31,日常と動転
梅雨に差し掛かった六月の序盤。この時期、太陽国月影高等学舎は毎年学年行事を行うことになっていた。三年生はオルドビス大陸へ一週間掛けて修学旅行に行き、二年生は太陽国の最南下にある注連縄村へ四日間に渡って歴史の勉強を学びに行く。そして、一年生は五日間、三島村に泊まる。
三島村といえば赤坂村の数里東側にあり、山道を使えば赤坂村まで歩いて三十分も掛からない。鈴音は学校に勤めながらも花宮村で薬草を集め、もともと赤坂村で摘んでいた薬草と調合して、鬼狂いの実の解毒薬を製薬した。それから一年生の学年行事に便乗させて貰えるよう校長先生に頼み、解毒薬をグルルに渡す行路を作った。
鈴音は久しぶりに一太郎やグルルに会えると思うと、嬉しくて胸が弾んだ。同時に、学年行事の面倒見役として茶子と共に一年生を見守るという役目が、いよいよ先生らしい仕事に就けたと感じ、喜びと共に重圧を抱いていた。
出発の朝、鈴音は茶子と共に校門前で生徒を待ち、人数を何度も確かめてから、一年生全三十五人を班毎に四台の馬車に分けて、「御者さんに迷惑を掛けないように」と念を押してから出発させた。鈴音と茶子は五台目の馬車に乗り、初老を迎えた御者に挨拶をしてから、生徒より少し遅れて出発した。
馬車は酷く荒れた畔道をゆっくりと進み、時に車輪が外れたのではないだろうかと戸惑う程にガタンと揺れた。鈴音はそんな震動が身体を襲うたびに、心臓が跳ね上がるような思いを味わい、ドキドキした。ところが茶子は、どんな揺れがやって来ようと全く動じず、馬車が揺れる度に動揺する鈴音を優しく見つめ、微笑んでいる。そんな茶子の堂々たる姿を見て、鈴音は疑問に思い尋ねた。
「あの、内藤先生は馬車の旅に慣れておられるんですか?」
すると茶子は、不思議そうな表情を作り「どうして?」と尋ね返した。
「いえ、随分と落ち着いておられるので……わたしなんてっ」
鈴音が話をしている最中に、この旅の中で一番強い揺れが馬車を襲った。華奢な体系の鈴音は一瞬席からお尻が離れ、両足が浮いた。舌を噛んでしまって口を押さえている鈴音に、ふくよかな体系の為にずっしりと腰を据えている茶子は、声を上げて笑いながら「貴女よりも軽いからかしらね」と面白そうに答える。
三島村へと辿り着くのに半日掛かった。生徒達を乗せて先に出発した四台の馬車は既に到着しており、鈴音と茶子は生徒達からの「遅い」口撃を目一杯受けねばならなかった。それも茶子の「黙らっしゃい!」の一言で掻き消されたそうだが……鈴音はその間中、御者にお礼と賃金を渡していたので、これは後から成子に聞いた事である。
一年生の学年行事は、四日間の内の初日と最終日、移動のみに時間を費やす。つまり初日は三島村に着いてしまえば後は旅館で過ごす事以外に活動予定がない。暴れたい盛りの思春期少年少女はこれが不満らしかった。鈴音は彼等をなだめる役目を担ったが、年齢の変わらない生徒達をなだめるのは何だか妙な気分だった。
日も暮れた頃、学生達は夕食前に温泉に入る事となった。随分広い浴場らしく、学生と教師もまとめて入浴する事が出来るらしい。勿論、男湯と女湯は分かれている。
鈴音は成子と共に温泉に浸かっていた。みやさわと違ってお湯の質は良く、当たり前だが光が灯されている。浴場は噂通り広く、みんな楽しそうに話ながら湯船に浸かっていた。
「凄く広いねぇ……」
まったりしながら成子が呟いた。鈴音は「そうだねぇ……」と、これまた力の抜けたような声で返事をする。温かくて眠くなっていた。馬車に揺られて凝っていた全身が、心地よく安らいでいく。鈴音は足を伸ばして寛いだ。
その時、男湯と女湯を仕切っている仕切り板の向こうから、男子達のはしゃぎ声が聞こえてきた。
「おい……この向こう」
