50,平和への移住
鈴音の演説から一ヶ月が経過した。
太陽国に不法滞在していた人喰らい団員五十四名は、正式に太陽国領土居住を許可された。鬼人に関する法律は未だに定められていないが、ある程度の軸は仕上がった。あと数回討論を重ねれば、限りなく平等に近い法典が出来上がるだろう。
そして今、鈴音は神住み島へと向かっている。生け贄の船と呼ばれる、国一番の豪華な船舶に乗って。
生け贄の船には、国王と暗影兵・警護兵が乗船している。神住み島に住む鬼人達と交渉を進める為だ。国王が太陽城を、そして国の本土を離れるのは、実に数十年振りの事らしい。
鈴音は潮風の突風を浴びながら、過ぎ行く景色を眺めていた。髪がなびき、眩しい日の光に思わず目を細める。生け贄の船はその圧倒的な出力で、海の空を雲のように流れていた。
鈴音はもう松葉杖をついていない。全身の怪我が全て完治した訳ではなく、左足はまだ引き摺らなければ歩けないが、道具に頼る必要はなくなった。しかし包帯を巻き直す度に、湯浴びをする度に身体に残った傷痕は目に入る。特に酷い脇腹は、もう二度と癒える事はないだろう。
鈴音は青い海・晴れた空を眺めながら、幸福に身体を委ねていた。夢は叶い、未来は築かれる。与えられた大将軍の地位は返上した。紡がれた絆の中で、その名誉に価値を感じられなかったのだ。その代わり、自分が生け贄の役目を果たさなかったという咎を消失させた。それは、元赤坂村の住民達の階級に影響を与えないようにする為の策だった。
鈴音はこの旅にグルルを誘いたかった。大切な約束を果たす為に……しかし、国王と同じ船に鬼熊を乗せる事は出来なかったのだ。残念ではあったが、今やグルルは自由の身。赤坂村の山奥で『気楽に待っている』と言ってくれた。
鈴音は船の手摺りに腕をかけて、遠くを見つめ続けた。すると不意に気配を感じ辺りを見渡すと、数歩隣で、暗影兵の装備を纏った兄が佇んでいた。
兄は迷いながらも鈴音のもとにやって来たようで、目が泳いでいる。鈴音は、兄が誰としてここに来たのか、九百六十七番として……音無龍一としてなのか、判別をつけようと無表情で兄を見つめた。
兄は鈴音と目を合わせてフッと微笑むと、遠慮がちに隣にやって来て景色を眺め始めた。鈴音もフフンと微笑んで、再び広がる海を眺め始めた。
「俺は暗影兵を抜けようと思う」
躊躇いがちに兄が言うと、鈴音は景色を眺めたまま目を開いて驚いた。衝撃と喜びにも似た感情。鈴音が兄に掛ける言葉を探してまごついていると、彼は続けた。
「俺は現実から逃げ続けた。自分への幸せからも、憎しみからも、恨みさえも。俺は……俺は生きるよ。自分で自分の選んだ道を」
鈴音は心の底から安堵していた。この声、感情、雰囲気、音無龍一……紛れもない兄の姿。鈴音は昔の自分、音無綾乃として、微笑みを湛えた表情で言った。
「いつか二人で旅に行こう。その日だけは、全てを忘れて……」
鈴音の言葉に、兄は照れくさそうに笑った。きっと叶う。もう、この絆は何があっても断ち切れない筈だから。
生け贄の船は四日間の旅を終え、神住み島へと辿り着いた。鈴音は兄を含む三人の暗影兵と共に、高齢の国王の身体を気遣いながら、島の砂浜に足を踏み入れた。島からはレイン・リアン親子が迎えてくれた。
「なんと偉大な島か……」
国王が森の中を歩きながらボソリと呟いた。鈴音は「そうでしょう」と微笑んで自慢気に言うと、島の案内に努めた。
国王はお連れと共に里の道を通り、村長の家まで歩いた。その二階建ての広い家で会議を行う為だ。決議するべき観点は主に三つある。鬼人の法律、権利、義務。鈴音は二種族の話し合いが滞りなく進むように、お互いの文化や情報を伝えながら、言葉を訳す仕事を担う。
