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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第四章
45/58

45,ハ ザ マ

 何も見えない暗闇の中。少女は自分がこの世界に存在しているかどうかも不確かなまま、無の領域に佇んでいた。


 自分が直立している事は分かっている。まるで砂浜に足をつけているかのような地の感触。少女はどうやら素足のようで、奇妙な肌触りがよく分かった。膝にとどきそうな範囲まで迫る粘ついた液体が、どうやらこの空間を満たしているらしい事も分かる。身体が妙に固いのは、着慣れていない着物を自分が身に纏っているからなのだろう。


 少女は自分の身体を両手を使って確かめてみた。そして彼女は気が付く。わたしはこんなに、身体の至る部分が小さかっただろうかと。暗闇は深く、自分の姿は見えない。何も思い出せない。全て薄れた記憶の奥へと消え去っている。


 この空間には変化という概念すら通用しない。少女はただ直立して佇んでいた。何も変わらない、闇の底。きっと幾ら時間が経とうとも、この世界は変化しない。少女はそう悟っていた。もしかしたら自分はもう存在しておらず、この闇の一部なのかもしれない。


 ふと灯りが見えた。少女は思わずその灯りに向かって走って行こうとして、やめた。これではまるで虫のようではないかと思ったからだ。光を求め、生きる為に生きる哀れな生命。少女は虫があまり好きではなかった。


 灯りは段々と少女に近付いて来る。近くで確認すると、その灯りの元は蝋燭の火であり、それをぶら下げているのは小さな小船だった。小舟には髪を後ろで一つに縛った老人が、櫂で粘ついた液体をおして進んでいる。少女はその老人に見覚えがあった。しかし誰かは思い出せない。


 老人は少女の目の前で小舟を止めて、嬉しそうに、しかし悲しそうに少女を見て挨拶をした。老人の声は空間の中で大きく響いた。


「久し振りじゃな。乗るかね?」


 少女は灯りの眩しさに目を細めながら、見知らぬ人の提案に肯定の意を込めて頷いた。何故だろうか。少女には彼の言葉は信用するに充分値すると分かっていたのだ。


 老人は櫂を側に置き、少女の脇腹に細い両手をいれヒョイと持ち上げて、小舟の座席に座らせた。少女は驚いた。自分は本当にこんなにも幼かっただろうか。蝋燭の灯りで自分を確認してみる。異常に豪華な赤い衣装に小さな身体。膝まで捲り上げたその着物。足には奇妙な液体がベッタリついていて、老人がどこからか取り出した布で自分の足を拭いてくれたのが凄くくすぐったかった。


「知らぬ間に随分と小さくなったようじゃの」


 老人が向かい合わせに座るとそう言った。少女は肯定も否定もせず、素足をもじもじとさせた。「知らぬ間に」と言われても少女は覚えていないのだ。弱々しくか細い声で少女は尋ねた。


「わたしは誰なんですか?」


 老人は頭を掻いてため息をついてから、答えた。


「それは言えぬ。きっとお主は自らそれを忘れ、自分を守ったのじゃろう。余程辛い事があったらしいの」


 知らないと少女は思った。辛い事なんて知らない。貴方の事も自分の事も分からない。ただ恐ろしくて虚しいという感情だけが心に残っている。老人は柔らかな表情で続けた。


「お主が残した記憶を紡ぎ合わせてみよう。ゆっくりとで構わん。どうせこの空間では時間など関係せんしの」


 少女は老人と目を合わさないように俯きながら、足や手を擦ってソワソワしながら落ち着かない様子で再び尋ねた。


「ここはどこなんですか?」


「ここはお主の非難地帯。お主だけの拒絶された世界。つまりはお主の心の中じゃ」


 少女は理解せずに頷き、自分の掌を眺めた。次にまだ不快な感触が残る足を眺め、次いで老人をチラチラと確認した。これは幻覚なのだろうか。少女は思い出せる事を思い出そうと目を瞑ってブツブツ呟き始めた。


「お母さんとお父さんがいる。お兄ちゃんが手を振ってる。おじいちゃん……ああ、貴方がいる。おばあちゃんが……いた。隣のおじさんが、おばさんがいる。一ちゃんに梅ちゃん……友達がいる」


