49,死者を語る少女
見渡す限りの人の群れ。彼等は皆、見覚えのない貧相な身形の娘が演説を始めた事に戸惑っている。
鈴音は声を増幅させる道具の向こうに、見知った人々の姿を見掛けた。ひっそりと佇む暗影兵・兄の姿、学舎の生徒達・教師達、獣医の富沢夫妻。彼等だけは、他の民衆とは異なる動揺を見せている。何故綾乃が、何故先生が、何故あの子がここに立っているのか……。
「まず、わたしが誰なのかという説明をさせて頂きます。名前や階級や職業は省かせて下さい。それでも、皆様はきっとわたしの事を御存知の筈です。これを、覚えておられますか?」
鈴音は緊張しながらも教師の経験を活かして流暢に話し、痛む左腕を動かして、レインおじさんに託された一着の衣服を袋から取り出した。赤い豪華な着物で、幼い子供が身に纏える採寸。しかし、民衆は衣服を目にしても反応が薄く、大半の者達はそれがどうしたという態度を示していた。
そこで、台座の直ぐ前に自分専用の椅子を用意して腰を掛けていた上流階級の老人が、我が目を疑うように何度も瞬きをしながら、信じられないといった口調で呟いた。
「生け贄の衣……」
「生け贄?」と民衆は騒めき始めた。「どうしてそんな事が分かるんだよ!」と野次のような声が後方から飛んでくる。老人は目を瞋しながら大きな声で叫んだ。
「百年に一度しか作られない衣装じゃ。代々わしの一族が仕立ててきた。贋作はあり得ず、世界で七着しか存在しえない。この採寸はわしが……わしが綾乃神の為に仕立てた……」
神住み広場が騒々しくなっていく。鈴音の後方に佇んでいる日々間も動揺していた。しかし、この事実を告げなければ、鈴音は自分の言葉に意味を持たすことが出来ない。例え未来に自分の罪が問われ、この命が奪われたとしても、この夢を叶える犠牲になるのは本望だった。それに、人の言葉を話せる鬼人が存在し得ると知った今では、自分抜きでも人と鬼は共存できる筈だ。
「そうです。わたしは第七代目巫女・音無綾乃。太陽国に死を望まれ、神住み島へと送られた生け贄です」
「じゃあなんで今生きてるんだよ!」
民衆の叫び声がどこからか飛んできた。鈴音はどこにいるのかも分からないその声の主に向かって頷き、話を続けた。
「わたしは神住み島で息絶える筈でした。しかし、この世を去る寸での所で、ある方に助けられたのです。鬼人……貴方達が憎む種族に」
「鬼人」と鈴音が口にした途端、また騒めきは大きくなった。鈴音は改めて声を張り上げて続ける。
「神住み島は終戦後から鬼の種族が在住するようになりました。人の訪れない未開の地は、身を隠すのに最適だったからです。わたしは彼等に助けられ、育てられ、成長しました。そうした生活は愛に溢れていて、とても幸福で……ある時わたしは、夢を抱くようになりました」
鈴音が間を開けて、「人と鬼との絆を再び築きたい」と告げた瞬間、民衆達は大声で馬鹿らしいと嘲笑したり、感情の爆発、怒りの叫び声を上げた。
「私は家族を殺されたんだぞ!?」
「俺もだ。巫女か何だか知らないがふざけた事を言うな!」
鈴音は罵声・罵り・暴言を目を瞑って聞いていた。十年前、鈴音が生け贄の船に乗船した時、集まった民衆達は涙ながらに感謝していたものだ。その涙は、きっと嘘ではなかっただろうに。鈴音は瞼を開けて、再び話し始めた。
「みなさんは、いつを見詰めて生きていますか?」
民衆は水をうったように静かになり、静寂が空間を支配した。問いかけの意味を理解しようとしているのか、単に叫び疲れただけなのか、正確な意図は分からない。しかし、鈴音は静けさなど気にせずに話しを続ける。
「……再びこの地に足を踏み入れた時、わたしは死人でした。感情を伝える術はなく、名前と記憶だけの存在。たくさんの人々の鎖になり、縛りとなって、愛していた人・愛してくれた人を苦しめる……呪詛のような存在に」
鈴音は兄の人生、両親の思い、一太郎の苦しみ、友達の涙を思い浮かべた。
