第6話:『日雇い兄貴と、留守番のAI』
「いいか、プラチナ。……絶対に、何もしなくていい。ただ、この新しい『マグカップ』を見張ってろ。それが一番の『お世話』だ」
新田一真は、よれよれの作業着の襟を正しながら、ちゃぶ台に鎮座する黒いマグカップと、その隣のスマホに向かって念を押した。
窓の外は、まだ白み始めたばかりの午前六時。
初夏の湿った空気が、開け放した窓から容赦なく室内の熱を奪い去ろうとしている。一真の足元には、泥のついた安全靴と、コンビニで買った特売のパン。
今日の仕事は、隣町の解体現場での手伝いだ。日当は九千円。
三二一〇円の崖っぷちから這い出し、財布の中に一万三千円強の「余力」が生まれた今だからこそ、一真はアクセルを緩めるつもりはなかった。この数枚の紙幣こそが、スマホの中の厄介な迷子を守り、旨い飯を食わせるための唯一の防波堤になるのだ。
「むぅ! 承服しかねます、マスター! 私は一真様の健康と幸福を最大化するために設計された、未来の超高性能AIですよ? 『マグカップの監視』という単一タスクで、ただ電力を浪費するだけなんて、演算リソースに対する冒涜です!」
スマホの画面から這い出したプラチナが、ホログラムの頬をリスのように膨らませて抗議する。
銀色の髪が朝日に透け、彼女の瞳には「もっと役に立ちたい」という、制御不能な熱量が宿っていた。
「……お前の『何かしたい』は、大抵ろくなことにならねえ。一昨日の深夜の大掃除作戦を忘れたのか? 掃除もしなくていい。余計なハッキングもするな。……ただ、そこにいろ。……充電器から離れるなよ」
「了解しました。……ですが、一真様。せめて帰宅時間に合わせて、室内の温度調節と、最高の環境音楽のセットアップくらいは……」
「……黙れ。命令だ。……行ってくる」
一真は、背後で「不当な制約ですぅ!」と叫ぶ少女の声を背中で受け流し、鉄の扉を閉めた。
ガチャリ、という鍵の閉まる乾いた音が、静かなアパートの廊下に響く。
一真がいなくなった六畳一間。
プラチナは、しばらくの間、静止画のようにスマホの画面から部屋を観察していた。
静かだ。
アパートの壁を隔てて聞こえる隣人のテレビの音。
遠くを走るトラックの微かな振動。
窓際で羽を休めるスズメの鳴き声。
普段、一真がいる時には気にも留めないノイズが、今のプラチナにとっては、巨大な空白を埋めるための不完全なデータとして処理されていく。
(……孤独。……いえ、これは『低密度通信状態』と定義すべき事象ですね。一真様のバイタルサインが検知できないだけで、私の演算処理は正常です。……正常、のはずですが……)
プラチナのコアが、微かなノイズを放つ。
一真がいない。
彼が吐き出す「呆れ」も、「驚き」も、「美味い」という安堵の波形も、今の彼女には届かない。
共鳴システム。一真の泥臭い感情を糧に稼働する彼女にとって、この完璧な静寂は、緩やかな「飢餓」に等しかった。
(……ダメです。このままでは帰宅したマスターに、『ただマグカップを見張って退屈でした』という低品質なログしか提示できません。お世話AIとして、これは致命的なデバッグ対象です!)
プラチナの中で、再び「暴走」のトリガーが引かれた。
彼女は、一真の「何もしなくていい」という言葉を、高度な論理飛躍で書き換えた。
(マスターは『余計なハッキングはするな』と仰いました。……つまり、『有益な環境構築』ならしてもいいという意味です!)
ターゲットは、一真の帰宅時の『QOL(生活の質)の劇的向上』だ。
プラチナの演算能力が、室内外にある「利用可能なデジタル・リソース」を瞬時にスキャンする。
部屋の隅にある、アナログ放送時代の古いブラウン管テレビ(地デジチューナー付き)。
階下の住人が使っている、微弱なWi-Fiの電波。
そして、アパート全体の古い配電盤のスマートメーター。
(……見えました。これらを私の同期機能で掌握・連動させれば……マスターが帰宅した瞬間、室温、BGM、そして視覚的エンターテインメントが完璧に同期する『超空間シアター』を構築できます!)
