第四話:墨香は謀を隠す
皇帝・暁 飛燕から賜った「三日間の昼寝し放題権」。
それは、後宮における絶対的な権利であった。
李 雪蘭は、その権利を最大限に行使すべく、この二年間で培った後宮内の地理知識を総動員し、完璧な昼寝スポットを探し当てていた。
後宮の北西の端にある、今はもう使われていない天文台。
その屋根裏部屋だ。
埃っぽくはあるが、天窓から差し込む陽光は柔らかく、心地よい風が吹き抜ける。
そして何より、誰も来ない。
雪蘭は、至福の三日間を、文字通り、ほとんど寝て過ごした。
後宮では「幽霊騒ぎを解決した、謎の女官」として、自分の噂がまことしやかに囁かれていることなど、露知らず。
昼寝権最終日の午後。
雪蘭が最後の惰眠を貪っていると、階下から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「どういうことだ、説明しろ!」
「いえ、私どもは決して…!」
聞き覚えのある、凛とした声。
王 麗華だ。
彼女が、宦官たちに何かを厳しく問い詰めているらしい。
(……面倒だ)
昼寝の邪魔をされたことに、雪蘭は眉をひそめる。
しかし、騒ぎは収まる気配がない。
これでは、安眠できない。
雪蘭は、渋々、埃っぽい梁の上から、階下の様子を窺った。
「陛下に献上されるはずだった、世にも珍しい『白孔雀』が、昨夜、忽然と姿を消した!
厳重な警備を敷いていたにもかかわらず、だ!
これは、どういうことかと聞いている!」
麗華の怒声が、天文台に響き渡る。
どうやら、また事件らしい。
それも、皇帝の献上品が絡む、厄介な事件だ。
(……私の昼寝権が終わるのを、見計らったかのように…)
雪蘭の脳裏に、あの腹黒い皇帝の楽しそうな顔が浮かんだ。
間違いなく、これも、あの男が仕組んだ新たな「遊戯」なのだ。
◆◇◆
案の定、天文台から降りてきた雪蘭は、待ち構えていた麗華に腕を掴まれた。
「李 雪蘭!
ちょうど良いところに!
陛下は、この件も、貴様に任せると仰せだ!」
(……だろうと思った)
雪蘭は、心の内で深くて長いため息をついた。
「夜伽役」という伝家の宝刀をちらつかされては、下級女官である自分に拒否権はない。
雪蘭は、麗華に伴われ、問題の白孔雀がいたという豪華絢爛な鳥小屋へと向かった。
そこでは、後宮の管理責任者である宦官長と、鳥の飼育を担当していた部署の役人が、互いに罪をなすりつけ合い、醜い責任逃れの応酬を繰り広げていた。
雪蘭は、その騒ぎを完全に無視し、鳥小屋の調査を始めた。
小屋の扉や金網に、破られた痕跡はない。
鍵も、こじ開けられた様子はなかった。
(……警備が厳重なのは本当らしい。
ならば、犯人はどうやって孔雀を外へ連れ出した?)
雪蘭は、小屋の隅に、きらりと光る小さなものを見つけた。
拾い上げてみると、それは見慣れない鳥の羽根だった。
孔雀の羽根ではない。
もっと小さく、猛禽類のものに似ている。
そして、羽根のそばには、これもまた後宮の庭では見かけない、外来種の植物の種子が数粒落ちていた。
「おい、李 雪蘭!
何かわかったのか!」
麗華が、焦れたように声をかける。
雪蘭は、何も答えず、今度は鳥の飼育係たちが詰めている休憩所へと向かった。
そして、部屋の隅の椅子に腰かけると、またもや、こくりこくりとうたた寝を始めた。
「き、貴様!
また昼寝か!」
麗華が怒鳴るが、雪蘭は聞こえないふりをして、耳だけを飼育係たちの会話へと傾ける。
これが、一番効率の良い聞き込みなのだ。
「しかし、どうやって盗まれたんだろうな」
「そういえば、昨日の夜、変な鳥の鳴き声が聞こえなかったか?」
「ああ、聞いた聞いた!
孔雀みてえな、甲高い声だったが、少し調子が外れてたような…」
(……やはり、そうか)
全てのピースが、はまった。
雪蘭は、ゆっくりと目を開けると、麗華に向かって、ぼそりと言った。
「……終わりました。報告に行きます」
「はあ!?
何が、終わったというのだ!」
わけがわからず目を白黒させる麗華を後に、雪蘭は一人、皇帝の元へと歩き出した。
◆◇◆
「──犯人は、人間ではありません」
麒麟堂で、雪蘭は飛燕に向かって淡々と報告を始めた。
「白孔雀を連れ去ったのは、夜間にのみ活動する、極めて珍しい肉食の渡り鳥です。
その鳥は、大陸の西から、今の時期だけこの国の上空を通過します」
雪蘭は、鳥小屋から拾った羽根と種子を、飛燕の前に差し出した。
「この羽根が、その証拠。
そして、この種子は、その渡り鳥の好物で、奴らの身体にくっついて運ばれてくるものです」
「……鳥が、孔雀をか」
飛燕が、面白そうに眉を上げる。
「しかし、どうやって、あの厳重な鳥小屋から?」
「その渡り鳥は、特技を持っています。
他の鳥の鳴き真似が非常にうまいのです。
おそらく、孔雀の鳴き声を真似て、仲間だと思わせ、油断したところを上空から襲ったのでしょう」
雪蘭は、そこで一度、言葉を切った。
「鳥小屋の扉は、孔雀が中から特定の場所をつつくことで内側から開く特殊な仕掛けになっておりました。
白孔雀自身が仲間だと思い込み、中から犯人を招き入れてしまったのです」
つまり、犯人は一度も鳥小屋に触れることなく、獲物を連れ去っていった、というわけだ。
あまりに予想外の結末に、飛燕は最初きょとんとしていたが、やがて肩を震わせ、腹を抱えて笑い出した。
「は、ははは!
面白い!
実に面白い!
鳥が鳥を騙して喰った、と申すか!
あははは!
醜い責任のなすりつけ合いをしていた、あの愚かな宦官たちの顔が、実に、見ものだな!」
ひとしきり笑った後、飛燕はすっと真顔に戻ると、満足げに雪蘭を見つめた。
「見事だ、雪蘭。褒美をやろう」
宦官が盆に乗せて持ってきたのは、一冊の古びた書物だった。
「それは、我が国の書庫にも一冊しかない貴重なものだ。
滅びた『月』の国の地理と産物について、詳細に記されている」
その言葉を聞いた瞬間、雪蘭の、いつもは無表情な顔から、すっと色が消えた。
能面のように、一切の感情が抜け落ちた。
しかし、その瞳の奥では、激しい嵐が吹き荒れている。
(……なぜ、今、『月』の国の書物を…)
(……この男は、どこまで、知っている…?)
飛燕は、雪蘭のその僅かな、しかし確実な変化を、見逃さなかった。
彼の唇が、愉悦に、ゆっくりと吊り上がっていく。
(そうだ。もっと、その面白い顔を、朕に見せてみろ、昼寝猫)
二人の間に、目には見えない火花が散る。
龍と猫の、静かで、そしてどこまでも残酷な心理戦は、今、新たな舞台へと、静かに幕を上げたのだった。




