26,懐古の風情
「--以上が、服部去来校長先生からの挨拶である。次に、今日から新しく配属される、新任の教師を紹介する。三十年にも渡って、この太陽国月影高等学舎で図書館教師として勤めておられた大島聡子先生が御退職なさり、新しく古瀬鈴音先生がお勤めなさる」
百人もの生徒が学年順に座らされている広い体育館の中で、副校長先生が鈴音の紹介を丁寧にした。鈴音はどうすればいいのか分からずドギマギしていると、先程、大変に長い挨拶をしていた初老の男性である服部校長先生が、鈴音に舞台の上で話をするように促した。
鈴音は「うあ~うう……はい」と言葉にならない返事をして、心臓が破裂するのではないだろうかと思う程に高鳴る胸を片手でおさえ、生徒百数人の視線を強く感じながら、舞台に上がる為の階段を昇り、教卓についた。
舞台の上からだと、体育館全体の様子がよく分かった。男子は黒い着物に紺の帯を、女子は赤い着物に薄紅色の帯をして、自分と歳の変わらない新しい〈先生〉を、興味深そうに見上げている。中には雑談をする者や、何が可笑しいのかニヤニヤしている者も見受けられた。鈴音が漸く覚悟を決めて、今まさに話を始めようとした、その瞬間である。
「そこ! 喋るんじゃない!!」
体育教師らしい若い男性が誰かに怒鳴った。怒られた生徒はどうやら、例の遅刻してきた男子の開経昇太らしい。鈴音は「喋るんじゃない!!」という言葉を自分に言われたのかと思って、もう勘弁して下さいと泣きそうになった。
「え……と、皆さん、こんにちは」
鈴音が笑顔で、精一杯勇気を出して挨拶すると、一拍置いて小さく疎らな挨拶が返ってきた。
「わたしは古瀬鈴音といいます……十六歳なので皆さんと歳は同じくらいです。えっと……普段は図書館にいるので、皆さん気軽に声を掛けて下さいね」
再びやって来た静寂--後に疎らな拍手。鈴音はもう泣き出しそうだった。ペコンとお辞儀をした後、急いで舞台を下りて教師達が座っている椅子に着く。教師達は皆、優しい顔と暖かい拍手で迎えてくれたが、鈴音はこれから先の自信を失っていた。
職員室と呼ばれる教師達の部屋で、鈴音は簡単な紹介を受けて、教師十四人と握手をした。その時言われた言葉は「若いね〜」か「古瀬先生のお孫さんなんだよね〜」か「大変だと思うけど頑張ってね」など決まった言葉ばかりであった。
日暮れ頃に漸く副校長先生に連れられて、図書館へと訪れた。図書館は校舎から十歩程の敷地に建てられてあり、立派な建物である。どこか調子でも悪いのか、開けた時にガラガラと鳴る扉を開けて、鈴音は職場へと入った。
見渡す限りの本棚に本がぎっしりと入れられている。本の独特な匂いが鼻に心地よかった。
勉強机では数人の生徒達が本を呼んだり、勉強をしている。カウンターテーブルには生徒の為に用意された貸し出し用の券が置かれていた。全体的に整頓されていて、やり甲斐のある職場である。
「じゃあ古瀬先生、後は頼みましたよ」
副校長先生が良い笑顔で鈴音に向かって話し掛ける。鈴音は「古瀬先生」と呼ばれ慣れていない名前を掛けられても自分の事だと気が付かず、暫く図書館を見回していた。
(古瀬先生……? 古瀬先生って……わたし?)
