第10話:『豚肉の咆哮と、四五〇〇円の経済復興』
「マスター、聞こえますか! 本日の日給九千円也、確かに受領いたしました。そして、そこから容赦なく一気に引き落とされた『家賃の更新料』、ならびに『滞納分の健康保険料』と『光熱費』を差し引きまして……」
夕暮れ時の六畳一間。
西日が斜めに差し込み、宙を舞う埃が黄金色のダンスを踊るボロアパートの空中で、ホログラムの少女がドラムロールの効果音を自らの口で奏でていた。
「ドゥルルルル……ジャンッ! 本日、二〇二六年五月一五日。すべての負債を精算した上での、現在の所持金の残高を音声出力します。……四、五、〇、〇円。……繰り返します。四千五百円です!」
スマホの画面から這い出したプラチナは、物理法則をあざ笑うように天井付近まで舞い上がり、銀色の長い髪をヘリのプロペラのように激しく振り回している。
その瞳には、一真の全財産を示す『¥4,500』のデジタル数字が、まるで人類を救済する聖杯のように神々しく投影されていた。
「マスター! これまで貯め込んでいた数万円の『余力』は社会のシステム(税金と家賃)に無慈悲に吸い上げられましたが、それでも! あの絶望の三二一〇円から、ついに前日比一四〇パーセントという驚異的な資産増を勝ち取りました! 奇跡です、もはや富裕層の仲間入りと言っても過言ではありません!」
「……浮かれるな、ポンコツ。声がでかい」
新田一真は、脂の染みたちゃぶ台の上に置かれた千円札四枚と五百円玉一枚を、祈るような、あるいは呪うような目で見つめながら低く唸った。
数万円の貯金ができたと思った途端、容赦なくやってくる請求書の束。
汗と泥にまみれて稼いだ金が、右から左へと消えていく。それが底辺の現実だ。
だが。
すべての支払いを終えてなお、手元に「三二一〇円以上の金」が残っている。その事実は、一週間前までその日暮らしの絶望を彷徨っていた男にとって、確かに国家予算にも匹敵する重みがあった。
「隣の壁の薄さを忘れたか。泥棒に入られたら、俺は今度こそ三途の川の渡し賃すら払えなくなるだろ。……ファンファーレも止めろ。スマホのバッテリーが無駄に減る」
「むぅ! 心配性ですね。私の最新鋭セキュリティ・スキャンによれば、隣の住人は現在テレビのクイズ番組に全神経を集中させており、こちらの経済的躍進を察知する確率は〇・〇〇三パーセント以下です」
プラチナは不満げにホログラムの頬を膨らませ、不格好な着地で一真の肩のあたりまで降りてきた。
「それよりもマスター、この莫大な余剰資金一二九〇円の運用について、私の演算リソースを全開放して戦略を立案しました。まずは高効率な総合ビタミン剤の定期購入、次に――」
「却下だ。そんなもん、一円も出さねえよ」
一真は、よれよれの安物の財布に千円札を一枚ずつ、シワを伸ばすように慎重に押し込んだ。
「夢がありませんね! ならば、私の代替案を聞いてください。この余裕分を『食のリソース』に十五パーセント投資することで、一真様の明日への労働意欲、すなわち脳内セロトニン分泌量を最大化させるべきです。……平たく言えば、もっと人間らしいものを食べましょう、マスター!」
プラチナの言葉に、一真の動きが止まった。
ここ数日、炭水化物と安い野菜(もやしと玉ねぎ)ばかりだった胃袋が、その言葉に反応してキュルリと情けない音を立てる。
一真は、棚から一着しかないよれよれのパーカーを羽織り、短く答えた。
「……行くぞ。今日は『ご馳走』だ」
*
向かったのは、アパートから徒歩十分。一真が「生存戦略の最前線」と呼ぶ駅前スーパー『生鮮の王国』だった。
