43,願いの源泉
『お帰り、鈴音』
鈴音が何人もの鬼人に掛けてもらった言葉だ。しかしレインおじさんにそう言われた時だけは耐え切れなくなり、思わず涙を流しながらおじさんに飛び付いた。レインおじさんは自分の腰程しかない義理の娘の頭を不器用に撫でながら、鈴音が落ち着くのを黙って待ってくれた。
懐かしい面々、懐かしい動物達、懐かしい風景。全てが鈴音に元気を与えてくれる。今ならアンおばさんの飼い鬼犬・アードの皮肉めいた物言いすら、全力の笑顔で応えられるだろう。鈴音に人間世界での生活を尋ねにきた鬼人はたくさんいた。人に興味を持ってくれる鬼人がいるという事実を、鈴音はたまらなく喜んだ。
鈴音はずっとこの心地よい空間に安住していたいと心の片隅で思った。しかしそれは甘えだ。自分のせいでグルルは狭い檻に閉じ込められている。でも、せめて……と思わずにはいられない。せめて今日一日だけは安らぎの時間として許してほしいと。
鈴音は、今や立派に成人として働いているかつての同級生達と話をして、次に村長に挨拶をし、森に住む友達達のもとへ急いだ。その時点で既に日が暮れかかっていたので、完治しかけの左足に鞭を打って走った。
『お久し振りです。我が恩人よ』
頑丈な牙に立派な角を持った鬼猪のカイナが、森の中で真っ先に出迎えてくれた。鈴音はカイナの巨体に抱き付き、微笑みを浮かべる。カイナは照れながらもしっかりと鈴音を受けとめてくれた。
積雪に足袋の後をつけながら、鈴音はカイナと共に歩いた。その時グルルのことがふと頭に浮かび、グルルの口振りから知り合いらしかったカイナに尋ねてみた。
『そういえば、グル……この島の鬼熊のことを、カイナは知ってる?』
するとカイナは溜め息を吐きながら、やれやれといった口調で答えた。
『哀れな奴です。一年程前、人間に捕らえられたらしいのですが……百年戦争中に両親を失い、この島に我々が辿り着いた頃にはまだ小さな子ぐまでした。だというのに、一頭で生きていくと言ったのです』
戦争で両親を……鈴音は歩みを止めた。グルルが人間も鬼人も好いていない理由が分かった為だ。グルルの両親は鬼人に利用され、人間に殺された。鬼熊に対して強い誇りを抱いているのは、きっと悲しみの末、自己防衛の為だったのだろう。
『どうかなされたので?』
鈴音はハッとした。そうだ、そんなグルルの為にも早く計画を成さねばならない。鈴音はカイナに向かって笑顔を作り『何でもない』と首を振って、再び歩き始めた。
鬼猪・鬼鳥・鬼狐・鬼狸・鬼鹿・鬼猿・鬼イタチ、鈴音は彼等に会って挨拶をしてから、再び帰り路についた。鈴音は皆が変わりなく自分を迎えてくれたことが、口では言い表わせない程に嬉しかった。
家に帰った頃にはとっくに日は沈んでいた。道の途中でアードを散歩しているアンおばさんにたまたま出会い、話し込んでしまったのがいけなかった。さあ、鈴音がずっと会いたくて、一番話したかった鬼人達がこの家にいる。
『ただいま。リアン! レインおじさん!』
『お帰り〜』
気の抜けたようなリアンの声が聞こえた。きっといつも通り床に寝っ転んでウトウトしていたのだろう。その何も変わっていない様子に鈴音は微笑んだ。この天井の高い家も今では違和感を覚えてしまうが、帰ってきたんだ、本当に。
夕食の席で出された食事は当たり前だが鬼人の料理だった。鬼魚に米に金色豆という食品を加工して作った光る豆腐に、しなっとした森菜の煮物。鈴音にとっては故郷の味だ。蝋燭の下、三人で食事をとりながら、鈴音はたくさんの出来事を話した。
『それでね、その昇太って子が凄く……何というか……滅茶苦茶なの』
『へぇ、何処にでも変わり者はいるんだな』
鈴音と会話をしてくれるのは基本的にリアンだ。レインおじさんはあまり反応を見せない。リアン曰く照れているだけらしいのだが、鈴音にとってそれは当たり前のことで、聞いていないふりをして、その実しっかり話を聞き取っている事を昔から知っていたので、別段気にしなかった。
鈴音が話を続けていると、ある時突然おじさんが立ち上がって言った。
『鈴音、後で話がある。来てくれ』
『実は、わたしもおじさんに……おじさんと村長さんにお話があります』
『そうか……しかし村長とお話をするのは結局明日になるだろう。今日は私の仕事部屋に来てくれ』
鈴音は頷いたが内心では何だろうと訝しく思っていた。リアンは二人の事は二人の事だと割り切っているらしく、人間の話をもっとしてくれと楽しそうに鈴音に頼んだ。
リアンが陶器の皿洗いを始めた頃、鈴音はレインおじさんの部屋へと向かっていた。何でもない只の廊下を渡るだけでも懐かしさが込み上げてきて不思議な気持ちになる。おじさんの仕事部屋になど入ったら感動で泣いてしまうかもしれないと不安に思った。
仕事部屋の戸を二度叩いて自分が来たことを報告すると、おじさんは『いいぞ』と短く返事をした。『失礼します』と挨拶をしながら鈴音が戸を開けると、懐かしい薬草の匂いを鼻に感じて、心の底から落ち着いた。
『鈴音、まずは帰ってきてくれたことに感謝しよう』
『感謝なんて、わたしの言葉です』
鈴音はおじさんと向かい合いように置かれた座布団に座りながら言った。おじさんは無表情を崩してフツと笑うと、続けて話した。
『いいや、私の言葉だ。お前は多くの経験を積み、おそらく鬼人と人間の関係をより明確に学んだことだろう。それでも帰って来てくれた。だからこそ尋ねる。お前はあの夢を、未だに強く願っているか?』
沈黙の後、鈴音はおじさんの青い瞳を見つめながら『はい』と答えた。無謀なことだと笑われるだろうか……そう鈴音が迷っていると、おじさんは懐かしい表情を浮かべた。鈴音がその表情をいつ見掛けたかは覚えていないが、何故か懐かしいと感じる瞳だった。深い深い虚無の闇。鈴音は一瞬おじさんの全てを不安に感じたが、その表情は直ぐに消え、おじさんは話した。
『そうか。お前の決意はそれ程のものだったか。私は随分と強い意思を持つ娘を授かったようだ』
その言葉は、おじさんの口から自然に出てきた本当の言葉だった。鈴音が家族の真実をしった今、短いそれだけのことばが、多重の意味を持って鈴音の心をうつ。鈴音は目を細め、自分の心が揺れ動く様を感じた。
『鈴音、せめて無理をするな。お前を思っている鬼人がここにいる事を忘れるな。一太郎という翁が言っていたのだろう? 私はそれを伝え損なっていたが、今のお前なら分かる筈だ』
鈴音はただ頷くことしか出来なかった。これ程にも心が満たされる瞬間があるなんて、想像もしていなかった。あの日全てを失った自分は、きっとその時失った以上の大切な情を貰ったのだ。この目の前にいる、家族から。
鈴音はようやくこの夢の出発点を思い出した。自分はおじさんが失ってしまったものを取り戻して上げたかったのだ。過去を学び現実を知って、夢は形を変えたが根本は何も変わっていない。鬼人の為にも人間の為でもある。でも、心の深海・夢の先……全てはこの人の為に……