第一話:白猫、書庫に眠る
墨華宮の朝は、いつだって煌びやかで、騒がしい。
皇帝の寵愛を競う妃たちの、衣擦れの音。
侍女たちが交わす、密やかな噂話。
美しく磨き上げられた瑠璃瓦に朝日が反射して、目を開けているのも億劫になる。
(……あー、面倒だ)
李 雪蘭は、後宮の片隅、古い渡り廊下の縁に座り、壁に背を預けて小さく息を吐いた。
彼女にとって、きらびやかな衣装も、豪奢な宝玉も、女たちの野心も、全ては昼寝の妨げになるだけの邪魔なものでしかない。
彼女が価値を見出すのは、この古い木の床に座った時の、じんわりと背中に伝わる陽光の温かさと、頬を撫でる風の心地よさだけだ。
「あら、またあんな所で。本当に、幽霊みたいねぇ」
「昼寝猫、ですって。気味が悪いわ」
通りすがりの女官たちが、くすくすと嘲笑う声が聞こえる。
だが、雪蘭は気にも留めない。
むしろ、気味悪がられて、誰も近づいてこないこの状況は、彼女にとって好都合ですらあった。
後宮に入って早二年。
彼女は、その卓越した気配の消し方と、完璧な仕事のサボり方で、「何もしないこと」にかけては、誰にも負けない地位を確立していた。
目下の悩みは、もうすぐ行われる麗妃の誕生日の宴だった。
後宮で最も権勢を誇る彼女の宴となれば、下級女官である雪蘭も、何らかの雑用を押し付けられるに違いない。
(……騒がしくなるのは、面倒だ)
雪蘭は、宴の日、完璧な昼寝場所として、後宮の最も奥まった場所にある古い書庫の裏庭に目星をつけていた。
あそこなら、誰も来ないだろう。
◆◇◆
宴の当日。
雪蘭の予想通り、後宮は朝から浮き足立ち、誰もが慌ただしく動き回っていた。
その喧騒を背に、雪蘭はそっと後宮を抜け出し、目当ての書庫裏の庭園へと向かう。
打ち捨てられた庭園は、心地よい静寂と木陰を提供してくれる、まさに天国のような場所だった。
(……よし。これで、日が暮れるまでは安泰だ)
雪蘭が、ちょうど良い木陰を見つけ、猫のように丸まろうとした、その時だった。
きゃあああああ!
鼓膜を突き刺すような、甲高い悲鳴。
続いて、人が折り重なって倒れるような、派手な物音。
見ると、庭園のあずまやで茶会を開いていたらしい一団が、大混乱に陥っていた。
中心には、豪華な衣装をまとった絶世の美女──麗妃が、口から泡を吹いて倒れている。
毒だ。毒殺未遂だ。
(……最悪だ)
雪蘭は、即座に踵を返そうとした。
だが、悲鳴を聞きつけた衛兵や女官たちが、四方八方から駆けつけてくる。
逃げ道は、完全に塞がれていた。
面倒事に巻き込まれるのは、ごめんだった。
雪蘭は、気配を殺し、茂みの陰から、ただ騒ぎが収まるのを待つことにした。
「麗妃様!」
「誰か侍医を呼べ!」
「毒だ、誰が食事に毒を!?」
侍医が駆けつけ、役人たちが怒号を飛ばす。
現場は、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
雪蘭は、早くこの場を立ち去りたい一心で、遠巻きに様子を窺っていた。
だが、その卓越した記憶力と観察眼が、意図せずして情報を拾い集めてしまう。
(……麗妃の症状は、嘔吐と呼吸困難。唇は青紫。即効性の神経毒か? だが、銀の匙に反応はなかった。食事に毒は入っていない)
(……となると、別の経路か。彼女が口にしたのは、南方の果物と、北方の乾燥させた花茶。それと、卓の上で焚かれている、あの香…)
(……待て。あの花茶の茶葉と、あの香の匂い。確か、薬学の書に書いてあった。それぞれは無害だが、二つが混ざり合い、熱が加わることで、ごく微量ながら呼吸を麻痺させる毒気を発する、と)
そこまで思考が至った瞬間、雪蘭の脳内で、全ての情報が一本の線で繋がった。
これは、事故ではない。
極めて巧妙に仕組まれた、計画殺人だ。
(……なるほど。だが、そんなことはどうでもいい)
雪蘭にとって大事なのは、この騒ぎが長引き、自分の貴重な昼寝時間が削られているという事実だけだ。
早く、誰かが真相に気づいて、この場を収めてくれないものか。
しかし、侍医も役人も、食事に毒が入っていないと分かった途端、完全に行き詰まってしまった。
これでは、日が暮れてしまう。
苛立ちが、最高潮に達した、その時。
雪蘭のすぐ近くを、一人の若い宦官が、慌てた様子で通りかかった。
雪蘭は、ほとんど無意識に、その宦官の袖を、くい、と引いた。
「……あの」
「な、なんだね、君は!」
「……あの卓の上にある、香炉…」
雪蘭は、蚊の鳴くような、ぼそぼそとした声で呟いた。
「……それを、調べてみれば、よろしいかと……」
それが、限界だった。
一刻も早く、ここから立ち去りたい。
雪蘭はそれだけ言うと、身を翻し、今度こそ騒ぎの中心から遠ざかろうとした。
だが、その若い宦官は、雪蘭の言葉を聞き逃さなかった。
彼は、侍医たちに何かを命じると、鋭い視線で雪蘭の後ろ姿を射抜いていた。
やがて、役人の一人が、香炉の中から、特殊な薬草が仕込まれているのを発見する。
そして、麗妃に茶を淹れたのが、彼女と寵愛を争っていた別の妃であったことが判明するのに、時間はかからなかった。
騒ぎが収束していくのを遠目に確認し、雪蘭は(ようやく昼寝ができる)と安堵の息を吐いた。
そして、今度こそ静かな場所へ向かおうとした、その腕を、誰かが、ぐい、と掴んだ。
「待て」
振り返ると、そこに立っていたのは、先程の若い宦官だった。
しかし、その瞳は、先程の慌てふためいた宦官のものとは、まるで違っていた。
底の知れない、深く、そして、獲物を見つけた肉食獣のような、愉悦に満ちた光。
その威圧感に、雪蘭は、目の前の男の正体を悟る。
皇帝、暁 飛燕。
「面白い」
飛燕は、楽しそうに、唇の端を吊り上げた。
「あの混乱の中、侍医も宿衛も気づかなかった真相を、ただ一人、見抜いた女官がいたとはな。実に、面白い玩具を見つけた」
玩具、という言葉に、雪蘭の眉が、ぴくりと動いた。
(……人生、最大の面倒事に、巻き込まれた)
「名を、申せ」
龍の玉座に座る、若き皇帝が、命じる。
雪蘭は、これから始まるであろう、平穏とは無縁の日々を思い、誰にも聞こえないくらい、深くて長いため息を、心の中で、ついた。
穏やかな昼寝は、もう、二度と戻ってこないかもしれない。




