38,決死の逃走
鈴音は静寂な暗闇の中を早足で歩いていた。灯りも用意せず、月の光だけを頼りに進んでいたので、何度か石に躓いて転んでしまう。しかし痛む足を気にしている余裕は無かった。きっと暗影兵は気配を消しながら跡をつけて来ている筈だ。
鈴音は彼等の監視から逃れる為に花宮村と月影村を繋ぐ林道へ向かっていた。その道から逸れて林に向かい、赤坂村の山並みへと繋がる山道まで逃走する予定だ。グルルと立てた計画通りに事が進めば、笛が鳴り響いた地点から最も距離の近い無人の場所で二人は合流する。その為にもグルルが人前に姿を表さないで済む位置まで移動しなければならない。その間に暗影兵を撒く必要もある。
鈴音が林道に踏み込むと奇妙な音がした。何かがひっそりと歩む音。動物なのか人間なのかすら判断が付かない。しかし、どちらにせよ想定通りだ。
鈴音は林道の中腹地点で林の中へと足を踏み出した。更に騒々しくなるガサガサという音。樹木が好き放題に生い茂り地面は泥で覆われている。木の枝が頬を掠め、鋭い葉に腕を切り裂かれる。ぬかるんだ地面に足を取られ、着物は泥にまみれた。左足を挫き、脚を引き摺って歩く。
最初の内は誰かが自分の後を追っている様子が例の音から感じられた。しかし気が付けばその音も消え失せ、鈴音は暗影兵を撒く事に成功したのだと理解する。良かった……心の底から安堵した。しかしその為に払った代償は余りにも大きい。
鈴音は現在どこを歩いているのかすらも安易なまま、身体を庇いつつ進み続けた。腕の切り傷からは血液が滴り、挫いた左足はほとんど動かず、身体に纏わり付く泥は只管に不快だ。疲労は身体の自由を根こそぎ奪う。終には腐葉土の柔らかな地面に腰を下ろし、肉削げた樹木にぐったりと凭れ掛かった。そして鋭い痛みに耐えながら腕を上げて、鬼風響きをもう一度強く吹いた。
力が入らず、一歩も動けない。鈴音は昔から森歩きを好んで行っていたが、この様に危険な道を急いで歩んだのは初めてだった。暖かい地域といえど夜の林は冷え込んでいる。しばらくすると鈴音の身体はガタガタ震え始めた。
日が昇り始めるまで痛みと寒さに耐え続ける。太陽の光が葉を全て落とした白い樹木を照らし、湿った地面に巨大な影を落とし始めた頃、鈴音の目の前に赤い瞳を持つ黒い巨体がのっそりと現れた。
『二回目は耳に堪えたぞ』
嫌みったらしく言うグルル。急いで駆け付けてくれたのであろう。身体は泥塗れであった。鈴音はグルルを視認した途端、自然と顔が綻ぶのを感じる。もう大丈夫……心の底からそう思った。
鈴音はグルルの背に全身を預けてぐったりと乗り、大きな身体の暖かさと黒い体毛の艶を久し振りに感じていた。グルルは鈴音の身体が脱力している事に気付き、故意にゆっくり歩いてくれる。枝の合間からこぼれ落ちる日の光がとても心地良かった。
『人間の王がそんな事をねぇ……』
鈴音が今までの事情をグルルに伝えると、彼は人間に対する嫌悪感を隠さずに応えた。
『グルル……わたしどうすればいいんだろう……』
『知らん』
相変わらずの返答だった。グルルの筋肉の躍動を感じながら、鈴音は涙声で続ける。
『わたしって、我が儘だったんだね。こんな事になっても、未だに夢を叶えたいと思ってる。人も鬼も……誰も望んでいない夢を』
『ああそうだ。お前は我が儘だ』
グルルが呆れた口調で即答した。鈴音は顔をグルルの体毛に埋めながら、ゆっくりと頷く。しばらく二人は口を開かず、巨大な体躯の鬼熊が歩行する音だけが聞こえた。数十分が経過すると、意を決したのか今度はグルルが話し始める。
『お前がその誰も望んでいない夢を叶えに来なかったら、俺様は人間を殺していた。その後、俺様自信も死んでいた。ジジィも報われなかった』
鈴音は驚き、顔を僅かに上げた。背中からではグルルの表情を伺う事は出来ない。しかし、口調から照れている様子が伝わる。その後、グルルは溜め息を吐いてぶっきらぼうに続けた。
『お前が我が儘でなければ、人喰らいに囚われていた暗影兵は残酷な死に方をしていた。そんな我が儘なら、まだ救いようはあるだろう』
鈴音は涙がじんわりと瞳に浮かび、それを誤魔化すように俯いて、籠もった声で『有り難う』と伝えた。しかし、グルルは聞こえていない振りをする。
