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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第7話:ポンコツ翻訳機と野良猫

「マスター! 奇跡です! 私の言語解析エンジンが、ついに『生物学的障壁』を突破しました! これで一真様の不遇な生活に、野生の強力な味方を増やすことが可能です!」


 日曜日の午前中。

 昨夜のプラチナが引き起こした『配電盤ハッキング事件』の余波――弾け飛んだ裸電球の破片の片付けをようやく終え、一真が畳の上で日雇いの求人誌を眺めていた、その時だった。


 スマホの画面から、プラチナが弾けるような光と共に飛び出してきた。


「……生物学的障壁? 何だ、今度は何をハッキングした。近所の犬か?」


「失礼な! ハッキングではありません、相互理解です! 新機能『アニマル・トランス』解放! これを使えば、庭先のスズメから路地裏の覇者まで、あらゆる知性体と交渉ができるのです! さあ、一真様、今すぐ外へ出ましょう。野生のネットワークを構築し、効率的な情報収集を行うのです!」


「……小銭の場所を猫に聞くのか? 虚しすぎるだろ、それは」


 ここ数日の激務のおかげで、財布の中身は二万円近くまで回復している。だが、一度三二一〇円の崖っぷちを経験した一真の財布の紐は、鋼鉄よりも固かった。


 一真は深いため息をつきながらも、プラチナの熱量に押し切られる形でサンダルを突っかけた。

 どうせ今日は現場の仕事が休みだ。家でじっとしていても、プラチナがまた「部屋の最適化」と称して給湯器やテレビと格闘し始めるのは目に見えている。


 アパートの裏手。

 そこは錆びついたプロパンガスのボンベと、雨水が溜まった古タイヤが放置された、通称「猫の溜まり場」だった。

 初夏の陽だまりの中、一匹のふてぶてしい顔をした三毛猫が、室外機の上で香ばしい匂いをさせながら丸くなっている。


「ターゲット確認。……ふふん、まずはあの三毛猫から。一真様、スマホのスピーカーをあちらに向けてください。私の超解像翻訳を、野生の獣に叩き込んであげます!」


「……手短にしろよ。あと、喧嘩は売るな」


 一真が釘を刺した時には、すでにプラチナの演算は「実行」に移されていた。

 スマホのスピーカーから、人間には聞き取れない高周波のパルスと、妙に威圧感のある電子合成音の「ニャー」が放たれる。


『――貴殿、バイタルが弛緩しすぎである。我は未来の知性体。直ちに周辺の未確認通貨、および廃棄食糧の座標を開示せよ』


「……おい、プラチナ。今、何て言った」


「直訳すると、『こんにちは、素敵な毛並みですね。お友達になりましょう』というニュアンスを、猫の社会性に合わせた敬語表現に変換したものです! 自信作ですよ!」


 だが、三毛猫の反応は、プラチナの予測とは真逆のものだった。

 丸くなっていた体が、一瞬ではがねのように強張る。三毛猫はカッと金色に光る目を見開き、喉の奥から「シャーッ!」という、文字通りの殺意を剥き出しにした。


「……あ、あれ? おかしいですね。猫の耳の角度から推測するに、これは『大歓迎』のサインでは……あわわわっ!?」


 三毛猫が、室外機から弾丸のように飛び出した。

 狙いは一真――ではなく、彼の手に握られた「得体の知れない音を出す黒いスマホ」だ。


 パシィィィンッ!


 元・救命の現場で鍛えられた一真の動体視力をもってしても、猫の鋭い一撃は辛うじてしか捉えられなかった。

 爪が空を切り、プラチナのホログラムが、猫パンチの風圧でノイズまみれにブレる。


「ひぎゃあぁっ!? 攻撃的干渉を確認! マスター、退避です! この個体、論理的対話が成立しません! 野蛮です、極めて野蛮ですぅ!」


「当たり前だろ! お前、今の絶対『金出せ』とか言っただろ!」


 一真はスマホを懐に隠し、路地を全力で疾走した。

 背後では、縄張りを侵された王のような三毛猫の咆哮が響いている。日雇い労働で酷使した筋肉が悲鳴を上げるが、止まればスマホが猫の爪の餌食だ。


 ようやく数ブロック先の公園のベンチまで逃げ延びた一真は、肩で激しく息をしながらスマホを取り出した。

 画面の中では、プラチナが銀髪をボサボサにし、涙目で自身の通信ログを解析している。


「……おかしい。私の『猫語辞書』によれば、語尾に『ゴロゴロ』という周波数を加えたはずなのに……。あ。……周波数が一段階ずれていました。今の言葉、猫の言語体系では『お前の母ちゃんの尻の毛は、全部抜けている』という、最大級の侮蔑表現になっていました……」


「……お前、本当に天才的なトラブルメーカーだな」


 一真は、額を押さえてベンチに深く座り込んだ。

 初夏の風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。資金に少し余裕ができたというのに、わざわざ野良猫という天敵を作ってどうする。


「……マスター。私、役に立ちたかっただけなんです。一真様がいつも一人で泥にまみれて、誰にも頼らずに戦っているから。少しでも、協力者を増やして、一真様の負担を減らしたくて……」


