第三話:宮中の影と風
皇帝・暁 飛燕から、直々に「後宮の幽霊退治」を命じられた、李 雪蘭。
普通ならば、それは一介の女官にとって、身に余る光栄であり、一族郎党にまで自慢できる誉れであろう。
しかし、雪蘭にとっては、ただひたすらに面倒で、厄介で、睡眠を妨げる呪いのようなものでしかなかった。
「……まあ、いいか」
勅命を受けた翌日。
雪蘭は、いつも通り、後宮の女官たちが忙しく立ち働く喧騒を抜け出し、お気に入りの昼寝スポットである書庫へと向かっていた。
「三日の猶予があるのなら、二日は寝て過ごし、最後の一日で終わらせれば、最も効率が良い」
それが、かつて千の軍勢を動かした天才軍師の、今現在の全力の思考であった。
同僚の女官たちが「まあ、雪蘭様!」「陛下から直々にご指名ですって?」と、嫉妬と好奇心の入り混じった視線を向けてくるが、雪蘭は(……私の昼寝時間を、これ以上削らないでほしい)と心の中で呟きながら、会釈だけでその場をやり過ごす。
書庫の奥、幽霊が出ると噂の庭園がよく見える窓辺。
そこが、今日の雪蘭の執務室兼寝室だった。
埃っぽい匂いと、古い紙の匂い。
時折、ページをめくる音だけが聞こえるこの静寂こそが、彼女にとっての至上の贅沢なのだ。
雪蘭は、窓に背を預けて座り込むと、目を閉じた。
しかし、その耳は、女官たちが交わす噂話を決して聞き逃しはしない。
これが、彼女流の最も効率的な情報収集術だ。
「幽霊は、白い衣をひらめかせているとか……」
「髪の長い女が、夜な夜な庭の池の周りを彷徨って、しくしくとすすり泣いているらしいわよ」
「きっと、昔、帝の寵愛を失って、あの池に身を投げた春麗妃の霊だわ…」
「いいえ、新参の女官を妬んだ誰かが呪いをかけたのだという話も……」
(……ありえん)
雪蘭は、次々と飛び出す非科学的な憶測の数々に、心の中でいちいち冷静なツッコミを入れていた。
幽霊だの呪いだの、そんな非合理的なものがこの世に存在するはずがない。
全ての事象には、必ず原因と結果がある。
(……まあ、どうでもいいか。眠い……)
思考が、心地よい眠りの海に溶けていこうとした、その時だった。
「――李 雪蘭ッ!」
鼓膜を劈くような、凛とした声。
そして、ずかずかという一切の遠慮のない足音。
雪蘭が億劫そうに目を開けると、そこには一人の女性武官が仁王立ちになってこちらを睨みつけていた。
皇帝護衛官の一人、王 麗華。
漆黒の髪をきつく結い上げ、贅肉の一切ない引き締まった身体を武官の装束に包んだ怜悧な美女。
彼女は、不正や怠慢を己の命よりも憎む、生真面目な性格の持ち主であった。
「貴様、陛下より直々の勅命を受けた身でありながら、書庫での昼寝とは一体どういう了見だ!」
(……うわ、一番面倒なタイプが来た)
雪蘭は、内心で深いため息をつきながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……情報、収集中です」
「情報収集だと? 寝言は寝て言え! 貴様の怠慢は、陛下の耳にも入っておる! 私が貴様の監視役を命じられた! 光栄に思うがいい!」
どうやら、あの腹黒い皇帝が、自分がサボることを見越して、お目付け役を送り込んできたらしい。
(……いよいよ、本気で面倒になってきた)
雪蘭の、ささやかな平穏は完全に終わりを告げた。
◆◇◆
その日の夜。
雪蘭は、麗華に腕ずくで引きずられるように、問題の庭園へとしぶしぶ調査に向かうことになった。
月明かりだけが頼りの庭園は、昼間とは打って変わって、不気味な静けさに包まれている。
「……」
麗華は、極度の緊張で腰に差した刀の柄に手をかけている。
