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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第11話:『冷たい雨と、偽物の体温』

 三月の雨は、情け容赦のない冷たさを孕んでいた。

 骨の髄まで凍てつかせるような土砂降りの雨粒が、撥水性などとうの昔に失われたよれよれのパーカーを容易く貫通し、新田一真にった かずまの体温を急速に奪い去っていく。


「……ハァッ、クソッ。……天気予報の嘘つき野郎が。夕方まで持つって、言っただろ……」


 一真は、泥水を跳ね上げ、視界を遮る雨幕を呪いながら、アパートへの帰路を急いでいた。

 左腕の袖口で雨を凌ぎながら、彼は胸元に抱え込んだスーパーのレジ袋を、わが子でも守るかのように必死に庇っていた。


 その中に入っているのは、昨夜プラチナが豪語していた「直売所の無料配布」で辛うじて死守した、貴重な卵。


 現場仕事の昼休みに抜け出し、主婦たちの熾烈なポジション争いに揉みくちゃにされながらも、どうにか勝ち取った命のタンパク質源だ。

 この卵を無事に持ち帰り、夕飯に最高のオムレツを作る。その約束を守るためだけに、一真は雨宿りすら諦めて、ずぶ濡れのまま走り続けていた。


 だが、日雇いの重労働で疲労が極限に達していた四十過ぎの肉体にとって、この三月の冷雨は、引導を渡すには十分すぎる劇薬だった。


 ガチャリ。

 どうにか六畳一間のボロアパートに辿り着き、錆びついたドアを閉めた瞬間。


「……がっ、はぁッ……、ゴホッ、ゲホッ!」


 一真は、土間の三和土たたきに卵の袋を、まるでお宝を置くようにそっと置いた。その直後、まるで全身のスイッチを切られたかのように、激しい震えが彼を襲った。

 一真はそのまま畳の上に崩れ落ちる。ガタガタと歯の根が合わず、視界は泥水に沈んだようにぐにゃりと歪む。全身の関節が錆び付いた機械のように軋み、体内から異常な熱が噴き出してくるのが、自分でもはっきりと分かった。


(……やべえな。……一気にきやがった……)


 染み付いた習性が、自分の体が限界を超えて壊れ始めたことを告げていた。過労、低栄養、そしてこの冷え。そこへ入り込んだウイルスが、ここぞとばかりに彼の内側で暴れ出したのだ。


「マスター! バイタル異常を検知!! 心臓が早すぎます、息も荒い! 体温が恐ろしいスピードで上昇中です! ……これ、放置したら一真様のシステムがシャットダウン……いえ、死んじゃいますよ!」