水滴が和紙にゆっくりと沁みてゆくように、鈴音にも段々と実感が湧いて来た。ハッとして「すみません……ボケッとしていました」と副校長先生に謝ると、彼は何故か笑顔のまま表情を変えず、一度頷いてから職員室へと帰っていった。
副校長先生の笑顔の真意は分からなかったが、取り敢えず鈴音はカウンターの席に着いて、図書館教師と呼ばれる仕事の内容を頭に思い浮かべた。……本の管理……本の行事計画・実行……何から始めようか……そう考え込んでいると、何時の間にかカウンターの前に生徒が立っていたので、驚いて椅子から転げ落ちそうになった。
「よう先生。何ボケ〜としてんの?」
カウンターの前に立っている生徒は、開経昇太だった。怒られる達人……しかし、鈴音は彼が本を読むタイプの性格だとは思っていなかったので、少し驚いた。ガッシリした体格や短髪、第一印象は体育会系の人間で、図書館に来るような人柄ではないと思っていたのだ。彼にとっては失礼な印象かもしれないが……。
「開経……さん……ですよね。どうかされました?」
鈴音が笑顔で尋ねると、昇太はニヤッとして元気な声で答えた。
「敬語なんて使わないでくれよ。俺、一年生だし」
一年生……同じ歳だと言う事だろうか。あまり親しくない間柄で敬語を話すのは、人間の土地では常識だった筈だが、自分から止めろと言っているのだから、別に構いはしないのだろう。
「うん……分かった。どうかしたの? 開経さん」
「俺の彼女を紹介しようと思ってさ」
鈴音は「うん?」と言ってから、目を点にした。何故、教師に彼女を紹介しなくてはならないのか。それも図書館の新任の教師にである。初めて会った時から変わっている人だとは思っていたが、本当に変わった人なのだろうか。
「だれが彼女だよ、だれが」
勉強机で読書をしていた二人の生徒のうち、一人が言った。髪の長い女子で、眼鏡を掛けた知的な印象を抱く美人さんだった。もう一人は髪をピッチリと七三分けにしている真面目そうな男子で、昇太とは正反対の細い体系をしている。
「女子の方が遠藤成子、滅茶苦茶勉強出来る面白みのねぇ奴。男子が杉田仁、ああ見えて怒らせたら怖い」
昇太が二人をそれぞれ指差して紹介した。二人は「指を差すな」と同時に言ってから立ち上がって、カウンターに近付き、鈴音に成子から自己紹介をした。
「はじめまして、わたしはこの二人と違ってよく図書館を利用するから、宜しくお願いします」
「はじめまして、こいつが(昇太をチラッと見る)何を言っても気にしないで下さい。大抵、冗談なんで」
「オイオイお前等、先生は俺等と同い年だぜ? 仲良くタメで話そうじゃないか」
鈴音が自分の紹介をする前に、昇太が両手を広げて愉快そうに言った。二人から同意を得られない為か、昇太は「なぁ、先生」と鈴音に同意を求めてきたので、それまで成り行きに身を任せようと黙っていた鈴音は少し驚いて、笑顔を浮かべてから、「うん、皆が構わないなら、どんな風に話してくれても良いよ」と言った。
すると、成子と仁はパッと笑顔になって、何がどうしたのか感激したように喜んだ。そして成子は鈴音の手を両手で包んで、眼鏡の奥の大きな瞳をキラキラと輝かせながら、高い声で言った。
「私、先生みたいな先生初めて! 先生はみんなプライドが高い変な大人ばっかだと思ってた」
昇太は「良い先生! 良い先生!」と囃し立てている。鈴音は、単純に自分が先生としての自覚を持っていないだけだと考えていたが、同年代のこの軽い空気が懐かしく、どうしようもなく可笑しくて、お腹の底から湧き上がってくるくすぐったさに、クスクスと笑っていた。
「式の時も思ったけど、先生少し言葉に訛りがあるよね」
成子が楽しそうに鈴音の手を包んだまま言った。鈴音は照れ臭くなり、何と返せばいのか分からなかったので「うん……故郷はこの国なんだけど……」と、いつか話した事のある説明をもう一度行った。
そうやって鈴音が生徒三人と暫く話していると、図書館の奥の方の勉強机でずっと本を読んでいた少年がカウンターにやって来て、微笑みながら「図書館ではお静かに」とだけ告げて、ガラガラなる扉から校舎に帰って行った。
(ああ……反省しないと……)
鈴音はそう思いつつも、新しい友達との愉快な話を続けた。