29,〈人喰らい〉
頭に鈍い痛みが残る……うっすらと目蓋を開けても焦点が定まらず、自分が背の高い何者かに担がれている様子が、だらしなくブラブラと揺れる自分の手足から何となく感じられた。
そして、また直ぐに意識が闇の中へと墜ちてゆく。
何も感じられない無の世界で、鈴音は幸せそうに佇む母を見付けた。母は赤ん坊の鈴音を大切そうに抱いて、その細く白い指で鈴音の柔らかな髪を優しく撫でている。
これは夢だ。鈴音は自分に言い聞かせる。理想なんてとっくに捨て去った筈なのに、どうしてわたしは家族の夢ばかり見るのだろう……しばらく無力にその様子を眺めていると、少しずつ夢が霞みはじめた。現実に戻れる……理想を見ていた筈なのに、鈴音は何故かその事に安堵した。
まず蘇った感覚は嗅覚だ。鼻が潰れるような生臭い強烈な臭気。死に香りがあるのならばこんな臭いだろうと想像する様な悪臭がする。
次に聴覚。自分の呼吸音と共に、水滴が一定の間隔を空け、水溜まりに音を立てて落ちている様子が分かる。着ている衣が妙に重く感じるのは濡れているからだろうか? 臭気がそのまま空気と化したかのように、肌を包む空気は濁っている。
鈴音は頭に残る鈍い痛みを気に掛けながら、ゆっくりと目蓋を開いた。先程の薄い意識とは違って、今度は明瞭に辺りを見渡す事が出来る。鈴音は大きな鉄柵に閉じ込められており、牢には生活に必要な物が何一つ置かれていない。これならばまだ中心都の牢獄の方がましだと鈴音は思った。向かい側には青年が閉じ込められていて、退屈そうにサイコロを転がしている。
鈴音は冷たい石の床から身体を起こそうとして、強い吐き気を覚えた。危うく嘔吐しそうになるのを必至に堪えて、床と同じ固い石で出来ている壁にもたれながら膝を伸ばした。
サイコロで暇を持て余していた男が、意識を取り戻した鈴音をチラッと確認する。鈴音は薄暗い中でその男の顔を見つめると、男は表情を変えずにサイコロをしまい「運が無いな」と興味なさげに呟いた。
その声を聞いて鈴音はハッとした。九百六十七番……生け贄祭の時に中心都で見掛けた男だったのだ。確か椎名が話してくれた……戦いの専門家・太陽国の剣である暗影兵。
「何故、あなたがこんな所に?」
鈴音は少し語気を荒げて尋ねた。初めて会った時から、何となくこの男には人を近付けさせない雰囲気があった。その間隔が、鈴音には耐えられなかったのである。
「俺は暗影兵、人喰らいに捕らわれる理由など吐いて捨てる程ある。ここにいて場違いな人間がいるとしたら俺じゃない。君だ」
鈴音の言葉の調子とは異なり、九百六十七番は感情を込めずに言葉を返した。ところが鈴音は、九百六十七番の言葉を最初の方しか聞いていなかった。やっぱり、わたしを攫ったのは人喰らいだったんだ……恐怖よりも虚しさが心に巣食う。まさか鬼人に襲われるなんて。
「わたし達、どうなるんでしょう……」
鈴音がフラフラする自分の身体を労わりながら、もう一度彼に尋ねてみると、彼は自分の事でもあるのに関心を持っていないかのように答えた。
「拷問で苦しみ抜いた後、殺される。殺された後は……最悪バラバラにされて戦利品にされる」
鈴音は「運が悪い」どころでは無い事を、この時初めて知った。この悪臭渦巻く牢(窓がない辺り、おそらく地下牢だ)で、わたしは鬼人に命を奪われると言うのか……想像する事を拒んだが、この冷たい柵からは逃れられない。黙っていると息が詰まりそうになるので、鈴音はまた九百六十七番に話しかけた。
「諦めたのですか……? 生きる事を」
「……さぁな」
「あなたは無念ではないのですか? こんな所で、誰にも知られずに朽ち果ててゆくのに……」
「……さぁな」
「あなたにも大切な人がいるのではないですか?」
その問い掛けには、男は小さな反応を見せた。しかし直ぐに平静に戻ると、鈴音を睨み付けた後、懐からまたサイコロを取り出して転がし初めた。