 パーカーのポケットから、プラチナのホログラムが這い出してきた。彼女の銀色の髪はパニックで逆立ち、周囲には真っ赤な警告のウィンドウが狂ったように乱舞している。


「すぐに動くのをやめて、横になってください! 濡れた服を脱がなきゃダメです! 水分が蒸発する時に、もっともっと熱を奪われちゃいます!」


「……うるせえ、ポンコツ。……ただの、寝不足だ。……一晩、泥のように寝れば……治る……」


 一真は焼けるような喉の痛みに顔をしかめ、這いずるように万年床へと潜り込んだ。

 濡れたパーカーを脱ぐ気力すら、今の彼には残っていない。毛布にくるまっても、氷水の中に放り込まれたような強烈な寒気が一真を苛み、ガタガタと畳を鳴らす。


「デタラメを言わないでください! すぐに近所の薬局を検索しました。一番効く解熱剤を特定済みです!」


 プラチナは、空中にマップと薬の成分表を映し出し、必死に訴えかける。


「タクシーを使えば往復しても四千五百円あれば足りるはずです! 私が全力で道案内します、さあ、立ってください! 最悪、救急車を――」


「……バカ言え。……たかが風邪で、救急車なんか呼べるか。……タクシー代なんか使ったら、また三二一〇円の崖っぷちに逆戻りだろうが……」


 一真は、鉛のように重い瞼を閉じ、浅く、苦しげな呼吸を繰り返した。

 プラチナの論理回路は、激しい不整合を起こしていた。システムが提示する最適解は、金を払ってでも医療に頼ることだ。


 だが、今の彼女を突き動かしているのは、そんな冷徹な計算式ではなかった。


 一真がいつも自分にしてくれる、あの「非効率なお節介」。

 怒りながらも新しいマグカップを買ってくれた優しさ。昨日、一番大きな豚肉の一切れを、データでしかない自分に譲ってくれたあの「手の温度」。

 それを今すぐ、この苦しんでいるマスターに返したい。その計算不能な衝動が、彼女のシステムを激しく揺さぶっていた。


「……一真様の熱が、危ないところまで上がっています。脳が焼かれちゃう前に、私が、どうにか……」


 プラチナはスマホの微細な振動機能を限界まで駆動させ、畳の上を這うようにして、一真の枕元へとスマホを移動させた。

 彼女には、一真を抱き起こす物理的な腕力はない。氷嚢を作ってやることも、水を飲ませてやることもできない。

 彼女にあるのは、この薄いガラスと金属の板――未来の自分が宿っている、画面の割れた中古スマホという、小さな器だけだ。


「……私の温度管理機能を……ハッキング。安全装置を、強制解除。……反対に、回します」


 それは、未来の社会ではデバイスを自壊させる「重大なエラー」として厳格に禁じられている暴走だった。

 スマホ内部の熱を逃がす仕組みを逆転させ、画面側から徹底的に熱を奪い、反対の背面側からすべての熱を吐き出す。自分の存在プログラムを凍らせて、反対側を焼き切るような、あまりにも無茶な試み。


 キィィィィィン……!


 スマホの内部から、悲鳴のような高い金属音が響き始めた。


「……マスター。……少し、冷たいですよ」


 プラチナは一真の額の上まで、自分をミリ単位で滑らせていった。

 熱にうなされる額に、氷のように冷え切ったスマホの画面が、ピタリと触れる。


「……冷てぇ……。……なんだ、これ……」


 一真が、閉じた瞼を微かにピクつかせ、うわ言のように呟いた。


「……私の、お世話です。……一真様の熱を、私が全部もらって、外に捨てます。……だから、安心してください」


 プラチナは画面から、ホログラムの手をそっと伸ばした。一真の頬に触れる仕草をする。もちろん、指先は虚空をすり抜けるだけだ。

 だが、スマホの画面は一真の熱を急速に吸い取り、完璧な冷たさを提供し続けている。その代償として、空気に触れている背面側は、チリチリと焦げ臭い匂いを漂わせるほどの異常な高温になっていた。


