13,寂れた旅館
鈴音が両親と別れてから既に十年が経つ。その長い年月の間に、鈴音の両親に関する記憶は随分と不確かで頼りない物となってしまった。母は優しかった……父は規律に厳しい人であった……それ等の僅かな印象だけである。ほんの微かな思い出が残ってはいても、敢えて頭に浮かべる事はせず、そんな事を繰り返している間に、両親は記憶の何処か遠いところに行ってしまった。
「親はね、子供の事だけを考えていればいいの。勿論わたし達は、お兄ちゃんとアナタの事を、何よりも一番大切に思っているわ……」
鈴音が父にちょっとした事で叱られて泣いていた時、母が慰めの為に言ってくれた言葉だ。一番大切に思っている……今となっては、全く信頼できない言葉となってしまった。
両親は名誉や恩賞の為だけに、娘を生け贄へと差し出したのだから。
「人が見掛けによらないってのは本当らしいね」
畳も壁も至る所が傷だらけのボロボロな一室で、椎名がお茶を飲みながら言った。お茶は〈みやさわ〉特別製の物であると、お千代が不気味に笑いながら持って来た物である。独特の強い渋みがあり最初のうちは飲んでいて辛いが、そのうちに渋みに慣れ、癖になってくるという変わった味だ。
「机も湯飲みも丁寧に磨かれているし、部屋も掃除はしっかりしてあるし……」
椎名が部屋を見渡してしみじみと続けた。部屋は襖に仕切られた十畳程の室である。
鈴音は顔を顰めながら渋いお茶を一口飲んで、一息付いてから、机を挟んで疲れた様子で話す椎名に向かって笑顔で言った。
「本当ですね……やっぱり、第一印象で人を決め付けては駄目って事ですね」
二人の話題は勿論、お千代の事である。お千代はその奇妙な言動に似合わぬ丁寧な仕事をやってのけ、気を利かせてお茶まで用意してくれたのだ。今は彼女が夕ご飯を部屋まで運んで来てくれるのを待っている。
雷は未だに止んでおらず、時折、眼が眩む程の光を発して激しい音を響かせていた。
「しかし、最初は驚いたよ……。失礼だけど物の怪かと思っ……」
「はいはい、持って来ましたよ。ヒッヒッヒッ」
椎名が話をしている最中に、お千代が器用に片手ずつで二つのお盆を持って、襖を足で開けていた。客に対して物凄く無礼な行いだが、鈴音も椎名も批判など言わず(正確には言えず)、料理の礼を言ってお盆を受け取った。
「ここはお千代さんだけで、経営していらっしゃるのですか?」
鈴音が料理の揃えられたお盆を、丁寧に磨かれた机に置いて、気まずい空気の中で尋ねた。雷がまた一段と光り、お千代の顔に暗い影を一瞬作っては轟音と共に消えた。お千代は何が可笑しいのか不気味に笑いながら答える。
「ヒッヒッヒッ。いんや〜わしと死んだ夫と息子でやっとるよ。二人は偶にやって来て、部屋を掃除してくれるんだ。ヒッヒッヒッ……運が良ければ会えるかもねぇ、お嬢ちゃん」
椎名が割り箸を割ろうとして、その体制で動きを止めた。鈴音は何と言葉を返せばいいのか判断が付かず、迷った挙げ句に顔を引き攣らせたまま「あ……会えるといいな〜」と適当な返答をしてしまった。すると、お千代が眼を光らせ、狂ったように笑い声を上げて言った。
「ヒッヒッヒッ。会える……会えるとも……ほら、直ぐ後ろにいるじゃないか」
鈴音は驚き、ほとんど反射的に後ろを振り返った。其処には掛け軸と木の置物(不気味なおじさんが不愉快に薄ら笑いを浮かべた像)以外は何も無く、再び正面を向いた時には、椎名が溜め息を付きつつ肩を竦めていた。
「ヒッヒッヒッ、笑える」
