1,鬼の住む島
亭々たる樹木が無数に立ち並び、湿った地面を覆う落葉が草花を育てる。涼気の爽やかな森の空気が、島全体に独特な木の香を漂わせていた。
人間の文明を感じさせない孤独な緑の島に、少女は一人、仰向けに倒れている。身に纏った赤い上等な着物や、光沢のある黒髪が泥で汚れる事も気にせず、微かな呼吸で胸を上下させ、広い島の中でも、一際大きな巨樹を虚ろな瞳で見上げている。
--三日前、先日から降り続けている豪雨と激しい強風が島を襲い、海は大きな波を幾つも生み出して、狂った怪物のように暴れ続けた。
そんな嵐の中を、金や銀の装飾が幾重にも施された巨大で豪華な船が、遠く離れた島国から、この緑の島へと四日を費やして訪れた。船は波のうねりで酷く揺れながら島の海岸沿いに留まり、錨も下ろさずに幼い少女を一人岸辺に下ろすと、さっさと針路を転回させ、逃げるように荒れる海原へと去って行った。
一人残された少女は強風に煽られて、冷たい雨と波飛沫を全身に浴びながら、自分を置いて去る巨大な船を、その姿が彼方に消えるまでただ眺め続けた。船が地平線の向こうへ消え去ると、少女は膝から崩れ落ち、濡れた髪や衣を風になびかせながら、その場で声を出して泣き始めた。強く吹く風も、冷たい雨も、全く気にする余裕が無いようだ。幾ら涙を流しても、少女を襲う孤独と悲しみが癒える事はなかった。
嵐が過ぎ去ったのは、それから数時間が経過した頃であった。凄絶な雨と風は嘘のように静まり、雲の切れ間から温かな太陽が空を明るく照らしている。しかし孤島を取り囲む海だけは未だに荒れ狂い、幾つもの波が激しくうねっては飛沫を飛び散らしていた。
少女は髪から滴る水滴を袖で拭いながら、濡れた衣を不快に思いつつ、涙が枯れ果てた瞳で、空を泳ぐ雲の様子を呆然と眺めていた。時間が経過し、少女は空腹感を覚え始める。彼女は立ち上がり、海岸から島の大部分を占める広い密林へと足を進めた。何か食べられる物を探そうと考えたのである。
この島の森は、眼を見開くほどに美しかった。
力強く立派に聳え立つ何本もの大木。それ等が枝に付ける青々とした葉には、先頃止んだ豪雨の水滴が、陽の光を反射させて美麗に輝いている。独特な木の香りが森中に漂い、湿った地面を覆う落葉、折れた枝の上を歩く感触を味わう。名前も分からない花々や動物達、少女が苦手とする昆虫も含めて、彼女は全てを好奇心旺盛に、楽しそうな表情で体験した。
しかし、心に残る大きな不安と悲しみを誤魔化しきる事は出来なかった。
夕暮れ時、少女はようやく安全に食す事が出来そうな植物の実を見付けた。森の中間に位置する特に大きな巨樹、その周囲に咲いている植物で、桜桃のような赤い実だ。少女はその実を一つ植物からもぎ取り、ほんの少しだけ前歯でかじってみた。瞬間、甘い実の果汁が口に広がり、少女は心の底から喜ばしく思った。しかし途端に果汁は酷い苦みを伴う渋味へと変化し、少女は瞳に涙を浮かべながら慌てて果肉を吐き出す。
それから数分もしない間の事である。少女が口の中に残る渋みを不快に思って窮していると、突然、身体が急激に重くなり、立っていられなくなった。酷い吐き気と、燃えるような頭の痛みが絶え間無く少女を襲う。遂には耐えられなくなり、その場でバタリと倒れてしまった。赤い実には毒があるのだと了解した頃には、既に指一本動かすことも出来なくなっていた。
以来この三日間、少女は全く動く事が出来ず、巨樹と赤い実を付けた植物の側にずっと横たわっている。その間に随分と衰弱してしまった。残酷な苦しみの中で、少女は走馬灯のように自分の人生を振り返りながら、静かに意識を失った。
