54,約束の果てに
バルドの死は仲間達へ事前に告げられていたらしい。彼が自決を図った日の夕暮れ、元人喰らい団員達が和傘村に訪れ、彼の遺体を引き取った。鈴音は誰かに抱えられて自宅に帰されたが、その人物が何者かも覚えていない。バルドの血の臭いは何故か湯浴びをしても取れなかった。
鈴音はそれから数日間を悪夢にうなされながら、鬼イルカ達や、約束を果たす為にグルルとも連絡を取って神住み島に向かう計画を練り上げた。学舎には長期休暇を申し出て、出来るだけ時間を作った。
鈴音は夜中に家を出て、グルルとの待ち合わせ場所に向かった。不意に目を瞑れば鬼人が自ら首を刀で突き刺す光景が浮かび上がる。幻影を振り払うにはまだまだ時間が必要だ。
鈴音が花宮村から月影村に繋がる林道へ向かうと、既にグルルは準備万端な様子で林に隠れていた。グルルは鈴音を見付けるや否や不思議そうな表情をして尋ねた。
『お前、身体の調子悪いのか?』
鈴音は無理に笑んで首を横に振ったが、どうやら誤魔化しに失敗したようだ。グルルの背に乗り北側海岸に向かう間、グルルは頻りに鈴音の様子を気に掛けてくれた。
道中は人のいない道を選び、北側海岸でも人間は誰一人見掛けなかった。鬼人が盗み出した船というのはなんと巫女の船であり、鈴音は鬼イルカ二十匹の協力を要請していた。船を盗みだした鬼人の集団は、『主はお前に一人で来てほしいのだ』と低い声で言うと、そそくさと帰っていった。
鈴音は感謝を告げながら鬼イルカの大群と巫女の船を綱で繋げて、出発するように頼んだ。馬力のある鬼イルカ二十匹に引っ張られ、船は凄まじい速さで進み始める。
天は暗雲に覆われ、海は酷く荒れていた。鬼イルカにとっては嵐など大した障害にはならないが、船に乗っている鈴音は波に揺られて気分が悪くなり初めていた。グルルはその様子を可笑しそうに伺いながら話す。
『ようやく帰れる……全く長い観光だった』
鈴音は並々ならぬ速さで泳ぐ鬼イルカ達を眺めながら、吐き気を我慢しつつ頷いた。一応『時間が掛かって御免ね』と話したが、グルルに聞こえたかどうかは分からない。
この暗い天気、海の荒れ方、巫女の船、神の住む島……鈴音は否応なく生け贄の日を思い出した。死を覚悟した辛い過去。全てが始まったあの日。力なくただ涙を流すしかなかった幼き自分の事を。
人喰らいの長が何故自分を呼んだのか、それは全く見当がつかない。しかし、鈴音はその長が一体何者なのか何となく分かっていた。だから無理をしてでも進もうとしている。彼が何を伝えたいのか理解しなければならないからだ。
グルルは気分の悪そうな鈴音の隣に座り、妙にソワソワとしている。鈴音が不思議そうな表情で鬼イルカからグルルに視線を移すと、グルルは照れながら話し始めた。
『その……なんだ。お前は滅茶苦茶な奴だし、変なところがある』
鈴音は口もとを抑えながらジッとグルルを見つめ、何でそんな事を言うんだと瞳で訴えた。グルルは自分の頭を鋭い爪でガリガリと掻いて続ける。
『おかしな奴だよ。でも大した奴だ。全部変えちまった。最初はただの戯れ言だった夢が、今じゃ一つの国の基準になってる』
鈴音はグルルらしからぬその言葉に驚いていた。彼は心の底で何を思っていても言葉にはトゲを作る。そんな彼が自分を褒めてくれているのだから。
『もう約束は守られるだろう。だから先に言っておく……有りが……あーー有り難う』
グルルは赤い瞳をどこへやらに向けながら告げた。鈴音は自分の数倍もある黒い巨体に勢いよく抱きついた。グルルは困惑しながらも避けるような素振りは見せなかった。鈴音は酔いを我慢して、心の底からの微笑みを浮かべて言った。
『お礼を言うのはわたしの方。有り難うグルル。貴方のおかげで夢が叶った。貴方のおかげでとっても楽しかった』
グルルの温かさが腕に伝わる。瞳を閉じてもバルドの悪夢は浮かんで来なかった。貴方には勇気をたくさん貰ったんだ。心の底から感謝してる……