自動ドアを抜けた瞬間、冷房の効いた店内の匂い――惣菜の油、鮮魚の生臭さ、そして特売品を求める人々の熱気が、一真の顔を打つ。
『マスター、店内スキャン完了』
パーカーの胸ポケットに入れたスマホから、イヤホン越しにプラチナの合成音が響く。一真の視界の端に、彼女が直接リンクさせてきた薄青い「AR(拡張現実)ディスプレイ」が展開された。
『野菜コーナーには目立った特売はありません。もやしは安定の十九円をキープしています。……しかし、見てください。精肉コーナーの奥、四時の方角に不穏な熱源(動き)を確認しました』
プラチナの言う通りだった。
一真の眼光が、鋭く研ぎ澄まされる。
それはかつて、ICUで患者のわずかな瞳孔の変化や、モニターの波形の揺らぎを決して見逃さなかった、あの鋭利な「看護師の眼」。
棚の配置、客の密度、店員の不審な挙動、そして周囲の主婦たちの足の重心。
そのすべてを情報として瞬時に処理する。
「……ああ。見えてる。敵軍の増援だ」
精肉コーナーの隅。
白い割烹着を着たベテラン店員が、黄色い「半額」の魔力が込められたラベルガンを手に、ゆっくりと豚肉コーナーの前に現れた。
その瞬間、棚の周囲を意味もなく旋回していた数人の「ハイエナ(買い物客)」たちの間に、言葉のない火花が散った。
誰もが目的の獲物を狙い、買い物カゴを盾にするようにしてジリジリと距離を詰める。一円の差が、一日の幸福度を決定づける過酷な戦場。
『マスター、レーダー感知! 店員の右腕の二頭筋に緊張を確認。ラベル照射まで、三、二、一……ロックオン! 現在、最適な奪取ルートを算出――』
一真の視界に、プラチナが計算した【緑色の推奨ルート】が眩しく表示される。
床を這い、斜め四十五度の角度から腕を伸ばすという、人間工学を完全に無視したアクロバティックな軌道だった。
「邪魔だポンコツ、見えねえよ!」
『ひゃっ!? な、なぜ私の完璧な演算を無視するのですか!』
未来の超技術で作られた完璧な戦術AIは、現代を生きる「ベテラン主婦」の予測不能なショルダータックルを計算に入れていなかった。
一真はプラチナの緑色のガイドラインを完全に無視し、右から強引に割り込んできた中年女性の「重心が左足に偏った瞬間の死角」を突いて、コンマ数秒のタイミングで腕を滑り込ませた。
バシンッ!
ラベルガンが「半額」のシールを叩きつけた、その〇・五秒後。
一真の指先は、誰よりも早く、そして正確に「豚こま切れ肉(二百グラム)」のパックを掴み取っていた。
ラップ越しに伝わる、冷たい肉の感触。
勝利の瞬間だった。
一真のカゴの中には、いつもの十九円のもやし。
だが、その隣には今、神々しくピンク色の輝きを放つ「生命の源(生肉)」が鎮座している。
自分の削った命と時間が、直接的に「生」の質へと変換された証。
一真は誰にも気づかれないよう、小さく息を吐き出した。
*
アパートに戻るなり、一真は聖別された儀式のように、使い古したテフロン剥げまくりのフライパンをコンロに乗せた。
油まみれの換気扇がガタガタと悲鳴のような音を立てて回り出す。
プラチナは、その振動さえも心地よいリズムであるかのように、スマホのカメラレンズ越しに調理場を凝視していた。
「……っ、マスター。何ですか、この現象は。まだ加熱もしていないのに、私の嗅覚センサー(仮想)が過負荷を起こしそうです。これほどまでに濃密な動物性タンパク質の情報……これが、『贅沢』の第一フェーズですか……」
「……これからだ。黙って学習してろ。未来にこれ以上の旨いもんなんてねえだろ」
熱せられたフライパンに、パックから豚肉を投入する。
――ジュゥゥゥゥッ!!