気が付くと、少女は誰かに呼び掛けられていた。深い虚無の世界から、自分が湿った地面の上に横たわっている感触が戻ってくる。少女はゆっくりと瞼を開け、状況を確認しようと瞳を動かした。
声の主は少女の眼前に直立していた。背の異様に高い、頭に二本の角を生やした青い目の男である。男の鼻と耳は異様に尖っており、口に生え揃った歯や手足の爪は凶器のように鋭い。彼は低いしわ枯れた声で『気が付いたか?』と、横たわる少女を見下ろしながら尋ねた。
ふと、少女は自分の身体が随分と楽になっている事に気が付く。疲労感は未だに強く残っているが、赤い実の毒が与えた影響であろう頭の痛みや吐き気などは嘘のように治まっているのだ。
『人間がここにいる理由を、是非とも聞いてみたいものだ』
男は猜疑心を含んだ声音で、低く言った。
少女はその瞬間、多くの疑問が自分の心の中に浮かぶ様子を感じた。船を下ろされた時、この島には誰もいないと聞かされていたのに、何故人がいるのだろう? それに、男の姿は普通の人間とはとても思えない。角が生えており、爪や歯は鋭く、瞳は青い。顔には古傷が幾つも刻み込まれ、身に纏う衣も見たことの無いような生地で出来ている。そして一番の大きな疑問点は、あれだけ苦しかったのに、何故自分の身体がこれほど楽になっているのかである。もう、自分は助からないと思っていたのに……
少女が横になったまま困惑した表情で男を見詰めていると、彼は体を屈め、直ぐ側に生えている赤い実を一つもぎ採った。少女はハッとなって身体を起こし、赤い実を恐れてフラフラと後退った。
『鬼狂いの実だ。我々鬼ですら、これを少量食うだけで死ぬ。お前は運が良い。私が丁度、解毒薬を持っていた』
男は空の薬瓶を少女に振って見せながら、幼子に諭す様なゆっくりとした口調で話した。
少女は目の前で薬瓶を振って見せている面妖な男が自分を助けてくれた恩人であるという事と、彼が鬼であるという事を素早く理解して簡単に受け入れた。物を疑う事を、まだ充分に養えていなかった為である。
少女は覚束ない足取りで姿勢を正すと、鬼に向かって御辞儀をしながら礼を言った。
「た……助けて下さって、有り難うございました」
鬼は身体を屈めたまま衝撃を受けたような表情を浮かべた。その鬼の姿に少女は、何か自分が悪い事をしたのだろうかと不安になった。
『お前、私の言葉が分かるのか?』
鬼は表情を固めたままボソリと尋ねた。どうやら鬼は、理由は分からないが、少女には自分の話す言葉が理解出来ないだろうと考えていたらしい。少女は不思議に思った。確かに聞き取り辛い声ではあるが、意味は明瞭に伝わる。少女は困惑しながらもしっかりと頷いた。
『……そうか……』
鬼は一言そう言うと静かに立ち上がった。やはり背は相当に高く、少女の三倍はあるように見える。
『人間を恨むか? 人間よ』
鬼は唐突に少女に向き合うと、表情を崩さず、低い声音で尋ねた。
少女は質問の意図が分からず、黙って、鬼の恐ろしい表情を見上げていた。すると鬼はもう一度、同じ言葉を繰り返す。少女は一考した後にはっきりと答えた。
「恨みません」
鬼は間髪入れずに少女を怒鳴った。鬼気迫る表情である。
『何故恨まぬ。お前は、人間の生け贄であろう? お前は奴等に希望を与えたのに、奴等はお前から全てを奪ったのだぞ!』
牙を向けて叫ぶ鬼に、少女は激しく怯えながら、まだくらくらする頭を抑えて呟いた。
「み……皆……泣いてたから……」
鬼はまた更に衝撃を受けたように、古傷だらけの顔を一層歪めさせた。彼の心の中でおきている葛藤を少女は知らず、鬼の表情の変化を不思議そうに見上げている。
強い風が吹いた。大木の枝に付いた青い葉や地面に落ちた枯れ葉達が宙に舞う。冷たい風が、少女と鬼に強く吹き付けた。




