36,暗影兵の来訪
変わらぬ日常が続く……無意識の内にそう信じていた。
鈴音が日常の何気ない箇所に違和感を覚え始めたのは、職場からみやさわに帰宅して、身体を休める為に自室へ向かっていた途中である。普段気にも掛けていない家具の位置から不安を感じた上に、数ヶ月間戸も開けていない客室の襖が微妙に開いている。箪笥に畳んでいた着物も若干ながら乱れていた。まるで誰かが家の中を調べていたような様子である。
玄関の鍵は閉まっていた。鍵を持つのは自分とお千代しかいない。誰も侵入する事など出来ない筈だ。しかしどうなのだろう……借り物とはいえ数ヶ月間寝泊まりした家に、今更こんな奇妙な感覚を覚えるものなのだろうか。
鈴音は戸惑っていた。こういう時、人間はどう対処するのだろうか。自分の思い違いで人様に迷惑を掛ける訳にもいかないし、だからといって今の状況では安眠も出来やしない。その時、不意に玄関から聞き慣れない男の呼び声が響いてきた。鈴音は誰だろうと訝しく思いながら急いで長い廊下を渡り、誰も使わない空っぽの客室をいつものように素通りしてから玄関へと向かった。
蝋燭の明かりが灯った薄暗い玄関。屋根を支えている黒ずんだ檜の柱が明かりに照らされ、黒く長い影を床に落としている。そしてその影に重なるように、笠を被った男が二人、静寂を纏う如く佇んでいた。
「古瀬鈴音殿ですね?」
鈴音から見て左側に立つ男がそう尋ねながら頭の上の笠をとり、深々と御辞儀をした。男の歳は四十くらいで、眼光は鴉の様に鋭く、頭は剃りあげられている。鈴音が「はい……」と頷くと、男はいつもそれを話しているかのような慣れた口調で一気に話し始めた。
「私は九百二十一番、これは千六番です。我等は太陽国暗影兵であり、貴方が私達の言葉に背けばそれは即ち国王への反逆となります。それらを承知した上で、私達と馬車に同乗して下さい。私達は貴方を最高の客人として迎えるように指示されております」
鈴音は突然の暗影兵の来訪に困惑を隠せなかった。自分は幾つかの罪を犯している。その歴然とした自覚が、動揺に拍車を掛けた。鬼熊の脱走を手伝った事、家柄の詐称、そして生け贄の役目を果たしていないという十年前の事実。しかしそれらが発覚するにはあまりにも時間が経ちすぎているし、証拠も何一つ一切残していない筈だ。
そして「最高の客人」という暗影兵の言葉……国王にとっての最高の客人など、他国の長にしか使われないような言葉である。それを下流階級どころか出身国も安易な外国人に使うなんて考えられない話だ。しかしそうかと思えば、自分達に従わなければ痛い目にあうとも告げている。
鈴音は長い間ずっと黙り込んで思案していた。暗影兵二人はその間まったく微動だにせず、無表情のままでただそこに直立していた。無言の圧力、重苦しい空気。鈴音はその雰囲気に破れ、足袋を履きながら二人に尋ねた。
「わたしは何か咎を犯したのでしょうか?」
「はい。しかし今は咎人でも、近い将来あなたは永遠に約束された地位を得ることでしょう」
男は事前に用意されていたであろう答えを、機械的に無感情で返した。
鈴音の為に用意された馬車は、咎人を移送する物にしては随分と豪華であった。もちろん十年前に鈴音が乗車した巫女の馬車には及ばないが、高価な石で飾られた姿は暗い闇の中でも美しく、煌びやかである。しかし、花宮村の質素な外観には酷く不似合いであった。
鈴音は暗影兵の指示に従って馬車に乗り込んだ。次いで二人の暗影兵が乗車すると、馬車は音を立てて動き始めた。正面を向けば、機械の様な男が無表情で自分を見詰めている。ならばと、鈴音は馬車についている小窓から外を眺めた。しかし残念ながら、そこには恐ろしい形相で馬を叩いている暗影兵の姿しか確認出来ない。いくら最高級の作りであり、乗り心地が良い馬車の旅であっても、これでは楽しめる筈もなかった。