鈴音は村長の家に上がる際、高い天井に塞がれた穴の跡を見付けた。あの高さから落とされては命を失ってもおかしくなかっただろう。鈴音はレイピアの事を思った。哀れな人喰らい……人を憎悪し続け、過去の存在となり果てた。さようなら、レイピア……鈴音は虚しさを噛み締め、会議が開かれる部屋に向かった。
会議は滞りなく進み、太陽国での鬼達の立場を明らかにした。まだ平等とは呼べない締結ではあるが、これから先、人々が鬼人の文化を理解するに連れて、また法は変わっていくだろう。鈴音は鬼人の文化に、それだけの自信と誇りを抱いていた。
会議が終わると、国王と暗影兵は鬼人の文化に興味を持ち、食事や遊戯、踊りなどに親しんだ。鈴音はその間、久し振りに会うリアンと、森を抜けた海辺に座って話をしていた。
鈴音は空を自由に飛んでいる白い鬼鳥達を眺めながら、リアンの身体に頭を任して微睡んでいた。リアンは姉の行動に照れながらも、動こうとはせずに話を始めた。
『すげぇよな……本当に変えちまったんだよな。正直、絶対に有り得ないと思ってたよ』
鈴音は目を瞑って波の音を聞いた。一定の感覚で満ち引きを繰り返す海の子供達。不意に睡魔が襲ってくる。それでも眠気に負けまいと僅かに瞼を開いて応えた。
『わたしの力じゃないよ……鬼人は人間に文化の公認を求めていたし、人間は鬼人の文化を欲した。そういう土台が出来上がっていたから、後は両者を繋ぐきっかけが必要だった……それだけだよ』
波の音が勢いよく鳴った。鈴音もリアンも波飛沫を僅かに浴びたが、二人共動こうとしなかった。日が沈み始め、海が赤く染まる。鈴音は眠気に蝕まれた頭でうっすらと考えた。まるでこの海は鬼人のようだと。青と赤、二つの違いは何もないんだ……そこで睡魔に負け、義姉弟の大きな肩を感じながら、夢の世界に落ちていった。
一週間の滞在の後、国王や暗影兵を乗せた巫女の船は鈴音を置いて太陽国本土へと向かった。更に一週間後、太陽国本土へと移住する鬼人六十八名と鬼犬・鬼鳥・鬼鹿・鬼猪は準備をしてから浜辺に集まった。
『どうやって海を渡るんだ?』
リアンの問いに、村長が答える。
『儂達が三十年前にオルドビル大陸からこの島に渡る為に使用した船を使う。ずっと森の奥の倉庫に隠しておいた立派な代物じゃよ』
島の影から表れたその巨大な黒い船は至る所に穴が空いていた。歴史を感じられる凄まじい有り様に、若い者達は『うん、立派』と口を揃えて言った。
鈴音は重い荷物を男達と一緒に運んでいて、おかしな事に気が付いた。レインおじさんがいない……アードはいるのにアンおばさんがいない。急いでリアンを探して尋ねると、彼は申し訳なさそうに答えた。
『親父は来ない。鈴音、島の皆が来るわけじゃないんだ。まだ人を認めていない鬼もいる』
鈴音は一瞬、胸に鋭い痛みが走った。おじさんは人を恨んでる……それでもその場は微笑んで、何故か責任を感じているリアンに食べ物を分け与えてから、荷物運びを続けた。
いよいよ出港だというその時、鬼人達は皆、海辺から島の森で一際目立って見える神樹に礼をした。勿論この島も太陽国の領土なので、国民である鬼達はいつでも来れる訳だが、それでも三十年お世話になった土地に感謝の意を捧げるのは、当たり前の事だろう。
夢が始まった土地……鈴音も彼等にならって礼をした。その時、レインおじさんやアンおばさんなど島に残る者達三十名が浜にやって来て皆に手を振った。鬼人達も鈴音も手を降り返す。海からは鬼イルカが勢いよく飛び上がり、『キィー』という声を上げた。『いってらっしゃい』鈴音は確かに、その言葉を受け取った。
船は軋みながら出発した。世界の変化、世界の希望を乗船させて。