第8話
ドンドンドン——!
「逃げて——っ! げほっ、げほっ……! 誰かいる!? 早く……早く逃げて!!」
廊下の向こうから激しくドアを叩く音と、女の子のひどい咳き込みが聞こえてきた。
気づけば、床のあたりにうっすらと煙が這っている。
ドアの隙間から、じわじわと侵入してきているみたいだ。
……でも、なんか変。
その煙、普通の黒や灰色じゃない。
むしろ——カラフル?
「えっ……?」
私は慌ててドアを開けた。
次の瞬間、濃い煙がまるで津波みたいに床を這って流れ込み、一気に部屋中を満たしていく。
「四階の……錬金薬が……燃えて……! 早く逃げて……!」
「錬金薬!?」
……あ、でも確かに。
ちょっと甘い匂いがする。
レモンみたいな爽やかさに、焦げた匂いが混ざってて、ほんのり花の香りもする。
……この錬金術師、センスいいかも!
……いや、今それどころじゃない。
「げほっ……げほっ! この薬、力を弱める……早く逃げないと……動けなくなる……!」
[筋力+5(1時間)]
そう言いながら、白衣の女の子はその場に崩れ落ちた。
「もうダメ……力が入らない……置いていって……」
私と同じくらいの年に見えるけど、体に合っていない大きな白衣を着ていて、裾はところどころ焦げている。
「とりあえず、下まで連れていくね」
「来ないで……げほっ……私のせいで……これ以上……誰かに迷惑かけられない……」
ほんの数秒の間に、煙はさらに濃くなっていく。
廊下はすでに、あのカラフルな煙で完全に埋め尽くされていた。
……私は思いきり、ひと息吸い込む。
[魔力上限+5(永続)]
[筋力+20(1時間)]
[呼吸機能+20(永続)]
……やば。
気持ちよすぎるんだけど!?
一瞬、その力の充実感に頭がくらっとした。
我に返ると、白衣の子がものすごい「???」って顔でこっちを見てる。
「ごめんごめん、今すぐ下に連れていくね」
「だめ……げほっ……放っておいて……」
私は有無を言わせず彼女を背負う。
強化された力のまま、一気に階段へ駆け出した。
「おろして……」
「喋らないで! 息止めてて!」
私は周囲の甘い空気を思いきり吸い込みながら、どんどん軽くなる体で駆け下りる。
「誰か出てきたぞ!」
外には、すでにたくさんの人が集まっていた。
スマホで撮影している人もいれば、鎧を装備して救助の準備をしている人もいる。
「その子、毒にやられてる! ヒーラーいない!?」
私は人混みの中に彼女を降ろした。
「Cランクパーティのヒーラーです! 任せてください!」
周囲の人たちがすぐに彼女の治療を始める。
「全員、避難できたのか?」
「さっきの点呼では、302の住人だけがまだ——」
「……あ、私302です」
私はおずおずと手を挙げる。
「じゃあ全員無事だ! よかった……!」
場の緊張が、ふっと緩んだ。
「でも……僕のキクが……」
人混みの中から、少年の泣き声が聞こえる。
「どうした? まだ誰か中に?」
「キク……僕のAIアシスタントなんだ……充電中で……」
「気の毒だけど、人が無事ならそれでいいよ。俺なんかC122ダンジョン環境論の論文、全部置いてきた……半年分だぞ……」
「俺のピザ! 買ったばっかだったのに!!」
「消防車が早く来ればいいんだけどな……消火が間に合えば、まだ助かるかもしれない」
「いや、ピザはもう無理だろ……毒まみれだし……」
遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる。
でもこのあたりは道が狭いし、到着にはまだ時間がかかりそうだ。
「全員下がれ! 建物から離れろ! 煙が外に出てくるぞ! ……って、おい!? 何してる!?」
火はまだ四階の一室に留まっている。
……なら、まだ間に合う。
そう判断した私は、そのまま建物へ向かって走り出した。
「おい! 正気か!? 戻れ!!」
「キク、401号室だよね?」
さっきの少年、確か四階だった。
四階は部屋が二つだけ。
402が火元なら、残るは401。
「……うん……」
少年は呆然としながら頷いた。
「待ってて!」
私はそのまま建物の中へ飛び込んだ。
すぐにポチが警告を出す。
[警告! 火災により建物の構造が損傷している可能性があります。煙に耐性があっても、崩落・落下物による危険があります!]
「たぶん大丈夫」
[あなたの生命は最優先です! AI一体のために命を危険に晒す価値はありません!]
「……いや、ちょっと煙を多めに吸いたいだけだから。ポチ、この煙いい匂いしない?」
[ポチに嗅覚モジュールは搭載されていません]
「そっかぁ……来月……いや再来月なら買えるかもね〜」
[今はそれを議論している場合ではありません! 警告! 警告! 直ちに危険区域から離脱してください!]
「煙が濃すぎて見えない。ポチ、いつものルート覚えてるでしょ? ナビ出して」
[補助視界を起動します。安全経路を——……進行方向が違います! 違います!]
「大丈夫大丈夫〜! 今めっちゃ調子いいから!」
視界の端で、ステータス上昇の通知が次々と弾ける。
私はふと、自分の腕を触ってみた。
……よかった。
ムキムキの怪物みたいにはなってない。
見た目は普通のまま。
[魔力上限+5(永続)]
まだちゃんとした戦闘スキルは習ってないけど、それでも分かる。
【魔力上限】って、めちゃくちゃ重要なステータスだ。
しかも、上げるのがとんでもなく大変。
これを上げる錬金薬なんて、どれも六桁スタート。
一瓶で、私の一年分の生活費が吹き飛ぶレベル。
それが今、無料で吸い放題。
……使わないなんて、ありえないでしょ!
「401……あった!」
四階は煙が一番濃い。
通知音が連続で鳴り響いて、頭が痛くなるくらいだ。
すぐ隣の部屋で火が燃えていて、壁は熱でじりじりしている。
[警告! 周囲構造が極めて不安定! 5分以内の崩落確率92%! 直ちに離脱してください!]
「すぐ出る……すぐ……あ、いた!」
私は壁際に置かれていた小さな端末——キクを掴み、胸に抱えた。
「次は304の論文……あ、そうだ! 306にまだピザ残ってたよね?」
「お腹すいた……あれ? そういえば食べるなら……配信つけたほうがよくない?」
「ポチ、配信開始して!」




