46,病床での手紙
鈴音の意識が蘇る。まず感じたのは身体の不自由だった。柔らかな布団の上で寝返りを打とうとして、身体が軋むのを感じる。何が起こったのかは分からないが、自分が今まともな状態ではない事を悟った。
鈴音が重い瞼を開けると、差し込む太陽光に照らされて、自分が白い部屋の中で寝台に寝かされている事が分かった。白い壁に天井、白い布団に毛布。自分が着ている見覚えのない軽やかな寝間着までもが純白である。痛む首を僅かに上げて身体を確認すると、様々なところが包帯で巻かれていた。どの部位も痛みは少なかったが、動かそうともがいてみても微動だにしない。
「大丈夫ですか? 気分はいかがですか?」
鈴音のボンヤリとした頭に、声が響いてきた。彼女は自分の首を気遣いながら声の主を探す。声の主は鈴音の腕に点滴を射とうとしていた若い女性の看護師であった。看護師は満面の笑みを表情にたたえ、患者である自分の様子を心配そうに伺っている。鈴音はコクリと頷いて、首に痛みが走り思わず顔をしかめた。
「ああ、大丈夫ですか? 喉の渇きはどうですか?」
看護師の言葉に、鈴音は「大丈夫です」と返事をする。自分でも驚く程にか細い声であった。看護師は「先生を呼んで来ますね」と慌ただしく部屋から出て行った。
鈴音は看護師の姿を見送ってから、ここはどこだろうという疑問に思い至った。最後の記憶に残っているのは、レイピアに殴られ、床を突き破って一階に転落し、想像を絶する痛みを味わった後、身体がぼんやりと熱くなって意識を失くすまでの一瞬しかない。そこで鈴音はゾクリと背筋が凍った。心臓の音が擦れていく死の感覚を思い出したからだ。
そんな気分を吹き飛ばす人物が、先程の看護師と共に鈴音の横たわっている部屋へと訪れた。
「久し振りだね。元気に……していなかったみたいだけれど」
「椎名さん!? っ……」
鈴音が驚きに飛び上がると、身体に電撃が駆け抜けるような激痛が全身を襲った。椎名は急いで鈴音に近寄り、彼女の身体を支えてもう一度横に寝かした。そして寝台の近くに木製の椅子を持ってくるとそこに座り、ゆっくりと話し始めた。
「特に酷い怪我は左脚に左腕に脇腹と背中。馬にでも轢かれたのかい? 助かって本当に良かったよ。後遺症もないね。但し、しばらくは絶対安静だ」
鈴音は何も理解出来ないでいる。何故自分は椎名の診療所にいるのだろうか。鬼人の島にいた筈ではなかったのだろうか。鈴音は椎名の瞳を真っ直ぐにみつめて尋ねた。
「あの……わたしどうなったんですか?」
椎名は「う〜ん」と唸ってから、鈴音の怪我を確認しながら答えた。
「僕もよく分からなかったんだけど、この診療所にえらく背の高い人が、瀕死の君を抱いてやって来たんだよ。笠を深く被ってたし暗かったから顔はよく見えなかったんだけどね。多分、外国人だったんだと思う。随分と拙い話し方だったから」
鈴音は自分の左腕の包帯をといている椎名を見つめながら、ぼんやりと考えていた。鬼人の誰かが自分を椎名さんの所まで運んでくれたのだろうか。しかし人の言葉を話せる鬼人など見たことがない。というよりも、今の時代そんな鬼は存在しない筈だ。包帯が完全にとかれ左腕が顕になると、鈴音は自分の腕に怖気を感じた。大きく醜い傷痕が痛々しく残っていたのだ。
椎名は鈴音のその様子にハッと気が付き、労るように優しく言った。
「この傷痕は長い時間をかければ視認出来ないぐらいに薄くなるよ。でも、脇腹の方は一生残ると思う。そっちは後で確認しよう」
鈴音は椎名の言葉に頷いた。傷痕には驚いたが、心はそれ程傷付いていない。どうせ着物に隠れるのだから構わなかった。鈴音が俯いていると、椎名が懐から紙切れを取り出して続けた。
