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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第五章
52/58

52,最期の言ノ葉

 太陽国に初めて鬼達が移住してから二ヶ月が経過し、人間と鬼人は順調に同じ道を歩み始めていた。


 鈴音は真っ白な鬼犬アードと共に、中心都の唯一の出入り口・世渡り橋の前で待ち合わせをしていた。警備をしている兵隊達は鈴音やアードの様子をチラチラと伺っていたが、捕まえるような真似はしない。鈴音の事を認知しているからだろう。


 アードは鈴音の隣に座りながら、退屈そうに首を掻いていた。鬼人達が移住した廃村に住み着いたアードは、イタズラばかりするらしい。その事を鬼人に相談された鈴音は、アンおばさんがいないから寂しいのだろうと考え、アードを家に引き取ると決心した。彼をこの場に立ち合わせたのは、待ち合わせ相手の獣医・富沢清丸に身体の調子を診てもらう為である。


『おい人間! 暇だ』


 突然アードが吠えた。鈴音は困ったなぁと思いながら、革で作った丸い球を懐から取り出し、微笑んで『遊ぶ?』と尋ねた。


 アードは『ガキじゃないんだ。誰が遊ぶか』と、いかにも投げて欲しそうな表情を浮かべながら言った。鈴音はその期待に応えて投げてやると、アードは大急ぎで球を取りに行き、楽しそうに走りながら戻ってきた。


 それを数回繰り返して遊んでいるうちに、世渡り橋から二人の男が警備兵に案内されてやって来た。鈴音はまだ遊び足りないような表情のアードを連れて、二人の男……清丸と椎名の元に向かった。


「お久し振りです。お二人友」


 鈴音が御辞儀をしながら挨拶をすると、椎名は笑いながら挨拶を返してくれた。しかし清丸は既にアードを目で捉え、他の事に関心を持っていない。アードはジッと見つめられ続け、若干引きながら呟いた。


『何でこいつは俺を見ている? 喧嘩売りか?』


『違う違う……この人が獣医の富沢さん』


 鈴音は焦りながら答えた。それから三人と一匹は適当に町をブラブラしてから、広い公園の長椅子に腰を掛けて落ち着いた。公園には充分な遊具があり、幼い子供達が楽しそうに遊んでいる。そして彼等の親が優しい瞳で子供の様子を眺めていた。鮮やかな太陽の下、平和な日常の光景である。


「さて、ほな診ましょか」


 清丸が大きな鬼犬の身体をワサワサと触り始めると、アードは全く御免だという表情を浮かべて、鈴音に追い縋るように吠えた。


『おい人間! こいつをどうにかしろ! 何してるんだ全く』


『わたしの事を名前で呼んでくれたら頼んであげるよ』


 鈴音はイタズラっぽく微笑みながら、困っているアードと好奇心旺盛な瞳の清丸を交互に見つめて言った。するとアードが口を開こうとして止める姿が目に入った。未だに何故アードが人や鬼人の名前を言わないのか彼女は知らないが、きっともう癖になってしまっているだけの事だろう。そしてアードは恐らく、その癖を自分の法として定めている。何の意味もない誇り。しかしそこに意味を持たして。


 椎名は長椅子に腰を掛けたまま、そっと囁くように、緊張した様子で話を始めた。


「鈴音さん……僕は君に伝えなければならない事がある。君の過去を知った今、告げなければならない真実を」


 神妙な面持ちで話す椎名に、鈴音は空気が引き締まるのを感じた。元々今日の集まりを計画したのは椎名だ。交易島の診療所に必要な薬を中心都で買う予定だから、世渡り橋の前で待ち合わせをしようと。


 告げなければならない事。鈴音はそれがきっと辛い真実だと予測していた。それでも真実を見つめたいと思った。現実からの逃避はもうたくさんだ。彼女は自分でも気が付かぬ間に微笑みを浮かべていた。