ある程度の時間が経過した。現在グルルは山を下っているようで、身体がユサユサと揺れる。鈴音は自分でも気が付かぬ間に眠りの世界に落ちていた。グルルの筋肉が強張る様子で目が覚め、ふと疑問を思い浮かべる。その問いを理解したいが為に、寝起き声で尋ねた。
『グ……グルルは、人が嫌い?』
グルルは考える必要もない様子だ。『嫌いだね。人も鬼人も』と即答した。鈴音は予想通りの返答に傷付いたが、仕方のない事だとも考える。鬼熊はどちらの種族にも利用されてきたのだから。グルルに自分の気持ちを伝えたい……そう思ったが、睡魔に負け、再び静かに目を閉じた。
次に鈴音が意識を取り戻した頃には、周囲はすっかり闇に包まれていた。挫いた左足と腕の切り傷は未だに痛むが、身体の怠さは消え去っている。
グルルは今平坦な林の中を歩いている。赤坂村に随分と近付いた為、視界を埋め尽くす樹木は雪で真っ白だ。鈴音の着物は泥で汚れ、濡れている。足袋を履いている両足の体温が奪われた。息を吐くたびに白い煙が口から溢れる。再び身体が震え始めたが、グルルの体温のおかげでそれ程苦しまずに済んだ。
グルルは見慣れた道を歩き始めた。鈴音が顔を上げると、目の前にかやぶきの家が建っている。
『さて、駄賃は果物でいいぞ』
グルルが白い息を吐きながらそう告げると、鈴音は笑みを浮かべて、足を庇いながら彼の背を下りる。そして『しばらくここにいてね』と告げてから、今は亡き一太郎の家へと向かった。
暖炉に火を点けてから、着物を着替え、身拭いをし、適当な果実を食料入れから見繕って、屋根の下に待っているグルルに与えた。その際自分の果物も用意し、グルルの暖かい身体に寄り添って、一緒に夕食を食べた。
赤坂村は真っ白な雪が降り積もり、月の灯りを四方八方に反射させ、とても明るく見える。鈴音は家の玄関前の長椅子に座り、これから先のことを考え始めた。その様子を、先程夕食の木の実を食べ終えたグルルが眺めて、『風邪ひくぞ』と小声で忠告する。鈴音は小さく頷いたが、グルルの背で眠っていた為か頭は冴えていた。鬼人の為に……人の為に。鈴音は口を開いた。
『グルル、あなたは自分が人を好きになれると思う?』
グルルは鈴音のその問いには応えなかった。無視をしているというより、何かに気を取られているようだ。鈴音が『グルル?』と問い掛けても何の反応もしない。耳をピンと張って、林道の更に向こう、赤坂村の方を注意深く伺っている。その眼は野生の獣そのもので、鈴音はなんだか不安になった。
そしてグルルは突然立ち上がり、鈴音に向かって言った。
『誰かがこの村に来た。気配が薄くて血の匂いがする人間だ……複数いる』
暗影兵……? 鈴音も立ち上がり、自分が次に取るべき行動を考えた。然れども、別の疑念がその思考を阻害する。それは、何故自分の所在地に気付かれたのかである。敢えてゆっくりと移動していたとはいえ、鬼熊を追跡する事など人間に出来る訳がないし、第一それならば途中でグルル自身が気が付いていただろう。古瀬家繋がりだろうか。しかし古瀬はもともと別の村の名であるし、一太郎が赤坂村に一人留まっていた内情を知っているのは、一太郎が本当に信頼していた数名だけだ。
と言う事は……自分を追ってきた訳ではない?
『どうやらこの林道は見つけられないらしいな。ここは安全だが……しかし、どうして奴等は血の匂いがこんなにも……』
グルルがぼそりと呟いた言葉に鈴音は反応した。血の匂いがするという事は、誰かを傷付けたのか……自分自身が傷付いているか?
『大変……助けにいかなきゃ』
根拠のない不確かな考えだというのに、鈴音はそう確信していた。グルルは『はぁ?』と驚いた口調で呟いてから、猛烈な勢いで怒鳴る。
『何を言ってるんだ。奴等は十中八九暗影兵だぞ』
巨体の鬼熊に怒鳴られて鈴音は怯んだが、笑顔を浮かべて答えた。
『大丈夫、きっと彼等はわたしの件とは無関係だよ。わたしがここにいる事がばれる筈がないもの』
『ばれる筈がないのに、ばらしに行くのか?』
『ケガをしているかもしれないんでしょ……助けたい。ううん、助けなきゃ。ごめんなさい、グルル』
鈴音は言いながら、左足を引き摺って走りだした。グルルは呆れた声で『ああ、お前はそういう奴だよ』と言うと、隠れ場所のどこか山の奥へと走り去って行った。