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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第三章
33/58

33,無感覚の世界

 鈴音が一太郎の死を生前彼と親しかった者に伝え始めたのは、学舎の全学年行事が終わりを迎えた翌日であった。


 最初に鈴音の報告を聞いたのは、学舎の職員室にいた教師達であった。一太郎が教師を勤めていた時代に、多くの事柄で彼の世話になっていた彼等は、驚きと悲しみを隠す事が出来ぬ程に動揺した。嘆き悲しみ立っていられなくなる者や、目に涙を浮かべながら沈黙し続けている者。鈴音の言葉を頑として聞き入れようとしない者もいた。


「御遺体はどうなされたので?」


 来年には定年を迎える服部去来校長先生が、手を震わしながら尋ねた。確か彼は、一太郎が初めて担当した教室の生徒である。鈴音は暗い調子で端的に「棺に入れ、赤坂村の墓地に埋めました」と説明した。


 一太郎の死後、日が昇る前に、荒れた赤坂村の墓地を、鈴音がグルルと協力して掘ったのだ。棺は一太郎自身が事前に用意していた。一太郎はグルルに身振り手振りでどうにか説明して、棺の為の材木を用意して貰っていたらしい。一太郎の亡骸と手向けの花々を納めた棺は、古瀬おたつと刻まれた墓標の直ぐ隣に埋められた。


『ジジィはだいぶ前から自分の死期を悟っていたらしい』


 グルルが鈴音の様子をチラチラと伺いながらそう告げた瞬間、鈴音は胸が張り裂けそうな程に悲しくなった。何故、自分はその事に気が付かなかったのだろう。おじいちゃんの体調が芳しくないことは知っていたのに。もっと気遣う事だって出来た筈なのに……。


 どれだけ悔やんだところで、それが何の意味も持たないことには気が付いていたけれど、今の鈴音には、自分の慰めの為に生前の一太郎の姿を繰り返し頭に浮かべる事しか出来なかった。


 鈴音は仕事を片付けて、力のこもらない足で家に帰宅した後、交易島で医者を営んでいる椎名文瀬のもとへ手紙を送った。一太郎の知り合いで鈴音が認知している人物といえば、学舎の教師達と彼ぐらいである。赤坂村の元住民達には手紙を送る手段もないし、鈴音が関わりを避ける為にも、なんの行動も起こさなかった。


 無味無臭無色の世界。鈴音はその中へと叩き落とされた。生きている心地がしない。世の中の小さな一つ一つの事柄が、一太郎の姿を思い出すきっかけとなり、人知れず瞳を真っ赤にする毎日が続いた。


 放課後の図書館。鈴音がいつものように勉強机で栄作と本を読んでいると、栄作が突然真剣な声音で、読んでいる参考書とは全く別の事柄を鈴音に尋ねた。


「最近、先生はどこか身体の調子が優れないのですか?」


 鈴音は読んでいた歴史書から目を離し、少し驚きながら栄作の顔を見て「どうして?」と首を傾げながら尋ねた。


「いえ、元気が無いように見受けられたので。僕の気のせいならいいんですけど……」


 鈴音は皆に余計な心配をかけないようにといつも通りに振る舞っているつもりだったのだが、あっさりと見抜かれていたようだ。鈴音はその場では曖昧に笑って誤魔化したのだが、事情を知っている教師陣ならまだ納得できても、何も知らされていない筈の栄作、翌日には成子や仁や昇太にまで心配されてしまったのである。


 誰かに心配されても、鈴音は困ったような笑みを浮かべてその話を有耶無耶にするのだった。事情を説明すれば彼等を余計に心配させてしまうと思ったからだ。そして鈴音はある時分に突然気が付いた。これが愛を知らないという事なのだろうか。わたしは皆を信用していないのだろうか……と。


 気が付けば一週間、二週間と過ぎ去っていたが、鈴音は何をしていても心の底から浮かばれる事がなかった。まるで一太郎の命と共に、自分の大切な心の一部を失ってしまったかのようだ。