一方の雪蘭は、ふぁあ、と大きな欠伸を漏らした。
「貴様、少しは緊張感を持て!」
「……持っています。これ以上ないくらい、眠いので」
雪蘭は、歩きながら、その軍師の目で、無意識に、しかし正確に現場の情報を分析していく。
(……地面が、池の周りだけ不自然に湿っている。昨日は晴れていたはずだ)
(……踏み潰されている草の種類が一種類だけ。特定の場所に、誰かが長時間留まっていた証拠)
(……風の通り道。あの岩の隙間を北風が抜ける時に、笛のような音が出るな…)
ひゅ~、と草木の隙間から不気味な音が響いた。
「誰だ!」
麗華が、電光石火の速さで音のした方向へ剣先を向ける。
しかし、雪蘭はその腕を、ぽん、と軽く叩いた。
「……落ち着いてください。ただの風切り音です。あの岩の隙間を、今、北風が通り抜けただけですから」
その冷静すぎる指摘に、麗華は「む……」とばつの悪そうな顔で剣を収めた。
◆◇◆
約束の三日目。
雪蘭は、麗華を伴って、後宮の一角にある楽器の管理や練習を行う『楽府』という建物を訪れた。
そして、中から出てきた、まだ年若い一人の女官を呼び止めた。
「少し、よろしいか」
「は、はい! なんでしょうか、雪蘭様!」
なぜか、自分の名が下級女官たちの間にまで知れ渡っている。
面倒なことだ、と雪蘭は思いながら、目の前の女官の指先にちらりと視線を向けた。
そこには、弦楽器を弾く者特有の、小さなタコができていた。
雪蘭は、確信を持って静かに告げた。
「夜、一人で琵琶の練習をするのは感心だが……あまり度が過ぎると、体に障るぞ」
その一言に、女官はさあっと顔を青ざめさせた。
彼女こそが、〝幽霊〟の正体だったのである。
すべては、単純なことだった。
亡くなった姉が好きだった琵琶の曲を、誰にも邪魔されず練習したかった彼女は、夜な夜な庭の池のほとりで一人、練習に励んでいた。
姉は、かつてこの後宮の女官だったが、寵愛争いに敗れ、故郷へ帰されたのだという。
練習が他の者に見つからないよう、顔をすっぽりと隠す白い頭巾を被っていたのが、月明かりの下で白い衣の幽霊のように見えた。
そして、彼女が奏でる悲しげな琵琶の音色が、すすり泣きの声と聞き間違えられた。
それだけのこと。
雪蘭は、地面に残っていた琵琶の撥を置いた小さな跡や、風切り音と琵琶の音色の違い、そして何より、この女官の部屋の前を通りかかった時に微かに聞こえた練習の音色から、全ての真相にたどり着いていたのだ。
事件は、解決した。
女官は、事情を聴いた麗華の特別な計らいで、夜間の練習を正式に許可されることになった。
麗華は、雪蘭の隣で、ただただ舌を巻いていた。
何一つ、力技を使うことなく、ただ観察と思考だけで、噂の真相を完璧に解き明かしてしまった。
「……貴様、一体、何者なのだ……」
初めて、彼女の目に雪蘭に対する畏敬の念が宿った。
雪蘭は、その足で飛燕の元へ報告に向かった。
「ほう、見事だ。褒美をやろう」
飛燕は、満足げに頷くと、こう言った。
「特別に、『三日間の昼寝し放題権』を与える。その間、誰もお前の睡眠を妨げることはないだろう」
その言葉に、雪蘭は心の底から歓喜した。
(……それが、一番嬉しい……!)
雪蘭は、一礼するのももどかしく踵を返すと、一目散に、お気に入りの書庫の窓辺へと向かった。
しかし、彼女は気づかなかった。
自分の後ろ姿に突き刺さる、皇帝の愉悦に満ちた視線と、その呟きを。
「やはり、面白い。実に、面白い玩具だ。さて、次は何をさせて遊ぼうか……」
雪蘭の、静かで平穏な昼寝を取り戻すための戦いは、まだ始まったばかりである。




