第十二話:紅玉の涙
『月影』。
その、呪いのような響きが、李 雪蘭の耳の奥で木霊した。
凍り付いた、とはまさにこのことであろう。
全身の血が逆流し、手足の先から急速に温度が失われていく。
何年も、分厚い氷の下に封じ込めてきた過去。
その氷を、目の前の美しい龍は、いとも容易く打ち砕いてみせたのだ。
逃げ道を探す。
否定しろ。
お前は李 雪蘭だと、言い張るのだ。
だが喉が凍り付いて、声が出ない。
何より、目の前の暁 飛燕の瞳が、雪蘭のすべての逃げ道を塞いでいた。
それはもはや疑いなどではない。
長年探し求めていた唯一無二の宝物を、ついにその手にした、確信と歓喜の光だった。
「……はは」
飛燕は雪蘭の、その絶望に染まった顔を見て、心底楽しそうに笑った。
しかし彼は、決して雪蘭を追い詰めはしなかった。
勝者の余裕。
あるいは、手に入れた玩具を壊さぬための配慮か。
彼は雪蘭に、甘美な、そして残酷な「選択肢」を与えた。
「お前には、二つの道があるぞ、月影」
彼は、その名を慈しむように繰り返す。
「一つは、これからも『李 雪蘭』として生きる道だ。
朕は誰にも、お前の正体を明かしはせぬ。
お前はこれからも、あの書庫室で好きなだけ昼寝をしていればよい。
だが、朕の『相談役』として、朕が差し出すすべての謎を解き続けろ。
朕の退屈しのぎのためにな」
それは金色の鳥籠。
安全は保障される。
だが自由はない。
永遠に龍の気まぐれに付き合わされる、ペットとしての生。
「そして、もう一つの道は」
飛燕の声のトーンが、少しだけ低くなる。
「再び『月影』として生きる道だ。
だが、罪人としてではない。
この朕が、唯一の軍師として。
お前には権力を与えよう。
金も、兵も、思いのままだ。
この帝国全土という広大な盤上を、お前の新たな遊戯盤としてくれてやる」
それは栄光の玉座。
だがその玉座は、血と陰謀と、そして雪蘭が何よりも嫌った争いの匂いに満ちていた。
どちらの道も、雪蘭にとっては地獄であった。
彼女が唯一望んだ道。
誰にも知られず、誰にも干渉されず、ただ猫のように陽だまりで眠り続けるという、ささやかな道はもうどこにも存在しなかった。
雪蘭は俯いたまま、答えない。
それが彼女にできる、最後の、そして最も無力な抵抗だった。
『月影』という名を、決して認めない。
私は、ただの李 雪蘭だと、その沈黙で訴え続ける。
「……わたくしは、李 雪蘭と申します。
陛下が何を仰っているのか、わかりません」
雪蘭は、ようやく声を絞り出した。
「……疲れました。
お暇をいただいても、よろしいでしょうか。
昼寝をしないと、持病の眠り病が……」
その哀れなほどの抵抗が、飛燕をさらに喜ばせた。
「良いだろう、李 雪蘭」
彼はその名を、ことさらにゆっくりと味わうように言った。
「ならば、『李 雪蘭』として、これからも朕の謎を解き続けるがよい」
彼は雪蘭を下がらせた。
もはや追い詰める必要はない。
彼は猫の首輪を、その手に握ったのだ。
いつでもその鎖を引けるという、絶対的な優位性を手に入れたのだから。
◆◇◆
よろめくような足取りで、雪蘭は自分の書庫室へと戻った。
部屋では、麗華が心配そうな顔で待っていた。
雪蘭の、その死人のような顔色を見て、彼女はただならぬことが起きたのだと悟った。
「雪蘭!
どうしたのだ、その顔は!
陛下に何を言われたのだ!?
まるで本物の幽霊にでも会ったような顔だぞ……」
いつもなら何か憎まれ口の一つでも叩き返す雪蘭が、しかし何も答えなかった。
ただ力なく、首を横に振るだけ。
そのあまりに弱々しい姿に、麗華は言葉を失った。
彼女の中で、雪蘭に対する疑念が確信へと変わっていく。
この女は、ただ者ではない。
自分が今まで出会った誰とも違う。
昼寝猫などではない。
これは、深い傷を負った、一匹の孤高の狼だ。
◆◇◆
一人になった書庫室で、雪蘭は寝椅子に崩れるように身を投げた。
もう、おしまいだ。
皇帝は知ってしまった。
自分のすべてを。
いつでも、彼は自分の正体を暴くことができる。
それは、滅ぼされた国の軍師である自分の確実な死を意味していた。
彼は自分を殺しも、生かしもできる。
そして望むならば、再びあの血塗られた軍師の仮面を被ることを強制することもできる。
平穏な昼寝は終わった。
『昼寝猫』は鳥籠の名前。
『月影』は呪いの名前。
雪蘭は、飛燕から与えられた故郷の書物を手に取った。
もう、過去から目を背けて逃げることは許されない。
ならば。
(……ならば)
雪蘭の瞳に、ほんのわずかな光が宿った。
(……もし、私が、この盤上の駒である運命から逃れられないのなら)
(……ただ、一方的に動かされる駒であり続けるつもりはない)
もし、皇帝のこの残酷な遊戯に付き合わなければならないのなら。
ならば私も、プレイヤーとして、この遊戯に参加するまで。
雪蘭は、おもむろに立ち上がると、書架から一冊の真新しい巻物を取り出した。
それは詩集でも物語でもない。
この帝国の全ての州と街道が記された、巨大な地図だった。
彼女は、それを床一面に広げる。
その瞳には、もはや眠気も絶望もなかった。
ただ静かな、そして底冷えのするような思考の光だけが宿っていた。
それはかつて、彼女が何万という兵を動かす時に見せた光。
軍師『月影』が、再び目覚めようとしていた。
それは、国のためでも、栄光のためでもない。
ただ、いつかまた、心から安心して昼寝ができる、自分だけのささやかな居場所を、この世に確保するための。
最も絶望的で、そして最も困難な、戦いのために。




