番外編 第零話 はじまりくん。
金曜日の居酒屋。
賑やかな空気。弾けるような笑い声。
あちこちで、ジョッキやグラスの音が鳴っていた。
少し広めの座敷席。
横に広がったテーブルの上には、料理が並ぶ。
今日は親睦を兼ねた会社の飲み会で。
普段話さない人とも話せるから、
こういう会は嫌いじゃない。
「チーフ~。飲んでますか~?」
「お前、もう酔ってるのか……」
「聞いてくださいよ~。この前納品したクライアントが~」
さっそく酔いのまわった同僚が、上司との距離を詰めていた。
普段あまり関りのない人も、業務中は厳しい上司も。
アルコールが、その垣根を少しだけ低くしてくれる。
――ただ、今日はいつもと少し違った。
隣に目を向ける。
普段は参加しない先輩が、隣にいた。
黒縁メガネ。
ニュアンスカラーのカットソー。
緩めのシルエット。
耳には、小ぶりなシルバーピアスがひと粒。
――いつもの先輩。
私が入社して一年目。
この先輩が、私の教育係だった。
仕事には厳しいけれど。
たまに飲み物を差し入れてくれたりもする。
けれど、こういう飲み会に顔を出す事は、ほとんどなかった。
「……珍しいですね。先輩が参加するなんて」
料理に箸を伸ばしながら、何気なく。
「気まぐれ」、とか。
そんな返事を想像していた。
でも先輩の返事は、予想とは違っていた。
先輩は、手元のグラスを揺らしながら、
「君がいるって、他の人から聞いたから」
いつものように、淡々と。
遅れて、するりと視線がこちらに流れる。
その視線に捕まった時、小さく胸が跳ねた。
言葉の意味を掴む前に、他の人に声を掛けられて。
先輩に聞けないまま、時間が流れていく。
飲み会は進む。
席替えがあっても、先輩が隣から動くことはなくて。
周囲では、賑やかに会話が弾んでいる。
先輩も私も、それぞれ別の人と話していた。
仕事の話、趣味の話。
他部署の人との話で、盛り上がっていた。
その時――
「……!」
先輩の指先が、――私の指先に触れた。
テーブルの下に、無造作に置いていた私の手。
さりげなく、けれど確信犯的に。
一瞬、ではない。
意図のある触れ方。
けれど、先輩はこちらを見なくて。
それが余計に胸の奥をざわつかせる。
「……っ」
少し遅れて、
指先だけ触れていた先輩の手が、私の手に重ねられた。
先輩の熱が、じんわりと滲んでくる。
胸がまた、跳ねる。
アルコールとは別の熱が、体を熱くする。
相変わらず、先輩はこちらを見ない。
私とは反対側にいる人と、学生時代について話す声。
「そうなんですね。僕は部活、運動部でしたよ」
「えー、意外!」
「よく言われます」
何もないみたいに、少し笑って会話をしていて。
他部署の人と和やかに談笑している。
テーブルの下と目の前の会話。
その温度差に、思考が止まる。
けれど、手を引けなくて。
引く理由が見つからなくて。
先輩がこちらを見る。
「……どうしたの?酔った?」
わざとらしく。
酔いじゃない。
だから、首を振るしかできない。
――その聞き方、ずるい。
「お水も、飲んだ方がいいよ?」
先輩の口角が、わずかに上がった気がした。
手が触れたまま、
先輩の人差し指が、手の甲を撫でる。
確かめるように、ゆっくり。
「……っ」
――先輩の熱が重なったまま、飲み会は続く。
別の人との会話に意識を向けても。
ふいにまた、なぞられる。
その度、先輩の方へ意識を戻されて。
『ちゃんとこっち見て』
そんな風に言われてるみたいに。
けれど、先輩は何も言わない。
だから、何も言えない。
……自分の心臓の音が、うるさい。
先輩だけが平気な顔をしているのが、少しだけ悔しかった。
だから、ほんの少しだけ。
私から、先輩の指に触れにいった。
その瞬間。
絡め取るみたいに、先輩の指が絡んできた。
「……!」
――周りの喧騒が、少し遠くに聞こえた。
賑やかな居酒屋の一角。
誰も知らないテーブルの下。
言葉はないのに、確かにそこに熱はあった。
飲み会も終わり、居酒屋を出る。
涼しい夜気に出迎えられた。
店先は、飲み足りない人たちでまだ盛り上がっている。
夜気で冷えるはずなのに、手の甲には熱が残ったまま。
先輩が、駅に向かっていくのが見えた。
私も後を追いかけていた。
先輩は、私に気づいて振り返って――
「飲み過ぎてない?」
手を重ねたことには、触れない。
また、何も言わないまま。
私だけが、揺れている。
並んで歩いていて、ふと先輩が立ち止まった。
何かを思い出したように。
「……あ」
少しの間。
「明日、空いてる?」
それだけ。
でも、さっきまでの指先を知ってるから。
その言葉を、普通の意味では受け取れなかった――。




