5,宝の言葉
冬の早朝。暖炉に火をつけて間もないレインおじさんの部屋は、とても寒かった。吐く息は白くなり、薬草の独特な香りが漂う部屋の中を、鈴音は寝巻きのままで、おじさんと向かい合って話しを始めた。
『わたしに悩み事があるのは、既にご存知なのでしょう?』
鈴音は一言一言重々しく、ゆっくりと切り出した。おじさんは目を瞑って腕を胸の前に組み、胡坐を掻いた体勢で鈴音の言葉に頷く。
『わたしが悩んでいる事は、卒業した後についてです。このまま何事もなければ、わたしは薬剤師になって、一生この島で働いて、老いていく事になるでしょう』
おじさんは黙って微動だにせず、話しを聞いている。
『でも、わ……わたしには、薬剤師になる以外の夢が……あるのです』
鈴音はそこで、俯いて黙り込んでしまった。ああ……なんて自分は意気地がないんだろう……。
おじさんは片目を空けて、鈴音の様子をチラッと確認すると『続けろ』と静かな声で促した。
鈴音はおじさんの声を聞いて、不思議に勇気が湧いてきた。勇気付けられた鈴音は『はい』と返事をして、真っ直ぐにおじさんの顔を見詰め直した。
『夢と言うのは、わたしが幼い頃から度々思い描いていた、一種の希望と可能性です。わたしの特別な生い立ちを利用する事が出来るのではないかと、考えています』
鈴音は一拍おき、思い切って言った。
『人間と鬼人の関係を最良のものに、したいのです』
おじさんは両目を開いて、しかし黙ったまま、何を思っているのか、鈴音の顔をジッと見詰めている。
『長い歴史の中で、二つの種族の関係が悪くなってしまっている事は、学び舎で習いました。偶に、人間であるわたしを見る眼が冷たい鬼人もいます。鬼人の皆が人間をどれ程恨んでいるのか、よく分かっているつもりです』
鈴音はおじさんの様子を気にしつつも続ける。
『それでも、恨みあう関係が続くのは、もう終わりにして欲しいのです。わたしは自分が鬼人のつもりで、今まで生きてきました。これからもそうです。でも、人間である事実を変える事は出来ないんです。どれほど強く望んでも、それは変えられません』
『だから、お互いが恨み合う姿を見ているのは、とてもつらいんです。鬼人の皆は……全員とは言えませんが、わたしを受け入れて下さいました。でも、そんな優しい皆を、わたしと同じ人間は恨んでいるのです。皆も人間を恨んでいる……この何時までも続く連鎖を、もう終わりにさせたいのです』
鈴音は最後、涙声になって言っていた。しかし、おじさんは表情を変えずに、相変わらず冷静に低い声で尋ねる。
『百年以上掛けて作られた連鎖を、どうやって終わらすつもりだ?』
鈴音は何時の間にか涙を流し、深呼吸してから申し訳なさそうに言った。
『人について……分からない事が多過ぎるんです。まず、人について学んでから、行動しようと思っています』
『つまり、無計画か……』
おじさんは何故か、笑みを浮かべて言った。怒られると思っていた鈴音は、不思議に思って困惑した表情になった。
『無謀だが……面白い。お前を止める気はない。私に言えるのは、無事に帰って来いという言葉だけだ』
鈴音はおじさんの言う事が理解できずに、惚けた表情をしている。おじさんは続けた。
『この島から外に出るには、長の許可が必要だ。人間の島に行く為の足もいるだろう。これから一ヶ月間は大変だぞ?』
鈴音はおじさんの言葉を最後まで聞いて、やっと全てを理解し、涙を目に溜めながらパッと笑顔になった。
『どうやって行くんだ?』
リアンが調合室で薬を煎じながら尋ねた。鈴音は烏眼の実を鉢で潰して汁を取る作業をしながら、笑顔で答える。
『鬼イルカの皆に船を引っ張ってもらうの。彼等ならよく人の島に行くし、力もあるから安心でしょ?』