「誰もそんなつもりはないのに……死者は生者を、愛している人々を苦しめたくないのに、幸福な人生を歩んで欲しいと願っているのに、人は自分を苦しめる。生よりも死を尊重して、明日よりも昨日を大切にして生きていく……」
鈴音はレインおじさんの事を思った。リアンと遊んだ幼い日々を思い浮かべた。鬼達とただ会話をする喜びを思い出していた。
「鬼も人も、未来よりも過去を見つめている。生者よりも死者を慕っている。その連鎖は途切れない。怨みに支配されて、前に進もうとしない……」
「じゃあ過去を忘れろと言うのか!? 大切な人達を忘れろと言うのか!?」
「戦争で鬼が起こした事実に目を背けろと?」
何人かの人々が、耐え切れず口にした。罵りや、嘲笑ではない。心の底からの叫びだった。鈴音は首を横に振って答える。
「忘れるなんて、きっと出来ないでしょう? 怨みも憎しみも、過去も歴史も……忘れてはいけない筈です。でも、わたしは思うんです。死者の為に生きる人生なんて虚し過ぎるって。物事を考える照準をわたし達……生きている人間に変えるべきだって」
誰も何も言わなかった。沈黙の真意は是か否か、それとも結論を導き出す力を失ってしまったのだろうか。いずれ出さなければならない人生の答えを、鈴音は求めた。正解などなく、間違いなどない。自分の意思を示してほしかったのだ。
突然、疲労感が鈴音を襲った。身体はとうに限界を迎え、根気だけで立っているような状態だ。それでも、この時間は、この瞬間だけは倒れる訳にはいかない。鈴音は気力を振り絞り、身体を気持ちだけで支えて、右手を天に向かって上げた。この合図は最後の策。古瀬鈴音の最後の演説だ。
合図を受けた笠を深く被る背の高い数十名の集団は立ち上がって群衆を掻き分け、鈴音が立つ台座の前へ一列に並んだ。警備をしている兵達は何事かと武器を構えたが、鈴音が危険はないと話すと、武器を構えながらも警戒が薄らいだ。
群衆が騒ぎ始める。彼等は一体だれなのか……気付き始めた人々はその場から半歩、一歩と下がり始めたが、鈴音は皆に落ち着くよう大きな声で告げた。
彼等は笠を一斉に取った。赤い瞳・尖った歯・頭に生えた一本の角が顕になる。「人喰らいだ!」そう誰かが叫んだが、不思議と大きな騒ぎは起こらなかった。鈴音はフラフラとしながら続ける。
「彼等は、自分達の命を捧げる覚悟でここに来て下さいました。誰も戦う意志はなく、今までとは異なる、別の戦い方を選びました」
鬼人達は決意の瞳を民衆に向けていた。鬼と人、百年以上続く争い。その怨恨の連鎖を断ち切る為に。何よりも未来の為に。変われるのは人だけではなく、意思を持つ全ての生命なのだ。
鈴音はもうまともに立っていられなかった。視界が揺れ、冷や汗が流れ、息が荒れる。そしてついに限界が訪れ、膝をつこうと姿勢を低くした。しかしその瞬間に、誰かが鈴音に肩を貸して身体を支えてくれた。薄れる意識の中で誰だろうかと振り向くと、そこには自分を敵視している筈のロダンがいた。ロダンは鈴音と目を合わせたがらなかったが、確かに自分を支えてくれている。鈴音は思わず微笑み、最後の気力で話を続けた。
「わ、わたしに出来ることは……ここまでです。全てを決めるのは貴方達……。貴方達が拒めば、わたしも、鬼のみんなもここを去ります……後は貴方達……次第……です」
突然、一人の身なりのよい男が進み出で、意識薄れゆく鈴音を真っ直ぐに見つめて、はっきりとした口調で宣言した。
「私は両親と兄を戦争で失った」
その言葉に、鈴音は何とか反応しようとして頷いた。すると彼は微笑んで続けた。
「しかし、私は鬼人を受け入れよう」
男が拍手をすると、それが伝染してゆくように、皆が拍手を始めた。中心都中に鳴り響く拍手の音は、世界の変化、国の変化、人の変化を告げていた。
鈴音は台座の上で、ロダンに支えられながら思った。まだとても細い絆で繋がっているこの関係。何かの拍子で簡単に断ち切れるであろう軌跡。まだ全てが解決した訳ではない。いや、全てが解決することなんて有り得ないのかもしれない。それでもきっと、ここから始まる。
怨みを越えた世界の構築が。