたんだ。助けなきゃいけないんだ。
塩水が血を洗う。鈴音はグルルの傷を必死に抑えながら泣いていた。グルルはどこか安らかな表情を浮かべている。辛い筈なのに、彼は笑って話すのだ。
『お前は俺様との約束を果たし、夢を叶えた。お、俺様をお前を認めよう。だ、だ、誰よりも誇り高い種族のお、俺様が認めたんだ。さぁ、進め……進め!』
グルルは吠えた。迷いもなく後悔もない。誰よりも偉大な姿。鈴音は耐えられなかった。血の滲んだ唇を動かし、泣き叫んだ。
『グルル! わたしは貴方のおかげで、自分の道を歩めた! 貴方の……貴方の……有り難う……ごめんなさい……』
鈴音はグルルの身体に抱き付いた。それが自分に出来る最後の行いだと思った。グルルは力なく笑うと、曇った空を眺めながらボソリと言った。
『ああ……お前はそういう奴だよ……』
それが、鈴音が愛した鬼熊の最期の言葉だった。鈴音はグルルが息絶えた後も、彼の身体に縋って泣き続けた。始めてこの島に訪れた時と同じように、いくら涙を流し続けても、その悲しみと喪失感が癒える事はなかった。
日暮れ……鈴音は立ち上がり進み始めた。あの人と始めて出会った場所へ。人喰らいの長のもとへ。身体は至るところに傷が刻まれ、着物は所々破れてグルルの血で赤く染まっている。
神樹の森。綾乃が死に、新たに鈴音としての道を歩き始めた場所。生命の園。
力強く立派に聳え立つ見慣れた樹木達。それらが枝に付ける青々とした葉には、生命のきらびやかな力が輝いている。鬼達が愛した木の香りが森中に漂う。湿った地面や落ち葉、折れた枝の上を歩く感触。何度も何度も繰り返して覚えた花々や動物達。
鈴音は一歩足を踏み出す度に、たくさんの記憶を思い出していた。
人の土地での思い出……家族に愛され、裏切られ、時を経て椎名と出会い、一太郎と再会した。椎名と旅をして、お千代に現実を教えられ、懐かしい友達の姿を見た。そしてグルルと出会い、富沢夫妻の協力を経て、彼を救い出した。
一太郎に導かれ、教師としての道を歩み始めた。昇太、成子、仁に支えられ、栄作からたくさんの事柄を学んだ。人喰らいと出会い、現実の理不尽さを学び、茶子から愛を教えてもらった。
兄と再会し、夢へと続く道を歩むことに決めた。国王と日々間に助けられ、少しずつ進んでいく。計画は成功や失敗を繰り返し、それでも生きる事を望んで、遂に夢は叶った。
鬼達との思い出……絶望の中でレインおじさんに救われ、リアンのおかげで鬼人の学舎に通えた。たくさん遊んで、学んでを繰り返し、世界の事を学んでいく。そうして、夢が芽生えた。
赤鬼に酷い扱いを受けても、たくさんの鬼人達が励ましてくれた。カイナを救い、鬼猪の信頼を得ると、鬼動物の友達が一気に増えた。たくさん話して、たくさん笑って、いつの間にかこの島が故郷に、鬼人が家族になっていた。
鈴音は歩く。目的の地に意味があるかは分からない。それでも歩く。グルルを失った。バルドは決断した。レイピアは憎悪の中でこの世を去り、一太郎は愛を遺して鈴音に託した。
人喰らいの長……彼が何を考えているにせよ、その組織はもうなくさなければ。鈴音も決断した。この争いで、もう誰も失わせない。百年の連鎖は終わった。新たな絆を、誰にも崩させやしない。
神樹が見え始めた。巨大な森の王。樹下には猛毒の赤い実をつけた植物が生えている。鈴音は足を止め、神樹の影にいる鬼人を見た。驚きはしない。予想していたからだ。しかし苦しい。胸の奥が燃えるような感情が心を蝕む。鬼人は青い瞳をこちらに向けながら、しわ枯れた低い声で流暢に話した。
『大砲の音が聞こえたが、また争いが始まったのか?』
鈴音は目を伏せながら『気にしないで下さい』と答える。鬼人は優しく微笑むと『そうしよう』と返事をして、続けた。
『この島が何故人喰い島と呼ばれ、何故私達の組織が人喰らいと呼ばれるか、教えよう』
鈴音はジッと睨み付けるように鬼人を見つめた。彼は目を伏せて続ける。
『この島に始めて私達が足を踏み入れた時、島の森の中でも一際巨大な樹木の周りに、手を繋ぐようにして倒れる人間の白骨が六体あった。皆豪華な着物を来て、死んだ年齢もバラバラ。最も古いもので七百年程前の遺体が、何故か地面に埋もれる事もなく捨てられていたのだ』
鈴音はつい神樹の周りを眺めていた。鈴音の前の巫女達……きっと白骨となった先代の手をつないで、自分も朽ち果てていったのだ。国から死を望まれた、その余りの孤独から。
『白骨の周りには赤い実が生えていた。それを口にした若い鬼人は苦しみに狂って死んだ。当時、私達はその実が、少女達の呪いから生まれた物だと考えた。しかし、実際はどうなのだろうな? この実はお前に鬼と話す力を与えた。そんな代物が呪いと言えるか? ……ともかく、そうしてこの島の名が決められた訳だ。人を食う島……そのままだな』
鬼人の話を聞き終えた後、鈴音は一歩前進した。神樹の前で、人喰らいの長を見つめながら。必死な表情だ。深い思考に行き着く事は出来ない。それでも呟いた。
『どうして? おじさん……』
レインはフッと鼻で笑った。苦々しい思いをしながらも、どうしようもない現実の前に吹っ切れたような笑みである。彼は改めて言った。
『待っていたぞ。さぁ、話そう』
二人は向かい合って立ち、話し始めた。