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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第三章
34/58

34,一番大切なモノ

 夏の暑い日差しが眩ゆいある日、馬車は滑車と馬の蹄の音を繰り返し立てながら、土を固めて舗装された道をゆっくりと進んでゆく。固められた道の両端には多種多様な樹木が途切れる事なく植えられており、道行く人々を飽きさせない工夫が施されていた。


 そして鈴音は、その工夫に目を奪われている。あの植物は……あの樹木は……といったように、いつか図鑑で見掛けた物を、実際に自分の目で眺めて楽しんでいた。鈴音のその様子に好奇心が疼いたのか、茶子は「古瀬さんは植物が好きなの?」と興味津々に尋ねてきた。


「はい、昔から自然を身近に生きて来ましたから」と鈴音は答える。それが鬼の島で鬼と共になどとは口が裂けても言えない。


 馬車が通っているのは非常になだらかな道なので、以前に学年行事で起こったような衝撃は襲って来なかった。故に鈴音は、馬車の椅子にゆったりと座って、心地よく揺れる乗り物の中から、優雅に外を眺める事が出来た。


 鈴音達がこの旅で宿泊する旅館に着いたのは、ちょうど日が落ち始めた頃である。その旅館は茶子が話していたような酷いものではなく、むしろ美しいと形容してもおかしくない程に整えられた建物であった。その変貌ぶりに驚いた茶子が旅館の従業員に尋ねたところ、彼曰く最近雇った老婆の尋常でない働きにより、この旅館は外観から内部の細かい所まで立派になったのだという。たった一人の老婆による突然の変貌など茶子は信じなかったが、鈴音には心当たりがあったので容易に信じた。


 あの人は場所を変えて、新しい土地で頑張っているのか……鈴音はなんだかしみじみとした気持ちになった。もしかしたらもう、彼女はみやさわに帰って来ないつもりなのかもしれない。


 鈴音と茶子は整頓された二人部屋に案内されて、そこでしばらくの間くつろいでから、更に身体を休めるべく浴場へと向かった。まだ時間が早い為か、浴場には誰もいない。二人は広い浴場を貸し切れる事に喜んで、湯船に浸かった。


 馬車に揺られるだけの旅だったが、鈴音の身体には随分と疲労が溜まっていたらしい。温かいお湯に浸かった途端、全身から疲れが抜けてゆき、思わずため息のような声が漏れた。その声を聞いて、隣に座っていた茶子が噴き出して笑いながら、鈴音に話し掛けた。


「古瀬先生……ややこしいから今は鈴音ちゃんって呼ぶけど、随分疲れてたみたいね」


 鈴音はその言葉に頬を赤らめながら、膝を丸めて自分の腕を何気なく伸ばしみた。すると、茶子が鈴音の腕を見て、再び口を開く。


「細いわねぇ……もともと痩せてたけど、最近さらに痩せてきたわよ」


 鈴音は自分でも、自分の身体が弱っている事に気が付いていた。弱々しく伸ばした腕は白い細枝のようだと茶子が形容する。一太郎の死から、物をお腹一杯に食べた記憶がなかったのだから、当然の結果だ。しばしの沈黙の後、茶子が昔を懐かしむように目を細めて、ゆっくりと話した。


「古瀬先生はね、素晴らしい教師だったわ。昔は勉強の出来ない子を集めてよく勉強会を開いていたの。今から行く小屋はその為に作られた建物よ」


「……おじいちゃんらしいです」


 鈴音は言葉を返しつつ、微笑んでいた。本当にあの人らしい……。


「実はね、私達教師のほとんどはその出来ない子だったのよ。古瀬先生に導かれて教師になった。だから生徒達が嫌うぐらいに、この職に誇りを抱いてるの。何よりも大好きな人と同じ道を歩いているから……」


 そうだったのか……鈴音は目を丸くして、茶子の話を聞いていた。一太郎はこの世にたくさんの偉大なものを遺したのだ。若い生徒達の前に美しい道を描き、進むべき橋を築き上げ、そこを渡るように導いた。


 茶子が黙ると、鈴音は俯きながら水面に映った自分の顔を見た。その途端、一太郎との想い出が溢れるように頭に浮かび、言葉が自然と口から出ていた。


「おじいちゃんは凄い人でした。なんでもよく知っていたし、優しかったし、本当に凄い人で……」


 鈴音は潤んだ瞳を誤魔化そうと自分の濡れた腕で目を拭ったが、涙は後から後から溢れ出てきてどうしようもなかった。それでも鈴音は嗚咽を交えながら話を続ける。


「わたしは……おじいちゃんからたくさんの事を学んで……大切なものを貰って……なのに、わたしは何も返せてない……!」


 肩を震わす鈴音の背を、茶子は優しく撫でた。そうして鈴音が落ち着きを取り戻してから、茶子は「そうかしら?」と一言呟いた。顔を上げて首を傾げる鈴音に、茶子は続ける。


「あなたはね、古瀬先生に充分大切なものを返せていたと思う。ううん……古瀬先生だけじゃなくて、皆にね。実は、この旅を考案したのって昇太や遠藤さん、仁くんなのよ」


「みんなが……?」


「彼等だけじゃないわ。黒澤くんとか、図書館によく通ってる人はみんな職員室に来てあなたを心配していたの」


 鈴音は自分を心配してくれた人々に申し訳ない気持ちになった。その様子を見て、茶子が悲しそうに、いつの間にか教師としての口調で話し始める。


「あなたは自分の事を知らなさすぎよ……凄く素敵なのに。あなたが苦しんでいる姿を見て、悲しむ人がいることを学びなさい。自分を大切にするの」


 これが愛なのだろうか……と鈴音は思った。理由なく、無償に人を思う事……鈴音は小さく頷き、目をもう一度拭った。


 一太郎の小屋へとたどり着くのには山道を越えて行かねばならなかったが、その行動に鈴音は全く苦を感じなかった。胸には暖かなものが溢れ、元気が心の底から湧いてきたからである。今ならどこにだって行けそうな気がしていた。


 山の中腹は地上よりも空気が薄かったが、あらゆる物が澄んでいるように思えた。小屋の建てられている拓けた土地は若草が植えられていて、一面薄緑色である。その中に生えた小さな黄色い花に、美しい蝶や蜂が止まっていた。


 小屋は長い間放置されていたので汚れていた。置かれている道具は机や筆記具ぐらいで他には何もない。質素で歴史の重みがある……まさに一太郎の小屋だ。


 茶子の「あの人らしいでしょ」という言葉に、鈴音は微笑みながら「本当に」と頷いた。この土地が、この小屋が、この空気が、全て懐かしい一太郎そのもののように感じる。首を上げて山から空を見上げると、太陽の光で青く染まった空に小さな雲が、なだらかな風に揺られて泳いでいた。


 鈴音は風になびく自分の髪を抑え、花柄の髪飾りを優しく指で触りながら思った。


 おじいちゃん……わたしともう一度会ってくれて有り難う。わたしに人を学ばせてくれて有り難う。わたしを愛していると言ってくれて有り難う。


 わたしは生きていきます。鬼人と人間の未来を繋ぐ為に……過去を思うんじゃなく、今を生きていく世界を目指して……出来ればわたしを、天から見守っていて下さい。


 あなたの教えは決して忘れません。ずっとずっと大好き……有り難う、おじいちゃん。




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