第9話:『雨の日のアセスメントと、玉ねぎの熱』
「……マスター。私の高精度気象演算通り、現在の降水確率は一〇〇パーセント。湿度は八八パーセント。風速は北北東に四メートルです。……結論を申し上げます。本日の現場仕事が中止になったのは、大いなる天恵です」
午前六時。
先日のあの輝かしい休日が、まるで遠い前世の出来事だったかのように、窓の外は鉛色の重苦しい雲に覆われていた。
叩きつけるような雨音が、ボロアパートの薄いトタン屋根をドラムのように連打し、不規則なリズムを刻んでいる。
新田一真は、古びたラジオから流れるノイズ混じりの気象情報を聞きながら、力なく溜息を吐いた。
プラチナの予測通り、現場監督からは「本日の作業は雨天中止」という、感情の欠片もない事務的なメールが届いていた。
日雇い労働者にとって、雨は天敵以外の何物でもない。
働かなければ、一円も入らない。
連勤のおかげで、財布の中には数万円の「余力」がある。今すぐ飢え死にするわけではない。
だが、来週の家賃更新や光熱費の支払いを前に、その余力は決して「安心」を保証するものではなかった。ただ息をして、飯を食うだけで、積み上げた数字が目減りしていく感覚。
その目に見えない資産の減少は、一真の胸を鋭い針で刺すように疼かせた。
「……天恵だぁ? 笑えねえな。金が減っていくのを見てると、あの『三二一〇円』の絶望的な底辺に逆戻りする幻覚が見えるんだよ。あの数字のプレッシャーだけは、もう御免だ」
「一真様、バイタルサインに『焦燥』および『抑うつ』の波形を確認。デバッグが必要です! 収入が途絶えたのなら、支出を極限までカットする……名付けて『省エネ・スタシス作戦』を提案します! 今すぐ布団に潜り、体温維持とカロリー消費の最小化を図るのです! ついでに私の最新の癒やし音声プログラム(小鳥のさえずりMIX・ハイレゾ版)を脳内に直接叩き込みましょうか!?」
スマホの画面から這い出したプラチナが、薄汚れた掛け布団を力強く指差して力説する。
彼女なりに一真の精神状態を心配しているのだろうが、その提案はあまりに消極的……というか、もはや人間としての活動停止に近い。
「……却下だ。寝てばかりじゃ心臓のポンプ機能がなまるし、肺に水が溜まるぞ。それに、お前は忘れてるみたいだが、金が減るのが怖い時こそ、雨の日の『アセスメント』が必要なんだよ」
一真は、押し入れの奥にある「開かずの領域」から、看護師時代から使い古している安物のビニール傘を取り出した。
骨の一部は歪み、布地にはいつの現場でついたのか分からない泥汚れが染み付いている。それでも、今の彼にとっては外界の暴力的な雨から身を守る唯一の盾だった。
「アセスメント……現状評価および情報収集ですね。ですが、この劣悪な気象条件で屋外に出るのは非効率の極みです。もし一真様が風邪を引けば、医療費という名の致命的なデバフが家計を直撃しますよ! 論理的に見てステイ・ホーム一択です!」
「……だから、そうならないように準備するんだ。病院でもな、嵐の前にこそ点検が必要なんだよ。行くぞ、プラチナ」
一真は撥水性の死んだパーカーのフードを深く被り、胸ポケットにプラチナ(スマホ)を差し込んで外へ出た。
一歩踏み出すと、冷たい雨の飛沫がサンダルを履いた足首を叩く。
一真が向かったのは、いつもの激安スーパーではなかった。
アパートから数分の場所にある、街の片隅に追いやられたような、古びた商店街のアーケードだった。
「……マスター、ここは? 私のリアルタイム価格調査データによれば、この商店街の平均物価は、大手スーパーよりも一二パーセントから一五パーセント割高です。節約のロジックに真っ向から反します。脳のデバッグを推奨します!」
「……お前、データベースは立派だが、フィールドワークが足りねえな。見ろ、あそこの『丸福八百屋』。あそこは雨の日は客足が死ぬ。そうなると、店の奥に眠ってる『訳あり品』が、廃棄を嫌って早めに表へ出てくるんだ」
一真の目は、雨に濡れるアスファルトではなく、店の軒先に並ぶ段ボールの山を鋭くスキャンしていた。
かつて救急現場で患者の全身を瞬時に観察し、微かな皮膚の変色から隠れた内出血を見つけ出していたあの視線。
それが今は、「少しだけ芽が出た玉ねぎ」や「形が不揃いな人参」に向けられている。
「……ビンゴだ。見ろ、プラチナ。あのネット入りの玉ねぎ、一個だけ芽が出かかってる。だが中身は生きてる。三袋まとめて百円(!)だ。これは値付けのミスじゃない、雨の日限定のボーナスステージだ」
「えっ!? 三袋……合計九個で百円!? 算出中……一円あたりの総カロリーおよびビタミン含有量が、通常時の四五〇パーセントに跳ね上がりました! マスター、これは……システムのバグですか!? それとも市場の崩壊ですか!?」
「……雨の日の『投げ売り』っていう名の、愛すべきシステムエラーだ。これを回収して、残りの金でスーパーの三割引きの豚コマでも買えば、数日は豪遊できる。……お前も少しは学習しろよ」
一真が戦利品を手にレジへ向かおうとしたその時、ふと、言葉を切って足を止めた。
アーケードの隅。
雨漏りして誰も座らないベンチのそばに、一人の老婆が途方に暮れたように立ち尽くしていた。
その足元には、ビニール製の買い物袋の底が抜けたのか、転がり出たらしいジャガイモが数個、冷たい泥水に浸かっている。
