第八話:詩の隠し文字
王 麗華から事の全貌を聞いた皇帝・暁 飛燕の反応は、雪蘭の予想通りだった。
彼は、玉座の上で恐怖も怒りも一切見せなかった。
ただ、その美しい唇に、恍惚とした笑みを浮かべただけだ。
「素晴らしい」
玉座から立ち上がった飛燕は、まるで最高の戯曲を見つけた劇作家のように、上機嫌で言った。
「朕としたことが、見誤っておった。
ただの子鼠の、つまらぬ窃盗事件かと思えば、その裏で虎が牙を研いでおったとはな。
良い。実に、良い。退屈せずに済みそうだ」
窃盗を働いた宦官と侍女はすぐに捕らえられ、処罰された。
だが、そんなことは、もはや飛燕にとってどうでもいい些事に過ぎない。
彼の興味は、その背後に潜む巨大な暗殺計画の首謀者、ただ一人に注がれていた。
「麗華、そして雪蘭。新たな勅命だ」
飛燕は二人に向き直ると、遊戯の始まりを高らかに宣言した。
「その、遅効性の毒を買い集めている黒幕を突き止めよ。
誰が、誰を、殺そうとしているのか。全てを白日の下に晒し出すのだ」
言うまでもなく、それは、あまりに無茶な命令だった。
被害者も犯人も、いまだ不明。
手がかりはただ、「自然死に見せかける毒」が準備されている、という事実だけ。
「陛下」
麗華が困惑したように口を開く。
「しかし、これだけでは、調査のしようが……」
「だからこそ、面白いのであろう?」
飛燕は悪びれもせず、そう言ってのけた。
そしてこの国の巨大な権力構造について、まるで子供に物語を語り聞かせるように説明を始めた。
曰く、今の宮廷は、大きく二つの派閥に分かれている。
一つは、帝国の全権をその手に収めようとする、野心的な宰相が率いる新興の派閥。
そしてもう一つは、若き皇帝の後見人として旧来の権威を守ろうとする、飛燕自身の母、皇太后が率いる保守的な派閥。
「十中八九、どちらかの仕業であろうな。
だが、証拠がない」
飛燕はそこで、わざとらしく雪蘭の顔をじっと見つめた。
「……不可能、です」
雪蘭は即座に、しかしか細い声で拒絶した。
これ以上、宮廷の権力争いという底なしの泥沼に、足を踏み入れたくはない。
「被害者もいない事件の犯人を当てるなど、それは神仙の業です」
その答えを聞いて、飛燕は待ってましたとばかりに唇を吊り上げた。
「ほう?
だが、朕は伝え聞いているぞ」
彼は、ゆっくりと雪蘭に歩み寄り、その耳元で囁いた。
「十年ほど昔、この大陸には、神仙のような軍師がいた、とな。
その名を、『月影』。
彼女は、川の流れを読み、商人たちの噂話を聞くだけで、数週間先の敵軍の動きを、完璧に予測したという。
朕の、優秀な『相談役』殿に、これしきの謎が、解けぬはずはあるまい?」
『月影』。
その名を聞いた瞬間、雪蘭の身体からすっと血の気が引いた。
自分がこの世で最も捨て去りたいと願っている、過去の亡霊。
その名を、よりにもよってこの男の口から聞くことになろうとは。
皮肉にも、ほどがある。
雪蘭は顔を伏せ、固く拳を握りしめた。
(……この男を黙らせて、一刻も早く、昼寝に戻るには)
(……やるしかない、か)
「……善処、いたします」
雪蘭がそう答えるのが、精一杯だった。
◆◇◆
書庫室に戻った雪蘭は、寝椅子にどさりと身体を投げ出した。
「雪蘭!
善処する、と言ったからには、何か策があるのだろう!?」
麗華が焦れたように、雪蘭の周りを歩き回る。
帳簿だの、宮廷の名簿だの、ありとあらゆる資料を机の上に広げている。
だが、雪蘭は、それらに一瞥もくれなかった。
目を閉じたまま、まるで寝言のように、ぽつりぽつりと呟き始めた。
それは、かつて彼女が戦場で幾度となく行ってきた、思考の演習だった。
「……宰相は野心家だ。力が欲しい。皇太后を殺せば、最大の障害が消える。
だが、それは皇帝を不倶戴天の敵に回すということでもある。危険が大きすぎる。彼のやり方ではないな」
「……皇太后は保守的。安定を望んでいる。宰相を殺せば、宮廷は大混乱に陥る。自らの目的と矛盾する。合理的ではない」
麗華は呆気に取られて、雪蘭の独り言に耳を傾けていた。
まるで、伝説の軍師が盤上の駒を一つ一つ動かしていくように。
「……故に、標的は、そのどちらでもない」
雪蘭の声のトーンが、少しだけ変わった。
「毒は、自然死を装う。
それは、誰が死んでもおかしくない、と思われている人物を消すためのもの。
そして、その死によって片方の派閥に、大きな利益が転がり込むように仕組まれている」
雪蘭は、ゆっくりと瞼を開いた。
その瞳には、もはや眠気の色はない。
軍師『月影』の、怜悧な光が宿っていた。
「……麗華。考えてみろ。
宮廷で、誰からも尊敬され、高齢で、表向きは中立。
だが、その心根は皇太后の一派に近い。
そしてその者が、もし今、『老衰で』死んだとしたら……」
「彼の死を嘆いた、その強大な一族郎党や門下生たちは、皇太后の力が衰えたのだと判断し、雪崩を打って、宰相の側につくだろう。
そんな人物が、一人だけ、いるはずだ」
そこまで聞いて、麗華の顔からさっと血の気が引いた。
その条件に、完璧に合致する人物。
病のため一線を退いてはいるが、今なお宮廷に絶大な影響力を持つ、皇帝の師傅。
「……大傅様……!」
まだ起きてもいない事件の被害者を、雪蘭はただ純粋な論理の積み重ねだけで特定してしまったのだ。
麗華はその恐るべき知性に戦慄し、すぐに飛燕の元へ報告に走った。
一人、書庫室に残された雪蘭は、再び寝椅子に深く身体を沈めた。
(……終わった。これで、また、昼寝ができる)
だが、その瞼の裏に浮かんでくるのは、心地よい眠りではない。
兵法。策略。謀略。
かつて国を動かし、人を殺め、そして全てを失った、あの忌まわしい思考。
『月影』の亡霊が、すぐ背後まで迫ってきている。
雪蘭は、望まぬままに、その気配を確かに感じていた。