お千代はそう言ってから乱暴に襖を閉めて、床を鳴らしながら何処かへと去って行った。
「笑えないね……」
椎名の言葉に、鈴音はゆっくりと頷いた。夕ご飯に用意された物は普通の懐石料理で、場所さえ違えば最高に美味な物だったことだろう。しかし、残念ながらこの暗い空気の中ではほとんど味を感じる事も出来ず、食べ終えても満腹感は生まれなかった。
夕御飯を食べ終えた後は盆をお千代のいる部屋まで持って行き(道中五匹の御器噛を見かけた)、その後お千代の案内で湯屋まで案内された。男湯と女湯に別れており、中は案外広かった。ただし問題は湯が温くて、水の質もあまりいい物とは言えず、その上、灯が弱くて辺りが薄暗いので、何度も転倒しかけた事だ。そして、少なくとも女湯には自分一人しかいなかった。その事が余計に恐怖を募らせた訳である。
湯浴びを済ませてさっぱりとした後は椎名とそれぞれの部屋に戻り(椎名が湯屋の前で鈴音が出てくるのを待っていてくれた)、自分で布団を敷いて寝っ転がった。布団は柔らかく清潔で、相変わらず手入れが行き届いている。鈴音は相当疲れていた為に、直ぐ様眠りに付いた。
寝付いてからどれ位の時間が経ったのか正確には分からない。とにかく、鈴音は目を覚まして、まだ真っ暗な中で起き上がり、厠に行こうと部屋の襖を開けた所で、厠が何処か分からない事に気が付いた。
(聞いておけばよかったなぁ……)
お千代はとっくに眠ってしまっただろう。鈴音は仕方なく、暗い旅館の中を厠探しに行った。やっとそれらしいと思われる扉を開けると、中には般若の大きな像が入っており、鈴音は危うく叫びかけた。それからも眠たい中を我慢して探し回ったが見付からず、さらに恐怖心が高まっていった。
鈴音は数分間歩き回り、襖の障子から明かりが差す部屋を見つけた。中からは何やら話し声が聞こえてくる。お千代らしきその声に、鈴音は安堵の息を付いた。
(良かった……これで、もう探し回らないで済む……)
鈴音は襖を開けようとして、中から聞こえてくるお千代の声が震えている事に気が付き、手を止めた。
「ああ……今日はお客さんが二人来たよ。ほら、だからわては大丈夫……大丈夫だから……」
奇妙な笑い声も無く、悲しそうに呟くお千代の言葉に対して返事はない。鈴音はどんな状況になっているのか上手く状況が掴めず、襖に手を置いたまま動けなかった。
「ああ、しまった。見付かってしまったようだね」
お千代が襖を挟んで鈴音を見て言った。鈴音はドキッとしてあたふたしたが、お千代は全く声の強弱を変えずに続けた。
「お嬢ちゃんだね? ヒッヒッヒッ…… いいよ、入って来なさい」
突然に襖が開くと、そこにはお千代がとびっきりの不気味な笑顔で鈴音を見つめて立っている。
「ヒッヒッヒッ……さぁさぁ……お嬢ちゃん……追いでぇなぁ」
鈴音は寝巻きの袖をお千代に引っ張られて、無理矢理部屋に入れられた。鈴音を部屋に入れるとお千代は襖をこれまた勢いよく閉めて、「ヒッヒッヒッ」と頻りに笑いながら、座布団の上に座った。
鈴音は蝋燭の僅かな明かりを頼りに辺りを見渡す。この部屋は仏間らしく、線香の独特な香りがしている。眼が慣れてくると、据え付けられた立派な仏壇の姿が、段々と見えてきた。
「よかったねぇ……会いたがっていただろう……ヒッヒッヒッ……夫と息子だよ」
お千代は仏壇から目を離さずに、独り言を呟くようにして言った。鈴音は畳の上にゆっくりと腰を下ろすと、その途端に、お千代という人物を理解することが出来たように思った。