心臓の鼓動を早めるような咆哮が、狭いキッチンに響き渡った。
豚の脂が熱で溶け出し、鉄板の上で暴力的な白煙を上げる。肉の色が鮮やかな赤から、信頼の置ける白へ、そして食欲を狂わせる茶褐色へとみるみる変色していく。
「あわわわっ! マスター、視覚情報がオーバーフローしています! このメイラード反応……糖とアミノ酸が結合し、千種類以上の芳香成分を放出するこのプロセス……! 私の論理回路が、未定義の『幸せの波形』で埋め尽くされますぅ!」
一真は、豚の脂が十分に染み出したそこへ、主役であるもやしを一気にぶち開けた。
シャキッ! という瑞々しい音と共に、もやしが肉の旨味を全身に纏い、透明感のある輝きを増していく。
味付けは、百均で買った塩コショウ。
そして仕上げに、冷蔵庫の奥に眠っていた数滴の醤油を一回し。
ジュワッ、という音と共に立ち上る香ばしい焦がし醤油の湯気が、一真の鼻腔を容赦なく殴りつけ、喉の奥をゴクリと鳴らさせた。
「……ただの肉だ。だがな、プラチナ。これが入るだけで、もやしは『生存のためのエサ』から、明日を生きるための『料理』に変わるんだよ」
皿に盛り付けられたのは、見慣れたはずの山盛りのもやし炒め。
しかし、その山肌には、誇らしげに豚肉が点在している。一真は、小さなちゃぶ台の上に二つの皿を並べた。
一つは自分用の、欠けた丸皿。
もう一つは、プラチナのスマホが置かれた前の、醤油用の小さな小皿。
一真は、箸で自分用の皿から、最も大きく、適度に脂の乗った「肉の王様」を掴み取った。
そして、それを躊躇なくプラチナの前の小皿へと置いた。
「……ほら。今日はお前も、よくサーチした。ご苦労さんだ。……一番いいところをやる。食え。いや、同期して脳に刻め」
プラチナは、絶句した。
彼女のホログラムが、スマホからひょいと顔を出し、その肉の塊を凝視する。
一秒、二秒。彼女の瞳の中で、リソース分配の再計算が高速で行われる。
「……マスター、計算が合いません。論理的なエラーを報告します。一真様の現在の体重、および明日の予想運動量を考えれば、この最大のタンパク質源は、稼ぎ手である一真様自身が摂取すべきです。私への同期データは、その十分の一の破片で十分。……この分配は、合理的ではありません! カロリーの無駄遣いです!」
「うるせえ。……俺が『そうしたい』って言ってんだ」
一真は割り箸を割りながら、自嘲気味に笑った。
「……お節介の病なんだよ、俺のは。二十年も患者の顔色を窺って生きてきた副作用だ。他人に一番いいもんを譲らねえと、どうにも落ち着かねえんだ。今さら治らねえんだよ」
一真は、プラチナの抗議を無視し、自分の皿に残ったもやしを口に運んだ。
――美味い。
豚肉の旨味をたっぷりと吸い込んだもやし。
肉の脂がコーティングされたその繊維は、昨日まで食っていた「ただの塩味の草」とは別次元の存在だった。
咀嚼するたびに、口の中にジャンクで強烈な旨味が弾け、泥にまみれた一日の疲れが、胃の奥から熱となって溶けていく。
「…………了解、しました。マスターの『不治の病』には、二十一世紀の医学も、未来のナノマシンも、匙を投げるしかありませんね。私も、バグとして受け入れます」
プラチナは、最高の笑顔を浮かべた。
彼女はホログラムの手で、仮想のフォークを作り出した。そして、一真が贈った肉の塊に、そっと触れる。
同期。
一真の脳内に、プラチナのセンサーを通じて、爆発的な「幸福」という名のデータが逆流してきた。
それは、ただの味覚を超えた、魂の共有。
「……おいしいです。マスター。……もやしの繊維のシャキシャキ感と、豚肉の野蛮な旨味。……これが、一人ではなく『二人で囲む食卓』の解像度なのですね。私の記録装置、最大容量でこの一分一秒を永久保存しました」
食事が終わる頃、六畳一間は肉を焼いた匂いで満たされていた。
一真は、水道水を注いだマグカップをあおり、背もたれのない座椅子に深く身を預けた。
所持金は、四千五百円。
未来の完全管理社会から見れば、それは単なる計算ミスや誤差として処理されるような、あまりにちっぽけな数字だ。
