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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第四章
40/58

40,郷里の晩刻

 音無家……代々赤坂村の伝統を守り続けてきた古い下流階級の一族である。しかし十一年前に当時六歳の娘・音無綾乃が第七代目巫女に選ばれ、当時の主・音無圭介、その妻・香奈子、息子・龍一は特権階級の地位を得る。その恩赦で赤坂村の人民三十人は階級が一段階昇格した。


「だが母さんは、お前を生け贄に捧げたことを激しく後悔していた。あの日から一年も経たない間に激しく衰えて、死んでしまった。特権階級の医者でも心は治せなかったんだ」


 龍一は鈴音と目を合わせないようにして言った。鈴音は彼の話しに曖昧に頷きながらも、兄の姿を目に焼き付けようと必死な瞳で龍一を凝視していた。


 まるで夢のようだ。家族に会うことができるなんて……しかし、それが決して美しい事ではないことも、内心では理解している。母は自分を思ってくれていた。別れの時に見せたあの涙は、決して偽りではなかったのだ。だがその思いが原因でこの世を去った。そして父は−−


「父さんは……」


「もう止めよう……」


 龍一の話を、鈴音は即座に遮った。そうだ、人喰らいの手から鈴音と龍一が逃れた時、兄は言っていた。「俺は父を手にかけた」と……そしてこうも言っていた。「父は俺の大切なものを奪った張本人だった」と。鈴音を生け贄に送り出したのは、父だったのだ。


 鈴音も龍一もしばらくの間、口を開かなかった。鈴音は何を話せば良いのか分からなかったのだ。優しかった兄は太陽国の殺し屋になっていた。その裏には父と、自分がいた。


 鈴音は自分の死が多くの人達の道を歪ませているのだと、はっきりと気が付いていた。家族も一太郎も赤坂村の人々も。善し悪しは分からない。そんな気も勿論ない。しかし知らない間に、自分は大きな歪みを作り出してしまっていたのだ。それはまるで死者の呪いのように、鈴音の意志を踏み躙って悲しみを幾つも生み続けている。


 龍一は口を開こうと何度か口を動かして、結局なにも話さないでいた。彼もまた、何か思うところがあるのだろうか。それとも兄妹の再会による心の動揺ですら、暗影兵の訓練によって消し去られてしまうのだろうか。鈴音には判断がつかなかった。


 鈴音は次第に、この長い沈黙に耐えられなくなっていった。家族なのに、何故こんなにも他人行儀で接さなければならないのだろうか。十年の間に、兄は死すらも恐れぬ兵士となった。何もかもが変わってしまったのだ。龍一は鈴音と目を合わせない格好を維持したまま、溜め息をついて自分の額に手を添え、言い辛そうに尋ねた。


「なぁ……綾乃。お前は生きているんだよな」


 兄が何故そんなおかしな迷いを抱いているのか、鈴音には何となく分かった。現実とは思えない不可思議な感覚。長年思い続けていた事柄が叶った……その時に味わう夢想感。今まさに鈴音自信も味わっている奇妙な感覚。だから、鈴音にもその気持ちはよく分かる。


 鈴音は兄の包帯が巻かれている腕に自分の手を重ねた。兄は一瞬鈴音の顔を驚愕の表情で見つめ、直ぐにまた目を反らした。鈴音は兄のその様子に胸を痛めながら、悲痛の思いを言葉に表した。


「わたしは……いろいろあったけれど、生きてる。人の世から姿を隠して……ずっと……生きてきた」


 兄は何も答えない。鈴音は耐え難い程に苦しかった。兄は自分を護れなかったから、人を護れるようにと国王軍に入隊し、暗影兵となった。そうして何人もの命を奪い、自分の感情をも殺して生きてきたのだ。


 鈴音は自分でも知らぬ間に涙を流しながら、兄にすがり憑くようにして「ごめんなさい……ごめんなさい」と呟いていた。一度口にすると、もう堪えきれない。鈴音は必死に喘ぎながら続けた。


「全部歪ませた……わたしが! 生きたかった……でも……わたしが亡くなれば皆が救われるって……でも誰も救えてなんかない……お兄ちゃんもお父さんもお母さんも……誰も……」


 隣で泣く妹を見て、龍一は目を細めた。哀れむような瞳だった。しばらくして鈴音が落ち着いてから、龍一は語った。


「死者は語れない。道を選んだのは俺達だ。俺達が道を踏み外した。そして勝手に滅んでいったんだ」


 兄は初めて鈴音を正面から見た。そこには九百六十七番の冷たい笑みではなく、音無龍一の温かい笑みが浮かんでいた。鈴音の記憶の中では、遥か遠くに消え去ろうとしていた兄の姿が、ゆっくりと明瞭に戻ってきていた。


「俺こそ済まない。お前を支える柱になろうにも、お前を抱こうにも、俺は既に幸せになる権利などないんだ。俺達は兄妹だ。絆は誰にも切れやしない。でも、一緒にはいられない。俺はとうに罪深い咎人だ」


 鈴音の目に映る兄の、心の奥底は変わっていなかった。何故ならば、兄の瞳の深い闇の奥に、昔と変わらぬ兄の姿を見たように思えたからだ。鈴音が去年の生け贄祭で兄を九百六十七番として初めて見かけた時も、どこか懐かしい空気を感じていた。変わらずにあり続けた絆が確かにあるのだ。


 鈴音は瞳を拭い、兄を真っ直ぐに見つめた。一緒に生きていく事は出来ない。もう二度と会うことすらないかもしれない。だからこそ、最後に伝えなければならない言葉がある。鈴音は自分の胸に手を当てて言った。


「わたしはここにいる。お兄ちゃん、貴方を大切に思っている人がいるってことを忘れないで。自分が願う幸せを掴めるような生き方をして下さい。それが綾乃の……わたしの思いです」


 龍一は妹の必死の言葉に対する反応すら無意識のうちに押さえつけようとしていたが、それでも確かにしっかりと頷いた。


 翌朝に鈴音が気が付いた頃には、暗影兵の一団は一人残らず消えていた。兵達が使っていた布団は丁寧に畳められており、そこに人が寝ていたという痕跡を完全に消している。鈴音にとっては夢のような出来事で、昨晩の奇跡を現実のものと理解するまでに時間がかかった。


 兄と再会して、鈴音は決心した。国王の命令を果たす最後の手段をとることを。そして鬼人と人間を再び繋ぎ合わせる術を。危険な賭けだ。それによって自分は死ぬかもしれない。それでも自分が守りたいものと、描きたい未来の為にも、全てを変える機会は今しかないのだ。 


 昨日の逃走による身体の疲労はまだ残っている。左足はろくに動かず、身体の至るところは擦り傷だらけだ。それでも進まなければならない。鈴音は顔を冷たい井戸水で洗って、午前中ずっと体力の回復に努めた。そしてその日の夕暮れ、鬼風響きを吹いて再びグルルを呼んだ。


『なんだ。奴等に連れていかれずに済んだのか?』


 皮肉めいた口調で話すグルルに、鈴音は微笑みかけた。鈴音は自分の様子をグルルが何度か伺いに山を下りてきていた事には気が付いていたが、その件については触れない事に決めていた。


『グルル、お願い。わたしを中心都に連れていって。あなたとの約束を、わたしの夢を果たす為に、国王と契約する』


 グルルの戸惑いの表情を見つめながら、鈴音はニッコリと笑った。


 夕暮れの陽射しが、赤坂村を紅に染めていく。鈴音は出会いと再会を繰り返した古い故郷を、再び旅立った。



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