『ああ。それにしても、よく親父は許可したな。人間の所に、何時帰って来れるかも分からねぇし……人間だし……』
リアンは聞き取れない程の小さな声で、最後の言葉を付け加えた。鈴音はニッと笑って元気に言ってみせる。
『大丈夫、変えてみせるよ』
『そういや、人間の着物を持っているのか? あいつらの妙に固い衣』
リアンは鈴音のことを相当心配しているのか、母親のように色々なことを尋ねてくる。鈴音は苦笑いをして残念そうに話した。
『う~んとね、持ってないの。だから、鬼蚕の糸で作った出来るだけ人間の衣に似せた着物を着ていく』
リアンはまた別の事を尋ねようとしているらしく、ずっと唸って言い淀みながら、遂に決心して真剣な表情で尋ねた。
『いいか? 嫌なら答えるなよ。家族に、やっぱり会いたいか?』
鈴音は一瞬呆けた表情をして、次に困ったように笑いなら、声の調子をわざと明るくして、何故か人間の言葉で答えた。
「捧げられた命と見返りに、最高の栄誉を与えよう」
リアンが作業を止めて不思議そうな表情で鈴音を見ていると、鈴音は相変わらず困ったような笑顔を浮かべて、続けた。
『生け贄を捧げた身内にはね、どんな身分でも凄い地位が与えられるの。多分、わたしの家族は、今では上流階級の地域に住んでいるから、旅人として国に入るわたしとは会えないよ』
鈴音のあっさりした口調に、リアンは言葉を返さなかった。
『長が許可を下さった』
卒業式を前日に迎えた冬の終わりの日。鈴音はおじさんの部屋に呼び出されて告げられた。
『人間の世界に行くにあたり、長に挨拶に行かねばならぬ。卒業式が終わり次第、一人で長の家に行くのだ。どんな話をするのか私も知らぬ』
おじさんは続けて、一気に話した。その表情は何処か寂しげだった。
鈴音は薬草の匂いが漂う部屋の中、正座をして考えていた。そして、この一ヶ月間とても気になり続けていた事を尋ねた。
『おじさん……どうして、人の世界に行く事を、簡単に許して下さったのですか?』
この質問をするのに、鈴音は大変な勇気を必要とした。許可を貰った時は嬉しくてただ喜んでいたのだが、冷静に考えてみると、いくら何でも簡単過ぎると思ったのだ。人間を恨み尽くしているはずの鬼人達が、人間の土地に自分を送り込む事に、抵抗を全く感じていない様子は不思議だったし、自分勝手な考えではあるが、僅かに悲しかったのである。
おじさんはまた微笑んだ。この数日の間に、鈴音のおじさんに対する印象はすっかり変わってしまった。普段は滅多に笑わない人なのに、最近はよく笑うのだ。勿論その変化を、鈴音は喜ばしく思っていたのだが……。
『お前の未来を、私たちはずっと案じて来た。鬼人のこの島に、人間一人で生きていく事の辛さは、私達自身には想像できんものだったろう』
おじさんは自分の言葉に頷きながら言っている。鈴音は黙っておじさんの言葉を聞いていた。
『しかし、お前は負けずに生きてきた。お前は皆が受け入れてくれたと言っていたが、お前自身が皆の、人間に対する偏見を和らげ、お前自身が人間を皆に受け入れさせたのだ』
『それに、お前が真に幸せになるには、やはり、人間が必要だろう。娘の幸せを願うのに、我々の事情は持ち込まぬ事にしたのだ。考えてみれば、当たり前の事だろう?』
鈴音は心の奥底から、暖かい物が湧いてくるのを感じた。口をつぐんで涙でぼやける視界の中、震える手を必死に抑えながら、一言一言区切って言った。
『わ……わたしは、ここで、この島で過ごせて、おじさん達と暮らせて、幸せでした。必ず、帰って来ます。その時には、わたしを、迎えて下さいますか?』
おじさんは鈴音の肩を優しく叩いて、しわ枯れた低い声で答えた。
『何時までも待っている。お前は、わたしの大切な娘なのだから』
鈴音はこの言葉を宝物として、未来永劫大切にしようと決めた。