馬車の中にいる二人の暗影兵。彼等はあまりにも気配を隠すのが巧みなので、鈴音が僅かに油断すると、目の前にいる彼等の存在を忘れてしまった。薄く、冷たい存在感。生命の気配はまるで感じられない。
鈴音は時間の経過を感じられなかった。それだけの余裕がなかったのである。だからこそ、馬車から一歩足を踏み出した時、目の前に中心都太陽城城門前が広がる衝撃は大きかった。馬車はいつの間にか中心都の街路を走り抜け、太陽城の直前地点まで辿り着いていたのである。グルルが暴れた神住み広場は平坦に整備され、広い空間に巫女達の石像が寂しく立っていた。この位置から見渡せる景色はそれぐらいである。
暗影兵や警備兵が指示を出し、太陽城の城門が鈴音の為だけに開かれた。鈴音は門が開かれる重厚な音を聞きながら、不安と同時に郷愁の意を感じていた。昔一度だけ、この音を聞いた事がある。自分の命に諦めを着け、この世を旅立つ決意をしたあの日のことを。
門が完全に開かれると、太陽城の全貌が姿を顕した。見る物を圧倒させる巨大な国の象徴。莫大な歴史を形に変え、主の命を、誇りを守る為に、その堂々たる姿を活目させている。障子から漏れる光の粒子。生きる力そのものが、建物となって姿を成した。そう思わせる生命感を含んでいる。
城壁と城門に囲まれた国王の住まい。周囲には建物がなく、広い空間には何百何千という兵士達が見張りや訓練を行っている。城下には十本程の樹木に小さな濁った池、余計なものはとことん排除されていた。太陽城までの行く手を遮るのは城壁と城門とこの兵士達だけである。
鈴音は城壁内の警備兵に連れられ、太陽城へと歩いて向かった。武骨な鎧を身に纏った兵士達は暗影兵と変わらぬ程に不気味な空気を纏っていたが、唯一異なる点といえば、彼等は兜を被っているので表情が見えないところである。鈴音は睨まれないで済むという小さな救いを得た。
太陽国で最も偉大な建物・太陽城。一歩近付くに連れて、その巨大な姿にますます圧倒される。そしてついに城の扉が開かれ、鈴音は城中へと招かれた。そこで警備兵の役目は終わり、次に赤く派手な衣裳を纏った若い侍女に案内された。
「王があなたに会いたいとおっしゃっています」
侍女の言葉に、鈴音はそんな馬鹿な事はないだろうと内心驚いた。突然訳も分からず暗影兵に連れられて、その日のうちに国王に会うなんて全てが唐突過ぎる。鈴音は侍女に連れられて階段を上がる間、城の中を眺めようとする探究心すら湧いて来なかった。普段ならば好奇心溢れる瞳で見回していたであろう城の巨大な一室も、階段の至る所に掘られた龍の彫刻も、視界に入らなかったのである。
鈴音は安っぽい衣裳のまま長い階段をひたすら登って、城の最上階へと辿り着いた。襖が幾つも作られた廊下を渡り、一際大きな扉の前で止まる。その両脇には、城下の兵と比べても幾分と強靭そうな鎧を纏った警備兵が目を光らしていた。侍女が警備兵に何事かを伝えると、兵は頭を剃りあげた黒服の王の代理人を別の部屋から呼び出した。その代理人が扉を開けて、鈴音はようやく国王の客間へと足を踏み入れる許可を得た。
その部屋は昔、鈴音が巫女としてこの城を訪れた時に案内された室と同じだった。磨き上げられたピカピカの机が部屋の中央に置かれ、その上に特権階級の者でも滅多に口にする事ができないような豪華な料理が並べられている。
そして国王は、橙色の宝石が無数にはめ込まれた派手な椅子に腰をかけ、今しがた部屋にやってきた鈴音と代理人を静かな瞳で見詰めていた。
深く老いた国王……鈴音の記憶は薄れていたが、十年前に初めて会いおうた時と変わらず普通の老人のように見えてしまう。身体は痩せ細り、白髭を申し訳程度に顎に生やしていて、額には深い皺が何本も刻まれている。しかしそんな様子も、金の冠と銀の衣裳が何とか威厳を保たせていた。
「古瀬鈴音殿……さぁ腰を掛けよ。そなたの為に用意した馳走だ」
国王は歓迎の表情を浮かべ、しかし低い声で言った。