11,朝霧の中で
翌朝、鈴音はまだ肌寒い部屋の中で眠たそうに眼を擦りながら、鬼蚕の糸で仕立てた赤い着物に着替えて足袋を履き、まだほんのりと薄暗い外へと向かった。外は深い霧がかかっていて、ほんの数歩前すら見えなくなっている。鈴音は振り返って、一晩過ごした茅葺の家をもう一度見た。、やはり外装がボロボロだったが、それでもそれがあの人らしいなぁと、鈴音は微笑ましく感じた。
「こんな朝早くに起きるとは感心じゃな」
いきなり背後から声を掛けられ、鈴音は驚いて振り返った。そこには一太郎が寝巻きのまま、しかし既に髪は後ろで一つに縛って、玄関の前に置かれた長椅子の上に佇んでいる。鈴音は一太郎に微笑みかけて、彼の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「鬼人の朝は早いから、もう癖が付いてしまったの」
鈴音は林道の遠くを眺めながら(ただし今は霧しか見えない)、一太郎に向かって話した。一太郎は聞いているのか聞いていないのか曖昧な返事をして、霧しか見えない筈なのにどこか遠くを眺めている。
「椎名さんは?」
鈴音が尋ねると、一太郎は「まだ寝とるよ」と答えた。それから、日が昇り始めたばかりの空を見上げて、鈴音に静かな調子で尋ねた。
「お主は、どの程度覚えておる? --人間の事を」
冷たい風が吹き、一太郎の家を囲む背の高い木々が揺れる。鈴音は落ちてくる葉の様子を何となく眺めながら、目に掛かった髪を横に掻き分けて、そっと呟くように答えた。
「正直に言って、ほとんど覚えていないの……」
一太郎は頷いて「そうじゃろうとも」と優しく言った。一太郎と話していると、鈴音は不思議な気持ちになる。ずっと昔に別れた人と当たり前のように話しているのは、なんだか夢のようだ。別れたばかりの幼い頃は何度も夢に見たり、心の中で思い描いたりした事柄なのだから、仕方の無い事だろう。
「あの日から十年も経つのじゃ。十年……子供が育つ期間では最も大切な時期じゃろう。それでも驚く程に綾乃、お主は変わっていない。誰よりも正義感が強く、優しくて、誰かが諍い合う姿を黙って見ていられないという性格がの。勿論、容姿は美しくなったとも」
一太郎が昔を懐かしむように目を細めながら呟くと、鈴音はクスッと笑ってから言葉を返した。
「おじいちゃんは、どっこも変わっていないよ」
一太郎が可笑しそうに微笑んで「そうかの?」と尋ねると、鈴音も微笑んで「そうだよ」と返した。しばらくそうして二人で笑っていると、椎名が起きたのか、家の中から床を歩く音が聞こえた。その音を聞いた為なのか、一太郎は表情を引き締めて話題を変えた。
「さて、綾乃。お主は人を学ばなければならぬ。その為にはやはり人が多く住む場所に行くべきじゃ。こんな廃れた村ではなくての。その絶好の機会が丁度ある」
鈴音は椎名が一太郎の家に訪ねて来る前にも、一太郎が同じような話しをしていた事を思い出した。絶好の機会……そうだ、帆船でお酒を毎日飲んでいたおじさんが言っていた、あの事だろうか?
