2,人間の娘御
広大な森林に囲まれた孤島の里。家屋や湯屋、学舎などの建物が建造され、田園や牧場などが幾つも設備された文明の地である。その風景には何一つ奇妙な所などない、文化を持つ種族が生活するには当たり前の光景が広がっている。
しかし、この里に住む人々には皆頭から角が生えている。加えて男も女も異様に背が高く、それに合わせて建物の入り口から小部屋まで、全てが天井高く造られていた。彼等が話す言葉も、人間の世界では使用されていない複雑な言語である。
この地は鬼人の島。高い知能と強い力を持ち、自然を愛する種族の土地。
学舎の卒業式を一ヶ月後に控えた如月の初頭。里を取り囲む森林や、広大な土地に立ち並ぶ建物、固められた土の地面すらも、全てが降り止まぬ降雪によって純白に染め上げられ、周囲に他の色彩を残す事を強く拒絶していた。
そんな雪の中を、鈴音という名の少女が、赤い花柄の着物を身に纏い、雪が降り積もった笠を被って、新雪が堆積する地面に足跡を付けながら歩いて行く。彼女はこの里に住む大半の鬼人よりも遥かに背が低く、笠の下には角も生えていない。鋭い牙や爪も無く、赤鬼か青鬼かを見極める瞳の色も黒だった。
鈴音は人間なのである。この島に住む唯一の人間だ。
十年前、鈴音はこの島の森林で命を失う寸前に、青鬼のレインという薬調合師に救われた。情け深い鬼人は、行く宛を失った幼い少女を放って置く事が出来なかったのだ。種族の間に深い亀裂があるにも関わらず、里の長老である青鬼の爺に御許しを頂き、自分の息子・リアンと同時に鈴音を一人で育ててきたのである。
鈴音とリアンは先月、十六歳の誕生日を迎えた。来月には十年間通い続けた学舎を卒業する。二人共成人となった暁には、父親の職を継ぎ薬調合師となる予定だ。しかし、鈴音は誰にも告げた事のない夢を一人で抱いていた。彼女にとっては何よりも優先させたい、大切な願いである。
雪が降り止むと、鈴音は立ち止まって頭の笠を取った。冷たい風が頭部を冷やし、ブルブルと身体を震わす。笠の上に降り積もった重たい雪が、小さな音を発てて真っ白な積雪の地面に落ちた。
『困ったな……』
鈴音は鬼の言葉で独り言を呟いた。呼吸をする度に白い吐息が口からもれる。
『何が困ったんだ?』
鈴音は思いも寄らぬ会話の始まりに驚き、急いで辺りを見渡す。声の主は真っ白な体毛の鬼犬であった。積雪と同化するかのようにペタンと身体を伏せて、鈴音をジロリと眺めている。
『驚いたぁ……君はアンおばさんの家の子だね。ええっと、名前は……』
『アードだよ。それで、何が困ったんだ? 人間』
鬼犬のアードはピンと立てた両耳の横に小さな角を生やし、艶のある毛並みを美しく際立たせ、黄色い瞳で鈴音を見詰めたまま尋ねた。
『鈴音って呼んでよ。何に困ってるかは、貴方に教えたら広まりそうだし……言わない』
鈴音はイタズラっぽく微笑みながらおどけたように答えた。アードは四足で立ち上がり、自分に積もった雪をブルブルと振り払ってから、少し不機嫌な口調で呟いた。
『何を言っている? 我等の言葉は鬼人には通じん。鬼動物と鬼人を一緒にするな、人間』
鈴音はその言葉でハッと思い出した。人と犬が会話出来ないのと同様に、鬼人と鬼犬の言葉が通じないのは当然の事なのだ。しかしそれは鈴音にだけは当てはまらない。彼女は鬼の種族の言葉ならば、それがどんな生物の言語であっても理解出来るのだ。理由は鈴音自身にも分からない。
『ごめんね……そうだった』
『あ~あ、だ・か・ら、何が困ったんだ?』
アードは苛々している様子を隠そうともせず、唸るように言った。鈴音は謝罪しようか迷った挙げ句、鼻面に皺を刻んでいる鬼犬の姿に気付いて、急いで、しかしひっそりと自分の夢を語り始めた。
『わたし、来月に学舎を卒業するんだけれど、決めた職業以外にね、やりたい事があるの。あ、その職業……薬調合師にはレインおじさんから知識は受け継いでいるし、昔からなりたい職業ではあるんだよ。でも、わたしにはどうしても叶えたい夢があってね。それが鬼人には嫌悪されている事で……だから、誰にも言い出せなくて……』