 六月も終わりを迎え、例年よりも素早く夏がやって来た。太陽国中が蒸し暑く、ジッとしているだけでも汗が流れるような日々が続く。月影村を取り囲む林は青々と栄え、林道には夏の花々が姿を現した。


 ある日の日暮れ、鈴音はいつものように、生徒が返却した本やら資料集やらをもとの棚へと戻していた。もうどこが何の棚かは覚えていたので、一々棚の確認をする必要もなく、素早く本をもとの場所に戻せる。


 鈴音はその時に教材棚である本を見付けた。〈作法と礼儀〉という、生徒が社会を学ぶために読む資料である。一太郎のもとで暮らした一ヶ月、この本を参考に鈴音は人間世界の礼節を学んだ。そこで不意に、目頭が熱くなってしまう。もう、ああやって優しく物事をおじいちゃんから教えて貰う事は出来ないんだ。


 そうしてその本をぼんやりと眺めていると、図書館の戸を開けるガラガラという大きな音が響いた。鈴音は驚いて急いで本を戻し、目を拭って開かれた戸を見た。そこには、図書館には滅多に姿を現すことのない茶子が立っている。鈴音は茶子と目が合ったので微笑み、急いで彼女に駆け寄った。


「内藤先生が図書館に来られるのは珍しいですね。何かお探しの本がお有りですか?」


 鈴音が尋ねると、茶子は愛想良く笑顔を返して、右手に持っていたうちわで鈴音を扇ぎながら唐突に言った。


「明日、あなた休みをとらない?」


 茶子の問いに、鈴音は「え?」としか応えられなかった。明日は平日であり、仕事はまだまだ残っている。何故先生はそんな事をおっしゃっるのだろうと考えていると、茶子がその思いを感じ取ったかのように話した。


「実は、秘密の場所があるの。そこに私と行きましょう。古瀬先生の補修小屋なんて、昔は呼ばれていた所よ」


 そう言われて、鈴音が反応しない筈はなかった。しかし、今は出来るだけ、一太郎の事を考えたくないとも思っている。考えたところで虚しくて、思えば思う程胸が苦しくなるだけなのだから。


 鈴音が黙って俯いていると、茶子は微笑みながら一人で頷き、真剣な口調で続けた。


「気持ちは分かる……なんて安易な言葉は言えないけれど、時間が経ってから行くよりも、今行くべきだと私は思うのよ。きっと何よりも意味のある旅になるでしょう」


 意味……この色のない世界で、本当に意味のあるものを見付けだせるのだろうか。しかし、このまま皆に心配され続ける訳にもいかない。鈴音が茶子の顔を見ると、茶子はもう一度力強く頷いた。その茶子の姿がなんとも頼もしかったので、鈴音は表情を引き締め直して、彼女の問いに応える為に頷き返した。


 その小屋は中心都から東に数里進んだ山の中腹に建てられているらしい。一太郎の生まれ故郷が山から見下ろす事ができ、小屋の建てられている拓けた土地には、若草が美しく地面を覆っていると、茶子が目を細めて自分の思い出を懐かしみながら説明していた。


 但しその山へはある程度の距離があるので、明日とその翌日の休日を全て使いきってようやく帰って来られる距離らしい。つまり道中に一泊する場所が必要になるのだが、茶子曰くその日に泊まる予定の宿が伝統あるボロ宿だという。しかし鈴音は、その冗談なのか本気なのか分からない茶子の言葉に、不満など感じなかった。鈴音はただ、一太郎がこの世に残した何かに触れてみたかったのである。



 その日の夜は直ぐに過ぎ去った。鈴音は朝早くに一泊分の自分の荷物を持って、急いで我が家を出た。


 それから、集合予定場所である花宮村の馬小屋の前に行き、ブルルと鼻を鳴らしている馬達を見て、微笑みながら眺めた。


 どれぐらいそうして待っていたかは分からないが、そう長くも経たない内に、茶子が大きな荷物を持って、鈴音のもとに小走りでやって来た。


「行きましょうか」


 茶子がニッコリ笑って元気にそう言ったので、鈴音は頷き、自分の高鳴る鼓動を感じながら、馬車を借りて御者を雇い、花宮村を出発した。




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