「お祭り……?」
鈴音の言葉に、一太郎は少し驚いた表情を浮かべ、コクリと頷いて言った。
「そうじゃ。祭り……どちらにしても知る事じゃろうから先に言っておくが、生け贄祭と呼ばれる祭りじゃ。生け贄の制度が生まれて六百年、その間に捧げられた七人の娘を、祀っておる」
一太郎は言い辛そうに告げた。鈴音は心底驚いていたが表情には出さないようにして、頷いてから僅かに震える声で尋ねた。
「と言う事は……」
「うむ……お主も祭られておる」
一太郎は鈴音の言葉を引き継ぎ言った。予想通りだった。自分が神仏のように祭られているというのは変な話だが、そんな予感はしていたのだ。一太郎が続けて言った。
「祭りが行われるのは中心都。その日だけは下流階級の人間でもあの地区に入る事が出来る訳じゃが問題がある。お主が祭りに行くとしたら、中心都に入る事になる。つまり……」
「赤坂村の人々に出会うかも知れない……もしかしたら、家族にも」
今度は鈴音が一太郎の言葉を引き継いだ。一太郎が頷くと、鈴音はいきなり笑顔になって言った。
「大丈夫だよ。絶対にばれないから……」
鈴音は、一太郎がそんな事を心配している訳では無いと百も承知だった。それでもあえてそう答えたのは、自分の心の中に漂っている靄を誤魔化すためである。そんな鈴音の様子を察してか、一太郎も無理に作ったらしい微笑で「そうじゃな」と返してくれた。
霧は晴れ、深緑の葉の間から差す明るい太陽の木漏れ日が、二人を照らした。
朝の食卓についた三人は取り留めの無い話をして、鈴音はその際にまた椎名にポカンとした表情をされた。それが、朝食に出された鮭という魚を、鈴音が物珍しそうにジロジロ眺めたうち不安そうにそれを食べたからである。椎名と打って変わって一太郎は孫を見るような目でその様子を見て微笑んでいた。
「文瀬、鈴音さんを中心都の祭りに連れて行ってやるのじゃ」
朝食を食べ終えて三人で片付けをしていると、一太郎が唐突に言った。椎名は皿を桶に汲んだ井戸水で洗っていたところ、手を止め、一考してから言った。
「中心都には用が出来たので、鈴音さんを祭りに連れていく事は出来ます。でも、中心都を一緒に回るには用を済ましてからでないといけませんから、何時になるか分かりませんよ」
鈴音は一太郎が自分の様子を伺っていることに気付き、皿を布で拭く作業を止めて頭を下げた。
「宜しくお願いします」
鈴音の言葉に椎名はニコリと微笑んで作業を再開した。そこで鈴音は好奇心が疼いた。
(椎名さんの用って何なのだろう。お薬を買う事だろうか……? でもそれだったら何時終わるかぐらい直ぐに分かりそうな物だけれど……)
気になり始めると黙っていられなくなり、鈴音は結局数分も経たない内にまた椎名に尋ねた。
「椎名さんの用事って何ですか? もしわたしに出来る事ならば、お手伝いさせて頂きます」
鈴音の問いに一太郎も同意して、「わしも聞いてみたいの」と面白そうに言った。椎名はしばらく黙って皿を洗い続けていたが、遂に二人の興味津々な視線に耐えられなくなったのか、自分も含めて三人以外誰かがいる筈も無いのに辺りを確認して、真剣な声で言った。
「いいですか、これは秘密ですよ。僕の友人に動物の医者がいまして…名を清丸と言うんですが…とにかく彼が今治療している動物がね、ちょっと珍しい奴でして。祭りで見世物にするらしいのですが随分弱っているらしくてねぇ……様子を見てくれないかと頼まれたのですよ」
「ほぅ……して、その動物とは?」
一太郎が顎に手を当てて興味深そうに言った。鈴音も気になって椎名の様子を見ていると、彼は「驚かないで下さいよ」と前置いてから、もう一度周りを見回す無意味な動作をした後に言った。
「鬼熊です。背丈は何と二間一尺(約4m)!」
一太郎が驚いて声を上げている中、鈴音は目を開いて固まっていた。鬼……? 何故鬼が……それも凶暴で有名な鬼熊なんかが捕らえられているのだろう? 学び舎で習った鬼熊の恐ろしさは、深く心に刻まれている。
『鬼熊は世界でも有数の危険な生物だ。唯一赤鬼だけが彼等を止める術を知っているが(ロラン達がニヤニヤと笑った)、え~決して油断しない事。まぁ、この島には数える程しか生息していないんだけどな。それでも今から話す事例は全て実際に起きた事件であり--』
「大丈夫だよ鈴音さん。さっきも言ったけれど鬼熊はとても弱っているし、頑丈な檻に王直属の兵まで付いてるんだから」
鈴音が鬼熊についての話しを思い出していると、椎名が心配をしてくれたのか優しい言葉を掛けてくれた。鈴音はハッとして、心配を掛けない様に「すみません、大丈夫です」と無理に笑って言った。
そうだ、あれは先生の話だ。実際会って会話をする事が出来たのならば、話のわかる鬼の種族かも知れない……。偏見で嫌うなんて酷い話だ。
鈴音があれこれと考えている間に一太郎が切り出した。
「さて、片付けも終わった。おぬし達、中心都に行く準備をするのじゃ」