巫女の船は交易島を通らずに真っ直ぐ神住み島に向かう。鬼イルカ達の底知れぬ力と、巫女の船の頑丈さが成せる行動だ。本来四日間かけて終わる旅は僅か三日で済んだ。
『鈴音! もう着くぞ』
船を引っ張っている鬼イルカのカインが叫んだ。鈴音は返事をして客人の部屋を出て甲板に向かう。外にはグルルが、懐かしい緑の島を何とも言えぬ眼差しで眺めていた。
『帰ってきたね』
鈴音が潮風を受けながらグルルに告げると、彼は何も言わずに小さく頷いた。グルルの長い旅はここで終わる……鈴音は途方も無い寂しさを覚えながらも、人喰らいの長との対面に備え、覚悟を決めた。
その時、鬼イルカ達が騒つき始めた。その様子を受けてグルルが、次いで鈴音が奇妙な違和感を覚える。何故か心が落ち着かない。そしてその原因が、島の影から現れた。
それは他国の旗を掲げた巨大な戦艦だった。太陽国の領海に無断侵入している。鈴音が行動を起こす前に戦艦は巫女の船の横につき、砲撃を始めた。戦線布告だ。
木片が飛び散り、甲板に大きな穴が開く。船は大きく揺れ、鬼イルカ達の叫び声が上がった。
鈴音は工具室から屶を持ってきて、鬼イルカの角に繋がっている縄をグルルと共に断ち切り始めた。鋭い木片が頬を切り裂く。しかし痛みなど気にしている場合ではない。何度も転げて全身を激しく打ちながら、二十本の綱を全て切り離した。
その頃にはもう巫女の船は至る所が燃え上がり、原型をとどめていなかった。太陽国一偉大で豪華な木船は廃材と成り果て、海に沈み始める。鈴音は身体の痛む箇所を抑えながら、辺りを見渡した。どうにか出来る手段を……道具を……何もない。術はない。
戦艦は大砲を打つ。その度に船は砕かれ、潰されていく。鈴音は大砲の音を、船が抉れる音を聞きながら、硝煙と火薬の臭いを嗅ぎ、震動する床を感じた。そしてグルルを見つめると、戦艦の音に負けじと叫んだ。
『逃げて! わたしは放っておいて! 貴方だけなら島まで泳いでいけるでしょう!? 早く!』
グルルは木片を避けながら、鈴音を見つめ返して大きな声で叫んだ。
『鈴音!! ジジィの言葉を忘れたのか!!』
……お主は愛されておる……でも、この状況では助かる生命は助けなければ……わたしはただの足手まといだ。鈴音は首を振ってもう一度『行って!』と叫んだ。その瞬間船を狙っていた砲弾は帆を狙い、鈴音は爆風を浴びて吹き飛び、頭を打って意識を失った。
鈴音は往来する潮が自分を海に引き込もうとする力を感じて気が付いた。砂浜だ。かつて船だった膨大な残骸が海から流されてきている。鈴音は痛む身体で立ち上がって辺りを見渡した。海の遠くに崩落する船と、未だに砲撃している他国船が見える。
グルルはどこに……鈴音が一歩足を踏み出すと、身体は平衡感覚を失って倒れた。しかし鈴音は張ってでも進んだ。身体の怪我など大した問題ではない。グルルの姿を見付けなければ。
『グルル! グルル……どこ……お願い、生きていて』
鈴音は知らぬ間に叫んでいた。グルルがいなくなるなんて考えられない。やっと約束が、あの子の夢が叶うところだったのに。
白い砂浜に黒い巨体が見えた。鈴音は祈りながら張ってそこに近付く。それは大の字に倒れたグルルだった。グルルは赤い瞳で鈴音を見ると、ニヤリと笑った。鈴音は涙を浮かべながらグルルの身体に腕を延ばすと、安心感に包まれたまま言った。
『グルル……わたし達生きてる……生きてるんだよ』
グルルはフフンと笑って四足で立ち上がると、鈴音を見つめたまま擦れた声で言った。
『なぁ……俺様は』
鈴音はグルルを見上げて首を傾げる。
『約束を守る奴は、嫌いじゃない』
そういうとグルルは横に倒れ、荒い呼吸で苦しみ始めた。鈴音は言葉も発する事が出来ずに、ただグルルの脇腹に刺さった巨大な木片を呆然と見詰めた。