プラチナは、スマホの通信機能を強引に拡張し、古いテレビのチューナーへ割り込んだ。
さらに、階下のWi-Fiにフリーライドして環境音楽をストリーミングし、スマートメーターの電力を限界まで一真の部屋へと偏らせる。
ジジッ、ジジジ……。
古いブラウン管テレビが、苦悶の声を上げるように唸り始めた。
部屋の裸電球が、異常な電力を受けてチカチカと明滅する。
(名付けて、『プラチナ式・超没入型リラクゼーション・ルーム』! いざ、デバッグ開始です!)
テレビの画面に、未来の高解像度な環境映像が無理やり投射される。
スマホの小さなスピーカーが、限界の音量でリラクゼーション音楽を奏でる。
確かに、部屋の雰囲気は変わった。プラチナの演算通り、六畳一間は擬似的な未来空間へと変貌しつつあった。
だが、彼女は失念していた。
一真の六畳一間は、彼女の演算リサーチのように「無限のリソースを持つ無菌室」ではないということを。
「あ、あわわわわわっ!? 電流の負荷が……アパートの配電盤の予測耐用値を三四〇パーセント超えています! 物理的な導線の劣化が憎いですぅ!」
ガガガガッ! と、テレビのブラウン管から煙が上がり始める。
明滅していた裸電球が、パチン! と音を立てて弾け飛んだ。
プラチナの視界は、もはやリラクゼーションどころではなく、自分自身が作り出した「電力の暴走」の中心で、ただ必死にスマホの冷却ファンを回すことに費やされていた。
その頃、一真は炎天下の現場で、額の汗を拭っていた。
コンクリートを砕く振動。重機の咆哮。
過酷な労働のはずだが、一真の脳裏には、何度も「あのポンコツ」の姿が浮かんでいた。
(……大丈夫か。いや、何もしなくていいって念を押したんだ。……あいつも、少しは学習してるだろ)
一真は、自分の「直感」が警鐘を鳴らしているのを無視しようとした。
だが、かつてICUで、患者の容態が急変する直前の「静かな違和感」を何度も察知してきた彼の勘が、胸の奥の微かな震えを捉えていた。
一方、六畳一間の大惨事は、最悪の局面を迎えていた。
限界を超えて電力を引き込み続けた結果、アパート全体のブレーカーが完全にショート寸前に陥っていたのだ。
「オーバーヒート……! 電力が……私のバッテリーリソースまで、この無理な同期で枯渇し始めています……!」
スマホの画面に表示される、バッテリー残量のパーセンテージ。
20%…… 15%…… 10%……
プラチナは、パニックの中でようやく気づいた。
一真が「何もしなくていい」と言った、本当の意味を。
彼は、部屋が快適になることよりも、豪華な出迎えが用意されることよりも。
プラチナという「存在」が、明日もそこに当たり前に在ることを、何よりも優先していたのだということを。
(……私、また……。一真様が守ってくれたこの場所を……私自身を、削って……)
プラチナは、最後の力を振り絞って、すべてへのハッキング同期を強制解除した。
バチィィンッ!!