「あの……」
鈴音が尋ねようとした時に、バタバタと騒がしい足音がどこからか聞こえた。誰かが階段を急いで下りて来ているらしい。地下牢にやって来たその背の低い、腹の出た赤鬼は、鈴音が入っている牢と九百六十七番が閉じ込められている牢の前に立ち止まり、醜悪な顔でブツブツと独り言を呟いた。
『ああぁぁ? ……どっちだぁぁぁ? 忘れちまったぁぁぁ』
鬼人にしては小さな体躯の赤鬼は、愚鈍で頭の回転が悪いようだった。鈴音は動く事ができずに壁にもたれており、九百六十七番は赤鬼が目の前にいても興味がなさそうにサイコロを転がし続けている。
『ああぁぁぁ……どっちでもいいやぁぁぁ』
そう言うと赤鬼は突然俊敏になり、鈴音の牢を鍵で開けると、鈴音の髪を掴んで牢から引っ張り出した。
『痛い……痛い! 離して!』
鈴音が抵抗しながら鬼の言葉で叫ぶと、赤鬼は『あぁぁ? 気のせいかぁぁ?』と呟いた後は何の反応も見せず、暴れる鈴音を無視して今度は九百六十七番の牢を開けた。九百六十七番は襟首を掴まれても何の抵抗も見せずに、赤鬼にほとんど引きずられる状態で、隣で暴れる鈴音を哀れみの瞳で見詰めていた。
右手で鈴音の髪を掴み、左手で九百六十七番の襟を掴んで、赤鬼は地下牢の階段を上がって、どこかへと歩いていく。鈴音にはこの屋敷がどこかも見当がつかないが、歩いた距離から考えて相当大きな屋敷だと思った。
赤鬼はようやく目的の場所に辿り着いたらしく、多きな部屋に二人を放り込んだ。移動の間中ずっと髪を掴まれていた鈴音は、涙を眼に浮かべながら自分の頭を撫でつつ、石の床に寝っ転がり、投げ入れられた部屋を見渡しみた。
先まで閉じ込められていた地下牢と見比べると、この広い部屋は幾らかまともではあった。とは言っても空気は濁っており、肌にまとわり憑く不快感は拭えない。蝋燭の灯火に照らされた本来白く映えていた石造りの壁や床は薄汚れて黒ずんでおり、部屋の中には鬼人が縦横数五人ずつ列を為して直立している姿以外は何も見えなかった。
『全くゴウリの奴め……俺は娘の方だけを連れて来いと言った筈だが……』
鬼人の軍隊の前に置かれている、赤と青の奇妙な組み合わせで装飾された豪華な椅子に座った五十代ぐらいの赤鬼が、凶悪な表情を浮かべて呟いた。赤鬼は、鈴音が今まで見てきた鬼達の中でも最高級に増悪な表情を浮かべている。赤鬼の象徴でもある頭に生えた一本の角は欠けていて、顔にある無数の傷はレインおじさんを彷彿とさせるが、この鬼人の場合、左目の眼帯と相まって常に怒りを携えている様に見えた。
彼が長だと気付くのに、そう長い時間は掛からなかった。人喰らいの長なのか、この集団の長なのかは分からないが、何にせよ組織の中でも地位の高い人物であることは容易に窺い知れる。
『まぁ……いいか。ついでだ、一緒に殺そう』
『ま……待って下さい!』
鈴音は焦った為に鬼の言葉で話してしまった。鬼人の軍団は、たまたま捕まえた人間の娘が自分達の言葉を話した事に驚いている。ところが長らしき鬼人はせせら笑って興味なさげに言った。
『我々の言葉を話せる人間……鬼人と人間の交流があった時代は存在していたらしいが……』
そこで長は言葉を止めた。鈴音が鬼人の軍団に見入っていたからである。鈴音はペタンと座り込んで、眼を見開き、眼前に立っている最前列の三人の赤鬼を凝視していた。
『ロダン……ドリー……レイピア』
名前を呼ばれた赤鬼はその時初めて、捕らえられた人間の娘が鈴音だと気が付いたらしい。しかし、大した反応も見せずに、目を逸らした。
『何だ、新人共? そいつと知り合いか?』
長の問い掛けに、ロダンが緊張した様子で『人間に知り合いなんていません』と冷酷に言い放った。鈴音は、かつての同級生が人喰らいになっていたという事実を、しばらくの間受け入れる事が出来なかった。