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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第三章
32/58

32,一生の意義

 グルルの背に乗り、疾風の如く山林を進む。風を駆け抜け、樹木の細い枝に体をぶつけながらも、鈴音は痛みを気にする余裕など無かった。グルルの背に乗っている事にも実感が湧かない。頬に擦り傷が出来たり、着物も滅茶苦茶に草臥れたが、頭には一太郎の姿しか浮かばなかった。


『おじいちゃん……おじいちゃん……』


 鈴音は自分も知らない間に、グルルの背に額を着けて、小さな声で呟いていた。瞳には涙が溜まり、無意識の間に手には力が篭もる。身体はどうしようもなく震えた。本当に大切なモノが、突然この世から消え去ろうとしている。信じられる筈も無かった。


 グルルは赤坂村の林道を風よりも速く走り続け、あっという間に一太郎の家が見え始めた。不意に『もう着くぞ』というグルルの声が聞こえたので、鈴音はゆっくりと顔を上げた。すると、驚いた事に一太郎は玄関前の長椅子に腰を下ろして、柔和な微笑みで林道の方を、つまり鈴音とグルルを優しく見詰めていた。


 鈴音は戸惑いの表情のままグルルの背から急いで下りて、一太郎の下へと駆け寄った。一太郎はいつもと何も変わらない調子で「久しぶりじゃな」と鈴音を暖かく迎えた。鈴音は相変わらず身体を震わせながら、息を整え、涙声で尋ねる。


「だ、大丈夫なの……? か、身体……」


 一太郎はフフンと笑うと「ドッキリじゃ」と可笑しげに言った。鈴音は何も言い返さず、一太郎の言葉の続きを待った。一太郎はもう一度笑うと、グルルに顔を向けて続けた。


「グルルとわしがお主を驚かせようと思っての」


 鈴音は遂に耐え切れなくなり、一太郎を見詰めたまま涙を流して嗚咽交じりに返事をした。


「嘘……吐かないで……話せないでしょう……」


 一太郎はもう一度微笑み、コクリと頷いた。一太郎がそんな嘘を吐くと言う事は、本当なのだ。彼はもう長くない……それをグルルも一太郎自身も理解している。鈴音は一太郎の前で両膝を着いて、激しく泣き始めた。一太郎はそんな鈴音の頭を優しく撫で、隣に座るように促した。鈴音はその指示に従い、頬を流れ続ける涙を袖で拭いながら、長椅子に腰を下ろした。


「そう悲しんではならぬ……死は自然な事じゃ。それも、わしのような年の人間にはの。全く自然じゃ」


 泣き続ける鈴音を落ち着かせようと背を撫でながら一太郎が言った。もう直ぐに命が絶えるというのに、何故これほど鎮かでいられるのだろう。どうして、普段と変わらないで佇めるのだろう。


「わしは何年も前にこの世を去っていてもおかしくなかった」


 一太郎は暗闇の奥を眺めながら、鈴音の背を撫でつつ語り始めた。瞳は真っ直ぐで、心が洗われるような暖かさがある。命の灯火が消えかけている人間の眼光にしては、あまりにも力強かった。


「原因も分からぬ奇妙な病は、十年前、わしの身体を蝕み始めた。医者に告げられた寿命は三年じゃ。しかし、わしはこれまで生きてきた。生きねばならぬ予感がしたのじゃ」


 一太郎はそう言ってから、鈴音の顔を真っ直ぐな瞳で見つめた。鈴音は頬を赤く染めながら、涙を溜めた瞳で一太郎を見返す。


「お主にもう一度、会う為にの」


 鈴音は小さく頷き、嗚咽を交じらせた細い声で、一生懸命に言葉を返した。


「ごめんなさい……わたし、おじいちゃんから……大切な……もの……たくさん……貰ったのに……何も返せてない……」


 すると一太郎は溜め息をついて、悲しげに言った。


「おたつの髪止め、何故お主に渡したか、分かったかの?」


 鈴音は何も答えず、首を横に振った。今は一太郎以外の事は何も考えられない。しばらくの沈黙を置き、一太郎は真剣な眼差しのまま続けた。


「綾乃……お主は両親に裏切られ、慕っていた村人に裏切られ、知らぬ間に、お主自身が気が付かぬうちに、人に愛されるという事が、理解できなくなっておるのじゃ」


 鈴音は目を擦るのを止め、一太郎の言葉の意味を飲み込もうとした。しかし、その言葉は鈴音にとって不明瞭で、確かな意味を理解できなかった。


「わたしが……愛を理解していない……」


「わしがお主に教える最後の言葉じゃ。よく聞いておくれ」


 最後……鈴音は再び悲しい気持ちになったが、涙を堪えて頷いた。一太郎は大きく咳き込んだ後、ゆっくりと話し始めた。


「お主は愛されておる……わしからも、グルルからも、鬼人の親や友達、人間の友達からも、愛されておるのじゃ。それに気付かず、自らを苦しみに追い込むでない。お主が苦しむ姿を見て、悲しむ者がいるという事を忘れないでほしい」


 一太郎はそう言い終えると、自分の首から下げた〈鬼風響き〉を手に持って鈴音に渡し、眼を閉じて長椅子の背もたれに身体をあずけた。鈴音は一太郎を見て、涙を一杯に溜めた瞳のまま、笑顔になって「有難う……おじいちゃん……」と静かな声で、呟くように言った。目を細めた時、涙がまた頬を伝った。


 一太郎は目を閉じたまま、小さく頷いたように見えた。鈴音は一太郎の手をとり、ギュッと握った。一太郎も最後に残った僅かな力で握り返してくれた。鈴音は、その時が来るまでそうしているつもりだ。


 暗い夜空には幾つもの小さな星が輝いている。まるで光の川のようだ。浮かんでいる雲は満月を隠し、空を濃い青色に染めている。赤坂村の夜空は普段となにも変わらず、これから先も不変のままの、偉大な姿であった。




 長い間生きてきたが、死について考えた事は数える程しかない。しかし死が恐ろしいとも思わない。家族を失い、村に人が去った後、もはや数年しか生きられない老体でも、何かやるべき事がある筈だと信じて生きてきた。無意味だと思える生を歩む中で、虚しさが無かったといば嘘になる。


 毎日あの子の家に、あの子を救えなかった事への謝罪に行った。もう戻ってくるはずも無い、哀れな子。花を供えても菓子を供えても、何をしてもわしの虚無感は拭えなかった。あの子は全てを恨んで死んでいったのだろうかと思うと、胸が苦しくなった。


 それから十年目の日暮れ、いつもの様に音無家へと向かうと、薄汚れた玄関の戸口が開いていた。中に入ってみると、どこか見覚えのある少女が立っている。少女は物憂げな瞳で家を眺めていた。わしは知らぬ間に少女に話し掛けていた。その少女が綾乃であると知ってから、わしは全てを察した。


(わしはこの時の為に生きてきたのか……)


 この子を教え、導くこと。例え僅かな時間でも、この子が再びこの国で生きていく手助けをしよう。また再び、この子が愛を理解する為に……わしは最後の力を貸そう。




「充分じゃ……」 

 

 一太郎の手から力が抜けていく。普段となんら変わらぬ威厳に満ちた姿のまま、長年過ごした家の前で、導いた教え子に見守られながら、静かに息を引き取った。


 鈴音はもう涙を流さなかった。その変わり、長い間一太郎の冷たい手をとり続けた。もう戻っては来ない。こんな風に突然、別れが訪れるなんて……近しい人の死を始めて味わった。まだ大きな実感が湧かない。まるで酷い悪夢のようだ。


 もう戻っては来ない……



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