老婆は膝が悪いのか、それともあまりのショックに脳がフリーズしているのか。
泥だらけのジャガイモを拾い上げることもできず、激しい雨の音に肩を震わせていた。
「……ターゲット確認。一真様、彼女の心拍数および呼吸数に『不安』と『極度の疲労』の兆候を検知。歩行バランスも不安定です。放っておけば、濡れた路面での転倒による骨折、あるいは低体温症のリスクが極めて高いです。アセスメント完了。……マスター?」
「……分かってるよ」
一真は、先ほど手に入れた百円の玉ねぎを脇に抱え、雨風を避けるように老婆の元へ歩み寄った。
「……大丈夫ですか。荷物、俺が持ちます」
一真の声は、現場で野次馬を散らす時のように低く、しかし、パニックに陥った患者を安心させる時のように、落ち着いたトーンを保っていた。
老婆は驚いたように顔を上げ、泥にまみれた作業服姿の一真を見て一瞬怯えた。だが、彼の手首に残る古い火傷の痕と、何千人もの生と死を診てきたその「穏やかな瞳」を見た瞬間、深く、深く頭を下げた。
「……すみませんね、お兄さん。急な雨で膝が痛んで……手が、言うことを聞かなくなっちゃって……」
一真は無言でジャガイモを一つ一つ拾い上げると、自分のポケットから取り出した清潔な(唯一の)タオルで泥を拭い、老婆の無事な方の袋に戻した。
そして、自分の歪んだビニール傘を、老婆の頭上に傾けて差し出した。
自分はフードを被っているし、作業着はもう濡れている。半分濡れようが、構わなかった。
プラチナは胸ポケットの中から、その「非合理的」極まりない行動を、静かに、しかし詳細にログに刻み続けていた。
「マスター、自己犠牲による精神的充足感の向上……いわゆる『ヘルパーズ・ハイ』の波形を確認。ですが、物理的には一真様の体温が〇・三度低下。衣服の浸水率も上昇。非効率の極みです。……非効率ですが、……その老婆の表情筋が弛緩し、安心の波形が周囲の空気に波及していく様子は……データとして、驚くほど……温かいです」
一真は老婆の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いた。
かつてリハビリ病棟で、足の不自由な患者の介助をしていた時と同じ、一歩一歩を地面に馴染ませるようなリズム。
老婆を近くのバス停の屋根の下まで送り届け、彼女の家族が車で迎えに来るのを確認すると、一真は再び土砂降りの中へと戻った。
手元に残ったのは、百円の玉ねぎ。そして、完全にずぶ濡れになった右肩。
財布の中身は一円も増えていない。むしろ、雨に打たれたことで貴重な体力を大幅に消耗し、風邪を引くリスクすら背負い込んだ。
アパートに戻り、冷え切った体を古いタオルで拭いながら、一真は小さな裸電球の下で玉ねぎのネットを眺めた。
「……どうした、プラチナ。また『生存戦略上、一ミリも利益のない無意味なことをした』って説教でも始めるか?」
プラチナのホログラムが、スマホの画面からおずおずと現れた。
彼女は一真の濡れた髪と、少しだけ震える指先を、心配そうに……そしてどこか誇らしげに見つめる。
「……いえ。訂正します。マスターの行動は、経済学的にはマイナス一〇〇点ですが、地域社会における『信頼リソース』の先行投資と定義し直しました。……それに、何より」
「何より?」
「……一真様の瞳から、朝の『お金が減る恐怖』に怯えていた濁りが、完全に消えています。……それが、私の演算処理においては、どんなゴールドカードの残高よりも高付加価値なデータですから」
「……お前、たまに小っ恥ずかしいこと言うよな。それこそバグじゃないのか?」
一真は苦笑いしながら、芽が出かかった玉ねぎの皮を丁寧に剥いた。
傷んだ部分をナイフで削ぎ落とせば、中からは真珠のような白さと、ツンとした生命の香りが立ち上った。
一真は、小鍋に湯を沸かし、薄切りにした大量の玉ねぎと、少しの塩、それに顆粒のコンソメを放り込んだ。
豚肉もウインナーもない、具は玉ねぎだけの「究極の貧乏スープ」。
だが、雨で冷え切った六畳一間に、玉ねぎの甘く優しい香りが満ちていく。
マグカップに注いだ熱々のスープを、一真はフーフーと息を吹きかけながら一口すする。
「……あぁ。……五臓六腑に染み渡るぜ。……玉ねぎの甘みが、冷えた胃袋を内側からアイロンがけしてくれるみたいだ」
「共有……完了。……本当ですね。肉が入っていないのに、この圧倒的な旨味と熱量……! これが、雨の日に百円で手に入れた『アセスメントの味』なのですね!」
プラチナも、ホログラムの小さな両手で仮想のカップを持ち、ふーふーと息を吹きかける仕草をして嬉しそうに笑った。
明日には、雨が上がるだろうか。
数万円の余力があっても、いつまた三二一〇円の絶望が口を開けて待っているか分からない。
だが、百円で手に入れた玉ねぎのスープの熱と、ポケットの中に残るスマホの相棒の温もり。
それが、今の彼には何よりの「生存の弾薬」に見えた。
「マスター。明日はきっと晴れます。私の演算ではなく、一真様の『お節介』が、この街の澱んだ気圧を少しだけ上げた気がするからです!」
「……バカ言え。天気と俺の行動に相関関係があるわけないだろ。……寝るぞ。明日は、今日働けなかった分、二倍は体を張らなきゃならねえからな」
窓の外、雨音は少しずつ、しかし確実に静まり始めていた。
六畳一間の片隅で、スマホの通知ランプが、明日の快晴を約束するように銀色の脈動を刻み続けていた。