「そうだぜ……やっちゃうか?」
「どうやって乗り越えるんだよ」
全て丸聞こえである。女子達は騒ぐのを止め、微妙な空気になってしまった。鈴音だけは一人、何で男子達が壁を乗り越えようとしているのかさっぱり分からないでいる。鬼人には覗きという悪戯がないのだ。と言うより冬の季節以外は比較的温暖な島であるため、滅多にお湯に浸からない。一年のうちで温かい九ヶ月間は川で身体を清めている。当然、雪が島を覆う季節にそんな行動をとれば凍死するだろうが。
「ばれたらどうするんだよ」
「おい黒澤、絶対に言うなよ」
「はいはい」
「よし、俺が指揮をとる」
昇太が大きな声で言った。男子達は女子に聞こえるかも……といった心配をまるでしていないらしかった。そこで仁がある事に気が付いたようだ。彼は恐る恐るみんなに告げた。
「先生も入ってんじゃね?」
「イヤッホーイ、図書館の? やったじゃん。あの子良いって言ってた奴、誰だっけ」
「違うって……そっちじゃない」
「あっ……」
男子達が凍り付くのが仕切り板から伝わって来た。何人かの女子は笑っていたり、噴き出すのを堪えている。鈴音と成子はゆっくりと身体を洗っていた茶子を見た。
「アンタ等! 全部聞かせて貰ったよ! 覚悟しな!!」
茶子が仕切り板の奥にいる男子達に向かって叫んだ。男子達は色々な意味で戦慄し、女子の大半は今や笑っていた。
温泉からあがった後は、旅館の外の林で、飯盒水産を行った。旅館の御馳走は安価で評判も良いものなのだが、皆で料理をすることによって仲間意識が強くなると先々代校長が作り上げた伝統なのだ。
鈴音は自分の分の夕食を成子から受け取り、成子と共に丸太に腰を下ろして夕食を頂いた。生徒達の炊いたご飯は焦げており、魚に関しては丸焦げだったが、皆の頑張りを見ていた鈴音は残さず食べた。
食べ終わり、成子と話をしていると、昇太と仁が近付いてきた。男子は全員、茶子に相当怒られたらしいが、二人は全く堪えていない様子である。鈴音は「流石だね」と心の中で呟いた。
四人で話していると、鈴音は遠目に黒澤の姿を見掛けた。友達らしい青年と楽しそうに、おそらくまた難しい会話をしている。茶子は女子の一団と何やら若々しく話していた。
不意に、鈴音は背後から誰かに呼ばれているような気がした。それも林の遠くからだと思われる。鈴音は振り向いて、もう日の暮れて暗くなった林の奥を、目を細めて見つめてみた。鈴音の妙な様子に、仁が「どうした?」と尋ねてきたが、鈴音は答える事無く、必死に林の奥を眺める。
『鈴音……聞こえたら来い』
鈴音はハッとして気が付いた。グルルの声だ。出来るだけ遠くから小さな声で、何度も鈴音に呼び掛けていたらしい。
「ごめん。わたし、少し外れるね」
三人に告げると、昇太が「どうしたんだよ?」と訊いてきたが、成子が昇太の頭をバシッと叩いて、「察しなさいよ」と言ってくれたので詮索されずに済んだ。勘違いはともかく、鈴音は成子に感謝した。
林の奥に進み続けると、大木の影にひっそりと隠れている黒い巨体を見付けた。鈴音は見付けた一瞬は驚いたが、グルルだと分かると笑顔で話し掛けた。
『久し振り……でも、どうしたの? 赤坂村から近いけど、わざわざ会いに来てくれたの?』
グルルは赤い眼を鈴音に向けてジッと見つめていた。鈴音が首を傾げると、グルルは早口で言った。
『違う。落ち着いて聞け……俺様は本当なら、花宮村までお前を向かいに行くつもりだったが、お前の声が聞こえてここに来た。いいか……』
グルルが神妙に言うので、鈴音は恐ろしくなった。冗談ではない……自分の眼前に死が待ち受けていた時も冷静だったグルルが、焦っている様に見えた。
そして、グルルは唐突に告げたのだ。
『ジジィが倒れた……もう長くない』