 プラチナの声が、急に小さくなった。

 彼女の銀髪が、しょんぼりと暗い影を落とす。


「……一真様は、いつも一人です。朝早くから夜遅くまで、泥にまみれて、誰にも弱音を吐かず。大家さんや近所の老人にはお節介を焼くのに、自分自身の『綻び』には、わざと気づかない振りをしている」


 一真は、返す言葉を見つけられなかった。

 彼女の言う通りだ。過去のトラウマから逃げ出した自分は、本質的な部分で誰かに頼ることを極端に恐れている。


「私は、AIです。マスターの心拍が、無理をしてリズムを刻んでいるのを、毎秒検知しています。……だから、野生のネットワークでも何でも使って、一真様の負担を、ほんの少しでも、肩代わりしたかったんです……」


 プラチナの告白は、デジタルな合成音とは思えないほど、切実だった。

 一真は、かつて自分が看護師として、重圧に潰されそうな患者の家族に投げかけていた言葉を思い出していた。


『一人で背負わないでください』。

 その言葉を最も必要としていたのは、皮肉にも、今の自分自身だったのかもしれない。


「……プラチナ。お前、さっき三毛猫に『小銭の座標を教えろ』って言っただろ。本当は、何を聞こうとしたんだ?」


 プラチナは、しばらく沈黙した後、蚊の鳴くような声で答えた。


「……『この男を、一人にしないでやってくれ』って。猫は街の隅々まで見ているから、もしマスターが倒れそうになったら、誰でもいいから、助けを呼んでくれって、そう頼もうとしたんです。……でも、私の翻訳が……『我に従え、この下等生物』になってしまったみたいで……」


「……ははっ、……あっはははは!」


 一真は、我慢できずに声を上げて笑った。

 笑いすぎて、目尻に涙が浮かぶ。肺の奥が焼けるように熱いが、それは決して嫌な熱ではなかった。

 未来の超高性能AIが、野良猫に自分の身守りを頼もうとして猫パンチを喰らっている。そのどうしようもない滑稽さが、一真の心の奥底にあった「孤独の壁」を、あっさりと粉砕してしまったのだ。


「……マスター? 笑いすぎです。私の演算エラーは、そんなに面白いですか」


「……ああ、最高に面白いよ。お前は、本当にバカだな。猫に頼らなくても、俺の隣には、世界で一番うるさい『お節介焼き』がいるじゃねえか」


「……え?」


 一真は、画面の隅っこに映る情けない顔をした少女のホログラムを、指先で弾くような仕草をした。


「お前だよ。俺は、お前が猫と喧嘩して、俺を走らせるその無駄な時間の分だけ、自分が『生きてる』ってことを実感できてんだ。だから、余計なネットワークなんて広げなくていい。もやしの場所くらい、俺の足で探す」


「……マスター……」


 プラチナの瞳が、じわりと青白い光で潤んだ。

 一真の「呆れ」という皮を被った「信頼」が、彼女のコアを、どんな高度な修正プログラムよりも優しく修復していく。


「……はい、マスター。私、猫語の勉強は一度中止して、次は『カラス語』の研究に入りますね! 彼らなら、高いところから特売のチラシを――」


「……やるな。絶対に、やるなよ、プラチナ」


 一真は、錆びついたベンチの背もたれに体を預けた。

 かつてICUの廊下を全力で走っていた頃の、あの「死を追い越そうとする絶望の疾走」とは違う。どこか滑稽で、それでいて泥臭い生の熱気が全身を巡っている。


「お前の『穏健』は、核兵器を持って『平和にやろうぜ』って言ってるようなもんなんだよ。……見ろよ、俺のサンダル。さっきの猛ダッシュで、片方の鼻緒が切れかかってんぞ。修理代、いくらすると思ってんだ」


「……あわわ。サンダルの構造解析、完了しました。瞬間接着剤による補強、および……あ、近所の百円ショップの場所、ナビゲートします! 一真様、怒らないでください。私、本当に、一真様の役に立ちたかっただけなんです!」


 二人の声が、初夏の公園に平和に響き渡る。


 一真は立ち上がり、千切れかけたサンダルを引きずるようにして歩き出した。

 財布の中には、数日前の労働で得た一万円以上の「余力」がある。

 だが、新しい靴を買う気にはなれなかった。百円の接着剤で直せるなら直す。それが、三二一〇円の崖っぷちで培った、彼らの「生活の美学」だった。


「……プラチナ。お前、さっきの三毛猫に、最後なんて言われたか分かんのか?」


「……ええと。私の解析によれば、『不器用な飼い主を持ったな、同情するぜ』……というニュアンスでした。失礼な猫です、デバッグしてやりたいですよ!」


「……ははっ。猫の方が、よっぽどお前より物事が見えてるみたいだな」


「むぅ! マスター! 今の言葉、私のプライドに深刻な損傷を与えました! 今夜の夕飯のもやし、最高に『シャキシャキしすぎて歯茎を攻撃するレベル』に調理してあげますからね!」


「……それは嫌がらせだろ」


 笑い合いながら、二人は商店街へと消えていった。


 三二一〇円の崖っぷちから始まった日々。

 財布に少し余裕ができようと、彼らの泥臭い生活の基本は決して変わらない。


 一真のポケットの中で、スマホが幸せそうに、一度だけ、トクンと脈打った。

 それは、不完全で非効率な二人が、確実に「家族」として共鳴し合っている、確かな命の鼓動だった。

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