鈴音は一気にそこまで話して黙り込んだ。自分の言った『嫌悪』という言葉に引っ掛かったのだ。自分一人だけしか願っていない夢なのだろうか。もしそうならば、何故わたしはそんな未来を望むのだろう。鈴音は雪が再び舞い始めた事にも気が付かず、俯いたまま立ち尽くした。
『鬼人の事情か。それで、その夢ってのは何だ?』
アードが興味有り気に尋ねると、鈴音は困ったような笑顔を浮かべて、小さな声で答えた。
『人の世界に行く事』
アードは目を見開いて驚愕の表情を作る。続けて今度は呆れたように溜め息を吐いた。
『馬鹿なのか? 人間』
鬼人と人間が友好的な関係を築いていたとされる年月は、信頼できる資料で二百年程前の事である。ではその後、二つの種族は道を違えたのか? 答えは、大きな戦乱がつい三十年程前まで行われていた事を考えてみれば分かる。鬼人と人間の関係は最悪であった。百年以上続いた争いは両者に大変な数の犠牲者を生み出し、最終的には種族間の絆を修復不可能な窮地に追い込んだのである。
戦乱に終止符を討ったのは、戦いの限界を迎えた鬼人達の逃亡によるものだった。鬼の種族達は鬼人を筆頭に故郷の巨大な大陸を捨ててバラバラになりながら、各々小さな島へと逃げ去ったのである。運命を決定付ける会議の末、鬼達は人間から隠れ、ひっそりと暮らす事を決めたのだ。この緑の孤島も、その逃亡先の一つである。
『鬼史における最大の汚点だ。温室育ちの餓鬼でさえ知っている。鬼人は皆、例外なく人を恨んでいるぞ。お前もよく知っている筈だ、人間』
アードは『人間』を特に強調して重々しく言い放った。鈴音はその言葉に渋々と頷いて、表情を一層曇らせる。長い間ずっと俯いていたので、降雪が頭や肩に積もり始めていた。
『何が目的だ? やはりここは、お前にとっては孤独か?』
『ううん……違うよ。わたしは……』
鈴音が答えを呟き始めたところで、『アードちゃーん!』と叫ぶ甲高い声が響いた。アードは『主人だ! やべぇ!』と切迫した表情で悲鳴のような声を上げると、凄まじい勢いで走って消えた。白い体毛の為か、その姿は直ぐに見えなくなってしまう。
『あら! 鈴ちゃん!? 雪に埋もれちゃうわよ!』
近所に住むアードの飼い主、アンおばさんが甲高い声で言った。アンおばさんは頭に角が二本生えた、瞳の青い青鬼である。彼女は普段から寒がりで、鬼山羊の柔らかな体毛で繕われたふわふわの上着をいつも羽織っている。やはり背は高く、鈴音の全長はアンおばさんの胸の辺りまでしかない。
アンおばさんは鈴音に積もった雪を分厚い手で乱雑に払った。そして、鈴音が手に持っている笠を引ったくると、無理矢理それを鈴音の頭に被せた。
『美人さんが風邪でも引いたら大変よ。来月は卒業の式があるのだし、大事な時期でしょう』
このお節介さが、アンおばさんの良いところだ。レインおじさんの妻はリアンを生んで直ぐに亡くなっているので、鈴音は近所に住む彼女を母親のように慕い、育ってきた。
『そうだ、鈴ちゃんは卒業した後どうするの? 鈴ちゃんは賢いからねぇ。ウチの子見てご覧、あれゃ駄目だよ。リアン君も良い男になったし、レインさんは子育てが上手いねぇ』
『いえ……そんな……』
鈴音が謙遜しかけた所で、『見付けてみろ!』という大きな声が響いた。恐らく、アードがおばさんに向かって吠えたのだろう。アンおばさんにはただ鬼犬の鳴き声が聞こえただけで、自分の飼い鬼犬が自分を挑発しているなどとは夢にも思っていない筈だ。
アンおばさんは当初の予定を思い出し、大きな声で叫んだ。
『アードちゃん! 何処にいるの!? 鈴ちゃん、またいつかね!』
おばさんはアード並みの素早さで視界から消えた。鈴音は姿の見えないおばさんに向かって、『さよなら!』と挨拶を返し、まだどこか温かみのある笠を被り直した。
人間を恨んでいるはずの鬼人でも、わたしと親しくしてくれる。ならば、いつまでも続く種族間の争いだって静める事が出来るのではないだろか。わたしが人の世界に行けば、鬼人も人間も互いに誤解する事なく、仲良く過ごしていけるように変えられるのではないだろうか……
これが鬼人に育てられた人間、鈴音の大切な夢である。