「つまりあの日以前の記憶かね? 続けるがよい」


 あの日? 少女は訝しく思いながら続けた。


「背が高い……目の色が変な人がいる。わたしは今着ている服を着ている。森の中で、一際大きな木の近くで話してる。進んで……目の色が青い人と赤い人がいる」


 少女は呟きながら、汗をかき始めていた。これ以上思い出してはいけないと頭の中で誰かが叫んでいる。ギリギリと締め付けられるような頭の痛み……少女は目をハッと開けた。


「皆が……人喰らいだった。皆が人と争い合っていた……殺し合っていた」


 一太郎は納得したような表情を浮かべて、重々しく頷いた。鈴音は幼い頃の小さな身体のままガタガタと震え始める。一太郎は鈴音の隣に移動し、気遣うように肩に手を優しく置いた。鈴音はその温かい手を感じて、冷たくなった一太郎の遺体の事を思い出し、心が痛んだ。


「わたしは争いをなくしたくて進んでいるつもりで……でも、それは始めから間違っていたみたい。出発地点から、何もかも」


 鈴音は自嘲と悲しみを含んだ笑みを浮かべながら言った。手を額につき、もう何も考えたくないというように首を振りながら。


 すると一太郎は鈴音の肩を軽く二度叩き落ち着くように促した。そして懐かしい静かな瞳のままで鈴音に尋ねた。


「綾乃、お主の夢じゃが……その出発点を教えてほしい。きっと誰にも告げていないじゃろう。お主自信にも、再び言い聞かせる為に」


 鈴音は、言い聞かせて何になるのだろうと思った。もう自分の夢は叶いはしない。鬼人は人間の敵で、その逆もまた然り。殺して殺されての愚かな連鎖。永遠にそれを繰り返して、どうせどちらの種族も滅んでいくのだろう。誰もそれを止めようともせず、自分が正しいと思い上がって消え去っていくのだろう。


 鈴音は暗い気持ちのまま、レインおじさんの事を思った。何故わたしを助けて下さったのだろう。人を殺し続けてきた島の中で、特に人を嫌っているおじさんが、放っておいたら直ぐに世を去るような人間の子供を。


「思い出せないかね?」と一太郎が尋ねると、鈴音は首を振った。きっと真剣に過去を振り替えれば思い出せる筈だ。しかし、思い出して何になるのだろう。ずっとそればかりを考えていた。


 レインおじさんの真意を考えていると、本当に自然に、突然思い出した。鈴音がまだ拾われたばかりの頃、おじさんとリアンに挟まれて寝ていた幼い頃の記憶だ。鈴音がまだ他人の家で眠る事に慣れず、不眠症に悩んでいると、ぐっすりと寝ていた筈のおじさんが酷くうなされた。そして小さな声で繰り返して言っていたのだ。


『返してくれ……全部……人間よ……頼む』


 それだけだった。たったそれだけが、小さな鈴音にとって衝撃的だったのだ。そして幼いながらも単純に思った。『わたしを救ってくれた人。今度はわたしが助けるんだと』。それから歴史を学び、鬼人を知り、人間を知るうちに形を変えたその思いは、夢となった。


「思い出したようじゃの」


 気が付くと、いつの間にか暗闇は消え、天空には青空と太陽が存在していた。鈴音と一太郎は見渡す限りの草原に向かい合って立っている。そして、鈴音は今の姿そのままの鈴音であった。


「自分を取り戻したか……それでよい。お主が進むか否かは、既に自身で決断できるじゃろう。わしの出番はお終いじゃ」


 鈴音は自分の身体を視認して、草原を眺めて、空を見上げ、一太郎を見つめた。ここはわたしの心の中……おじいちゃんの姿もきっと幻。わたしが誰よりも縋りたかった人の幻影なのだ。


 絶望に陥り、死に限り無く近付いた事がきっかけで、自分は全てを捨て去ろうと考えた。分かっている。そんな勝手な事は許されない。人も鬼人も過去に……死者に捉われている。そんな過ちは終わらせなければいけない。


 鈴音は一太郎に向かって礼をした。もう言葉は必要ない。充分に勇気づけてもらったのだから。一太郎はニッコリと微笑むと、草原や空と一緒に霧の如く消え去った。


 進んで、終わらせる。死者は愛する人を束縛させるつもりなどないのだと、過去の死者でもあり、生者でもあるわたしが、皆に告げなければ。例え、それが自分の最期の言葉になろうとも。




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