「教えて下さい。わたしの知らない椎名さんの事」


 椎名はコクリと頷き、青い空に浮かぶ朧雲を見上げて話を始めた。


「僕は特権階級の人間だって告げた事は覚えてる? 特権階級の医師は同じ特権階級の人間を診る唯一の集団で、椎名家は代々その職を受け継いだ一族なんだ」


 鈴音は頷きながら椎名の話を聞いて思った。これは椎名の物語なのだと。重たい過去を、目を逸らしたい思い出を、今自分に話してくれているんだ。


「十年……そう、もう十年になる。僕が医者になって初めての患者さんがいてね。とても美しい女性だったよ。彼女は下流階級からの成り上がりで、精神を病んでいた」


 鈴音はハッと椎名を見つめた。まさか……そう思わずにはいられない。仮に自分の勘が正しければ、その物語の結末をわたしは知っている。鈴音の動揺に椎名は相槌を打ち、告げた。


「そう、君のお母さんだよ」


 鈴音は母の姿が頭に浮かんだ。笑顔、涙、悲哀。母はたくさんの表情を浮かべて、死ぬまで自分に愛を注いでくれた。暖かい手を、優しい瞳を、静かな声を、無償に与えてくれた人。


「僕は君のお母さんを救えなかった。そして分かったんだ……階級なんてただの飾りで、何の力も持たない装飾だって。家族や、君のお兄さん、周りの人は僕に同情してくれた。でも僕は自分が許せなかった」


 椎名は身体を震わせながら話を続けた。彼は人を救う事に偉大な宿命を抱き、大きな壁を前に挫けてしまったのだ。鈴音は椎名の震える手に自分の手を重ね、この人を少しでも勇気付けたいと願った。椎名は眼鏡を取って、瞳に浮かんだ涙を拭った。


「僕は医者に向いていなかったんだろうね。でも結局この道を歩む事に決めた。まぁ、僕の事はいいんだ。今日伝えたかった事は、君のお母さんの最期の言葉」


 椎名の言葉に、鈴音は動揺した。母の最期……兄から教えてもらった話では、苦しんで亡くなったとだけ聞いていた。それに、悲惨な運命を迎えた自分達家族の末路を真っ直ぐ見つめる事が出来ないのだ。それでも椎名は告げた。母の最期の言葉を。


「綾乃……わたしは貴方とお兄ちゃんの事を……何よりも大切に思ってる……」


 鈴音は心の奥底から空虚な虚しさと、解ける筈のない疑問を抱いた。母の人生とはなんだったのだろう。幸せに歩んでいた道を夫に崩され、愛していた娘を失い、残された兄は心を閉ざした。そして自分は全てに絶望して命を落とした。


 椎名は言った。君はお母さんに似ていると。始めて出会った船の上で、僕がどこか懐かしい思いを君に抱いたのは決して気のせいではなかったと。だからだろう。君の事を助けたいと強く思ったのは……


 鈴音はもう、母の姿を思い出すことが出来ない。記憶の奥底に消え去り、二度と浮かび上がることはないだろう。それでも良いと思った。母の思いだけは決して忘れはしないのだから。


「どっこも悪い所はないの。健康一番じゃ」


 清丸がアードの背中をバンバンと叩いて言った。アードは大きな溜め息を吐いて、不愉快だという表情を浮かべながら清丸の傍からともかく離れようと走り出した。鈴音は急いで長椅子から立ち上がり、清丸にお礼を言ってからアードを追いかけた。


 アードは公園を飛び出して凄まじい速さで走っていく。鈴音は追い駆け切れないなと諦めて、椎名のもとに戻った。清丸は恍惚とした表情で満足そうに笑い、鈴音に向かって頼んだ。


「鬼犬は中々魅力的な生き物じゃの。是非また診せてくれ」


「あの子が許してくれたら……ですけどね」


 鈴音は、もう一生アードを人間の医者に連れて行く事はないだろうなと思いながら、笑みを返して言った。次に椎名を見詰めて、御辞儀をしながら精一杯の思いを告げようと口を開く。


「わたしは母の事をあまり知りません……それでも、本当に有り難うございました」


 椎名は少し驚いたような表情を浮かべて、しっかりと頷いた。その時、アードが鈴音を呼ぶ声が聞こえた。鈴音は困ったような笑みを浮かべながら二人にお別れを告げ、鬼犬のもとへ向かった。



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