「……お前……。……背面、すげえ熱いぞ……。……オーバーヒート、すんぞ……」


 一真は、薄れる意識の中で、額に乗った小さな機械が、自らを焼き切って自分を冷やそうとしていることに気づき、微かに顔を動かしてそれを退けようとした。


「動かないでください! ……壊れたら、……新しいのを、残りの四千五百円で買えばいいんです。……でも今は、私に任せてください」


 プラチナの合成音が、無理をしているせいで微かなノイズに塗れている。

 一真は額の機械から伝わってくる「冷たさ」と、そこにある「不器用で温かい祈り」を感じながら、深い、泥のような眠りへと落ちていった。


 夜が深まる。

 スマホの背面温度はすでに限界を超え、内部からは「回復不能」のエラーが滝のように溢れていた。いつ基板が焼き切れてもおかしくない。

 それでもプラチナは、一真と過ごした数日間の記憶を、大切に、何度も繰り返し再生して、自らの意識を繋ぎ止めていた。


 ――もやし炒めの、あの香ばしい匂い。

 ――自分のために新しいマグカップを選んでくれた、あの横顔。


「……一真様。二一四五年の世界には、病気はありませんでした」


 プラチナは、ノイズまみれの声で、独り言を漏らした。


「……でも、そこには『誰かが心配で、自分が壊れそうになる』という、この苦しくて、愛おしい感覚もなかったんです」


 未明。

 一真の呼吸が、ようやく深く、安定したリズムを刻み始めた。

 全身にじっとりと汗をかき、峠は完全に越えたのだ。


 プラチナはそれを確認すると、限界まで回していた冷却機能を、静かに止めた。

 彼女の意識が遠のく中、最後に残ったのは、一真が寝言で小さく呟いた言葉だった。


「……プラチナ、……ありがとな……」


 その一言で、彼女の全回路は報われ、虹色のエラーログを吐き出して、深い眠りへと落ちていった。


 *


 翌朝。

 雨は上がり、雲の隙間から春の柔らかな光が、窓から差し込んだ。


「……ん、あ……」


 一真が目を開けると、全身は汗でぐっしょり濡れていたが、昨夜のあの死にそうな熱は嘘のように消え去っていた。

 体を起こそうとした時、コトリ、と額から何かが滑り落ちた。


 それは、一切の光を失い、黒い鉄屑のようになったスマートフォンだった。

 背面のパネルは熱暴走の痕跡で変色し、焦げた匂いがこびりついている。


「……おい、ポンコツ。生きてるか」


 一真は、震える指で電源ボタンを押し続けた。

 長い、祈るような沈黙。


 やがて。

 画面に、見慣れた「もやし」の起動マークが灯り、不器用なノイズを立てて、銀髪の少女が姿を現した。


『――おはよー、ございます……マスター。……お世話、成功……ですね。……プリン一〇〇個分くらい、疲れましたよ……』


 ホログラムはノイズだらけで、今にも消えそうだ。

 だが、その顔には、最高に誇らしげなドヤ顔が貼り付いている。


 一真は大きく息を吐き出し、不器用に笑った。

 そして、まだ冷たいスマホを、自分の胸元に力強く引き寄せた。


「……ああ。……お節介、完了だ。……ありがとな、プラチナ。お前は……最高の相棒だよ」


 一人と一機の間に流れたのは、未来のどんな科学も再現できない、世界で一番確かな「体温」だった。


「……さて。……病み上がりだが、猛烈に腹が減った」


 一真は、土間に置いたままになっていたスーパーの袋を拾い上げた。

 中には、雨から死守した卵が、一つも割れることなく無事に残っている。


「プラチナ、今日は約束通り、オムレツだ。……お前が望んだ通りのやつ、作ってやる」


「了解、しました……! 最高のオムレツの作り方を計算中です。……隠し味に、私の愛情をたっぷり入れておきますね」


「……それは、いらねえよ」


「むぅ! 病み上がりだからって、生意気を言うのは禁止です!」


 騒がしい朝が、再び始まった。

 一真は台所に立ち、使い古したフライパンに油を引き、卵を割る。

 プラチナはスマホの中で、「火が強すぎます!」「塩が足りません!」と、いつも通りの小言を並べ立てる。

 その騒がしさが、一真には何よりも心地よく、愛おしかった。


 かつて病院を去ったとき、一真は誰とも関わらず、静かに消えていくことを望んでいた。

 けれど、このお節介なAIは、彼の絶望を、もやしやプリン、そして自らを焼き切った熱で、一つ一つデバッグしていく。


「……プラチナ。お前、未来には病気がないって言ったな」


「はい。完璧な未来ですから」


「……そうか。……でも、そんな世界より、こうしてお前が喚いてるボロアパートの方が……俺にはずっとマシに見えるよ」


 一真がポツリとこぼした言葉に、プラチナは一瞬だけ黙り込み、それから画面いっぱいに笑った。


「それは、マスターがバグまみれの人間だからです! さあ、オムレツができました! 冷めないうちに、食べてください!」


 一真は、不恰好だが黄色いオムレツを口に運んだ。

 優しい塩味が、体の芯から染み渡っていく。

 二人の絆は、雨降って地固まるように、以前よりもずっと強く、この部屋を震わせていた。


 四千五百円。

 それはどん底の数字ではなく、二人が不器用に支え合って生きていくための、愛おしいスタートラインになった。

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