「鈴音さん、君を連れてきた外国人が言ってたんだ。君が気が付いたらこの手紙を渡してくれって。妙な紙質でちょっと興味深いなと思ってたんだけど……大丈夫。中身はずっと開けてないから」
鈴音は椎名の「ずっと」という言葉に引っ掛かった。自分はどれだけの間、気を失っていたのだろうか。鈴音が椎名に何気なく尋ねると、「二ヶ月過ぎ」という恐ろしい答えが返ってきた。知らぬ間に国王との契約の時間が迫っている。
鈴音は焦り、椎名から急いで手紙を受け取ろうと右手を伸ばして、激痛に息を詰まらした。椎名が慌てて鈴音の右手をそっと布団に戻すと、手紙を開けて鈴音に文字が見えるようにしてから言った。
「まだ両腕を動かしてはいけないよ。手紙は僕が支えておくから」
鈴音は擦れた声で御礼を言うと、鬼人の丁寧な文字で書かれた手紙に目を通し始めた。
‘’すまない、鈴音。私はお前を守れなかった。それだけではない。島の秘密を明かさないように皆に指示していたのは私だったのだ。
お前の夢を訊いた時、私は動揺した。いずれお前が我々の組織を知った時、お前はどう思うのだろうと。それでもお前を進ませたのは、お前なら我々と異なる手段で事を為せると信じていたからだ。いや、すまない。それも所詮は言い訳だな。
人喰い島の皆はお前を愛している。昔お前は「全員とは呼べない」と言っていたが、皆はお前自身を、深く愛しているのだ。お前に辛く当たる者は人間が許せないだけだ。だからこそ、まだお前が例の取り引きを望んでくれるのならば、我々はお前の為にそれに臨もう。
正直なところ、私はお前にまた島に戻ってきてほしい。しかしお前がこれを期に鬼人と縁を切りたいと願うのならば、私はそれを呑もうと思う。お前は自分の幸せを望め。お前がしがらみから抜け出せるように、預かっていた品を返そう。
レイピアは死んだ。お前の責任ではない。もともともう長くはなかったのだ。
幸せに生きろ。お前を愛している。 レイン”
鈴音は同じ一行を何度も読み返した。“レイピアは死んだ。”心が大きく揺れた。大声で吠えるあの鬼人の姿が、頭に浮かんだ。
好きとは決して言えない人物だった。残酷な発言に傷付けられたり、酷い殺され方を提案されたり、一生消えない傷を身体に刻まれた。悲しい訳ではないのに、心の中では空虚な苦しみが感情を埋め尽くしている。そして鈴音は理解した。死とは巨大な喪失感なのだと。
青い潮波が打ち寄せ、波飛沫が砂浜に飛び散る。また潮が下がり、砂を奪って母なる海へと帰っていく。天気は快晴。冬も終わりに近付き、温かな春の訪れを冷たい潮風から感じる。日は沈み始め、海を緩やかに赤く染めていく。
鈴音は松葉杖をついて、椎名に支えられながら砂浜に立っていた。鈴音は椎名に全てを話した。自分の生い立ち、鬼との関係、夢の道筋。そして一太郎の最期を。椎名は静かにそれを聴いてくれていた。鈴音はもう、椎名に絶対の信頼をおいていたのだ。椎名は鈴音の身体を気遣いながら、言った。
「もう、君は充分よくやったろう。静かに過ごしても誰も責めやしないさ」
鈴音は沈みゆく太陽を眺めて、潮風を全身に感じながら、痛む首を恐る恐る振り、微笑みながら話した。
「グルルがきっと怒ります。俺様を閉じ込めたまま、何してるんだって。わたしが全てを始めました。なら全てを終わらすのも、やっぱりわたしじゃなきゃ駄目なんです」
椎名は「君ならそういうだろうと思ったよ」と諦めたように言い、続けた。
「国王が定めた期限まで後たった五日。今から神住み島まで行って帰ってくるには時間がどうしたって足りない。どうするんだい?」
「なら……太陽国にいる鬼人と交渉するしかありませんね」
鈴音が困ったような笑みを浮かべながら言うと、椎名はしばらく黙り込んでから、ハッとして鈴音を見た。椎名が口を開く前に鈴音が続けた。
「大丈夫です。わたし、頑張ります」