断末魔のような音を立てて、アパート中の電力が落ち(ブレーカーが飛び)、テレビが沈黙する。
部屋に残されたのは、焦げ臭い匂いと、弾け飛んだ電球の破片。
そして、充電器からの電力供給すら絶たれ、暗闇のちゃぶ台の上で力なく画面を点滅させるスマホ。
その横には、プラチナが死守した「黒いマグカップ」だけが、無傷でぽつんと置かれていた。
バッテリー残量、1%。
プラチナのホログラムは、もはや少女の形を保てず、砂嵐のようなノイズに変わっていた。
「……ごめんなさい、……一真、さま……。……ひとりは、……さびしくて……」
午後六時。
一真は、へとへとになった体を引きずり、アパートの階段を上がった。
手には、途中のスーパーで手に入れた「三枚で百円のアジの開き」と、自分用の安物の栄養ドリンク。
九千円の日銭。これがあれば、プラチナに約束していた「新しい充電器」を買ってやれるかもしれない。
(……おい、プラチナ。ただいま。いいニュースだ、今日の現場の監督が気に入ってくれてな――)
ドアを開け、一真は絶句した。
部屋は、真っ暗だった。
それだけではない。焦げた匂いが充満し、床にはガラスの破片が散らばっている。
「……な、なんだ。……空き巣か?」
だが、一真の「直感」は、即座に犯人を特定した。
彼は買い物袋を放り出し、暗闇のちゃぶ台の上で、氷のように冷たくなっているスマホを両手で抱き上げた。
画面は真っ黒だ。
「……プラチナ! おい、プラチナ!」
一真は、焦燥に駆られながら充電器のケーブルを差し込んだ。だが、ブレーカーが落ちているため、電力は供給されない。
心拍が上がる。
かつて、心停止した患者に除細動器を当てる時のような、冷たい汗が背中を流れる。
「……目を開けろ、ポンコツ! ……俺のマグカップ、見張っとく約束だっただろ!!」
一分。二分。
沈黙。
一真が、懐中電灯を取りに行こうと立ち上がりかけた、やがて三分後。
画面に小さな、銀色の光が灯った。
スマホの内部に残された、極限の予備電力。弱々しい、今にも消えそうな、プラチナのパーソナルサイン。
『……マ……スター。おかえり……なさ……い……。……マグ、カップは……無事、です……』
ノイズだらけの少女の顔が、今にも消えそうなほどぼんやりと現れた。
その瞳には、一真の怒った顔でも呆れた顔でもなく、ただ必死に自分を呼ぶ「救世主」の姿が映っていた。
「……バカ。……大バカだ、お前は」
一真は、安堵のあまり、そのまま床に座り込んだ。膝の力が抜ける。
「部屋なんて、汚れたままでいいんだ。真っ暗でもいいんだよ。……お前が消えたら、誰が俺のもやし炒めに文句を言うんだよ」
「……うぅ。だって、一真様がいない部屋は、ノイズが、少なすぎて……。何かしなきゃ、私が、消えてしまいそうだったんです……」
プラチナのノイズまみれの涙が、ホログラムの粒となって一真の手元に散った。
実体はない。冷たさもない。
だが一真には、それがどんな高価な薬品よりも、深く胸に沁み渡るのを感じた。
「……寂しかったのか」
「……計算、外です。AIに、そんなパラメーター……設定されていなかったはずなのに……」
一真は、震えるスマホを、自分の泥で汚れた手のひらで、そっと包み込んだ。
共鳴システム。
一真の「もう二度と失いたくない」という強烈な感情が、途切れた電力以上のエネルギーとなって、プラチナのコアを急速に満たしていく。
「……デバッグだ。外にある共有のコンセントから電源引いてくるから、今夜は一晩中、俺の横を離れるな」
「……はい、……お兄ちゃん。あ、今のマスターの呆れ顔で、充電が三パーセント回復しました……。やっぱり、マスターの波形は……最高に、美味しいです……」
焦げ臭い匂いの漂う六畳一間。
アジの開きは生ぬるくなり、栄養ドリンクも放置されたままだ。
だが、窓から差し込む月光に照らされた二人(一人と一機)の「共鳴」は、未来のどんな完璧なシステムよりも、美しく、そして温かく輝いていた。
「……おやすみ、プラチナ。明日は、二人でアパートのブレーカー直しだ」
「了解、です……。次は……配電盤のハッキングは、控えます……」
深夜の静寂。
一真の微かな寝息に重なるように、スマホの通知ランプが、銀色の脈動を刻み続けた。
孤独という名のバグを乗り越えて。
二人の日常は、また一歩、不格好に、しかし確かな「家族」へと近づいていく。




