53,人喰らい首座
皐月の初め、鈴音のもとに一通の手紙が届いた。住所は人間の丁寧な文字で書かれているが、本文は鬼人の乱雑な文字で書かれている。鈴音は一瞬、これは外国語ではないかと勘違いして読むのを諦めた。暗号の連なりのような文字の羅列を苦労して読み取りながら、最後に書かれていた差出人の名を見て衝撃を受けた。バルド……人喰らいの支配者だったからだ。
内容を簡潔にまとめると『出来るだけ早く和傘村に来て欲しい』というものだった。鈴音はそこで首を傾げる。確か和傘村にはもう鬼人も住んでおらず、真の廃村と化した土地だと噂で聞いていた。バルド本人も北側海岸で人間と一緒に漁業を営んでいる筈……何故今更草臥れた廃村に来て欲しいと望むのだろうか。
鈴音は未だに馬に乗れない。怪我は日を増すごとに治っていくが、まだ小さな衝撃を受けただけでも身が捩れる様な痛みを味わう。よって御者を雇って馬車で和傘村に向かう事に決めた。
和傘村の入り口に、バルドは一人でズッシリと佇んでいた。鈴音は馬車から下りて御者に礼を言うと、バルドのもとへと急ぎ足で駆け寄った。バルドは表情を固めてジッとこちらを伺っている。鈴音は何かあったのだろうかと不安そうに尋ねた。
『どうかなされたのですか? 人についての相談ですか?』
バルドは傷だらけの顔を歪め、首を横に振った。怒っている様にも見えるが、何かを堪えているような表情でもある。彼は一言も話さずに汚れた廃屋に向かい、鈴音はその後をついて歩いた。廃屋の中は埃まみれで畳は腐っており、天井には大きな穴が空いている。一歩進む毎に不快な感触が足に伝わった。
『あの……どうされたのですか?』
鈴音がもう一度尋ねると、バルドは腐った畳の上に躊躇なく座って笑みを浮かべると、鈴音の瞳を覗き込むようにして話した。
『お前、俺が人喰らいの何だと認識している?』
鈴音は予想していなかったバルドの問いに一瞬戸惑いながらも、思った通りに答えた。
『長ではないのですか? 組織の……』
『残念ながら、俺は人喰らいの長ではない。太陽国を任されている人喰らい団員の長ではあるがな』
鈴音は目を開いた。その可能性は確かに考えていたし、人喰らい代表の者と交渉をするに当たって失敗する要因の一つに捉えていた。しかし現にバルドが自分の主張を認めてくれたから人喰らいは演説の際に協力してくれた……更には世界中の人喰らいは活動を静止した筈だった。
『貴方は独断でわたしに協力を? ならば何故、世界中の鬼人は行動を止めたのですか?』
『そう結論を焦るな。いいか、俺は独断で判断などしていない。お前が我々と交渉する前日、主から手紙を頂いた。:鬼の言葉を話す人間が交渉を持ちかけて来たら、その意見を尊重しつつも、お前の思いで投票しろ。会議の票結果は五分五分だった。お前の意思で結果は決まる:とな』
鈴音はバルドの言葉に耳を疑った。鬼人は誰かに従うことを嫌う種族であり、特にバルドのような性格の赤鬼が『主』という言葉を使うなど考えられない話だ。人喰らいの長……それほど慕われる人物という事なのだろう。
バルドは懐から煙管を取り出して吸い始めた。その表情は使命感に満ちている。口から煙を大量に吐き出して続けた。
『本題だ。主からお前に言葉を授かった。我々が出会った島で待つ。一人出来てほしい。それだけだ』
つまり自分と人喰らいの主は顔見知りだという事か……鈴音は悲しく思った。自分の想定した嫌な予感が尽く当たってしまう。鬼人と知り合った島など一つしかない。神住み島・人喰い島……しかしその島に渡る手段はない。鈴音がそう考えた瞬間、バルドはそれを読み取ったかのように言った。
『我々が人間の船を盗んだ。それに乗って行け。北側海岸に用意してある』
『待って……』
『お前は鬼イルカと仲が良いのだろ? 奴等に引っ張て行って貰えばいい』
『待って下さい! 貴方達はわたしをその鬼に合わせてどうするつもりなんですか?』
鈴音の問いに、バルドはニヤリと笑んで立ち上がり、家屋を何も言わずに出た。その表情には清々しいまでの達成感が刻まれている。鈴音がその姿を追い掛けていくと、バルドは神を崇めるかのように曇天を見上げて呟いた。
『お前は俺に聞いたな……何の為に戦うのか』
鈴音は反応しなかった。バルドの様子が奇妙だった為だ。片目の赤い瞳も、巨大な体躯からも危険な空気を発している。彼は煙管を放り投げて不適に笑った。
『俺は答えた。鬼人の為だと。お前はそれを否定した。貴方の行いは私欲の暴力だと……改めて考えてみると、答えはそのどちらでもない。我々の全ては、あの人の為に』
バルドはそう言うと懐に隠し持っていた短刀を取り出し、自分の首に思いっきり突き立てた。鈴音が反応をする前にバルドは仰向けに倒れ、曇り空を眺めながら息絶えた。
目の前に突然起こった事実が、遠い物語のように見える。鈴音は息絶えた鬼人の名前を震える声で呼びながら、ゆっくりとバルドに近付いた。バルドの亡骸は天を虚ろな瞳で見上げている。首に突き刺さった短刀、おびただしい出血。血の臭いが鼻につき、彼女は耐え切れずその場に膝をついた。
『バルドさん……』
崩れ落ちた巨体の首からは、まだ血液が溢れ出ている。何故彼が死を選んだのかは分からない。人と歩む道を拒んだのか……過去への償いか。幾ら思案したところで答えなど出なかった。確かな事はただ、彼が自決したという事実だけである。
『だ……誰か、呼ばなきゃ……』
鈴音は真っ青な顔で呟き、どうにか立ち上がろうと足に力を入れたが動けなかった。冷静になろうと努力をしても冷や汗は止まらない。世界中が揺れ、力が出てこない。自分の膝にバルドの血が広がり始めている。なのに、動けない。
雨が降り始め、落雷が廃村に影を作り出す。鈴音は血溜まりの中で泣いていた。どうする事も出来ない。自分がどこにいるのかも理解できない。
閃光が走り、雷鳴が轟ろく。雨は亡骸から溢れる血を拭い、生気を失った赤鬼の姿を一層克明に写した。鈴音は叫ぶ。獣のように。教えて欲しい。今 失われた生命は、わたしが望んだ世界の犠牲なのか。