だが、安アパートの薄暗い電球の下で、豚肉の脂に唇を光らせ、笑い合う二人にとっては。
その千円と少しの金こそが、不条理な世界に対する最大の反逆であり、明日もまた泥臭く生きてやろうと思わせる、最高のエネルギーだった。
「……マスター、明日の朝食も期待していいですか? ベーコンとか、あるいはソーセージとか、動物性タンパク質の『二連撃』なんて……」
「……調子に乗るな。明日はまた、もやしのみだ。贅沢は一日一回。それがこの部屋の法だ」
「えぇー!? 冷酷です! 独裁者です! 非効率です! マスターの脳波に直接デバッグしてやりますぅ!」
プラチナがスマホの中でじたばたと暴れ、バイブレーションが「ジジジ」とテーブルの上で空しく鳴り響く。
一真は、それを心地よいBGMのように聞きながら、ゆっくりと重い瞼を閉じた。
かつて救命の現場にいた頃、食事はただの「燃料補給」だった。
立ち食いの蕎麦を三分で流し込み、冷え切ったコンビニのパンを、味も分からぬまま胃に叩き込む。それが効率的であり、一秒でも早く現場に戻るための正解だと信じていた。
だが、今、この狭いアパートに漂う、安っぽい醤油と肉の脂が混ざり合った匂いは、その「正解」を嘲笑うように温かかった。
「……マスター。先ほどから一真様のセロトニン波形が、異常なほど凪いでいます。この豚肉という物質、あるいは『肉を焼く』というプロセスには、私のデータ庫にない強力な向精神作用が含まれているようです。……まさか、これが二一世紀の『魔法』なのですか?」
「……魔法じゃねえよ。……『生きてる』って実感が、腹から脳に伝わってるだけだ」
一真は、空になったフライパンを眺めながら、不意に、自分の手が汚れていることに気づいた。
現場の泥ではない。油のベタつき。誰かのためにフライパンを振り、肉を焼き、そしてそれを不器用に分け合った証拠。
「……プラチナ。お前、さっき『二人で囲む食卓』って言ったな」
「はい。私の音声解析データによれば、この六畳一間の環境音には、一真様の咀嚼音と、私のファンモーターの回転音、そして……何というか、……数式では説明できない『和音』が生まれています。一人の時には決して観測されなかった、非論理的で、美しいノイズです」
プラチナのホログラムが、一真の視界の端で、小さく、しかし誇らしげに胸を張る。
「……そうか。……なら、そのノイズを消さないようにしねえとな」
一真は立ち上がり、洗い場へと向かった。
蛇口から流れる冷たい水が、使い古されたフライパンの熱を急速に奪っていく。
ジュゥ、という音が、先ほどの調理の余韻を惜しむように響いた。
「マスター。本日、リソースの追加投入により、新田家の総資産は一時的に減少しましたが、幸福度指数は推定四〇〇パーセント向上しました。……結論。この豚肉のアップグレードは、バグではなく、極めて正当な『システムの進化』であったと承認します」
「……堅苦しいんだよ、お前は。……美味かった、でいいだろ」
「……はい。……とっても、おいしかったです、一真様」
プラチナの声が、いつもの合成音よりも少しだけ、湿度を持って響いた気がした。
一真は、窓の外を見た。遠くで街の明かりが瞬いている。
三二一〇円という数字に怯え、世界から切り捨てられたと感じていた夜とは、明らかに空気が違っていた。
ポケットの中のスマホが、一真の体温を吸い込み、心地よい重みを持ってそこにある。
「……さあ、明日の段取りを組むぞ。豚肉パワーで、明日はもっと重い資材も運べるはずだ」
「了解です! ……あ、マスター。現場の近くに、賞味期限間近の卵を無料配布している直売所があるとのゲリラ情報をキャッチしました。明日のミッションは『オムレツの導入』で決まりですね!」
「……だから、調子に乗るなって……。……まあ、アセスメント(下調べ)だけはしといてやるよ」
二人の会話が、夜の帳に溶けていく。
三二一〇円の崖っぷち。
そこはもう、ただの絶壁ではない。
二人が明日を掴み取るための、確かな足場になっていた。




