第十一話:水面に揺れる証
皇太后との、静かなる謁見から、一週間が過ぎた。
墨華宮は、嘘のような静けさに包まれていた。
宰相は腹心の失態を受け、鳴りを潜めている。
皇太后も次の一手を、じっと見定めているようだった。
そして皇帝・暁 飛燕は、その膠着状態を、玉座からただ楽しげに眺めている。
この、宮廷の奇妙な凪の状態は、李 雪蘭にとってまたとない好機であった。
彼女はこの一週間、その職務を全力で全うしていた。
すなわち、『書庫室長』として書庫の寝椅子でひたすら眠り続ける、という重要任務を、である。
しかし、雪蘭が望んだ完全な平穏は、もはやどこにもなかった。
「謎の相談役殿は、皇帝陛下と皇太后様の双方からご寵愛を受けている」
そんな、事実とは似ても似つかぬ噂が後宮中に広まってしまったのだ。
その結果、誰も雪蘭の昼寝の邪魔をしに来なくなったのは良かった。
だが代わりに、雪蘭の書庫室には様々な高官や妃たちから、おびただしい数の「贈り物」が届けられるようになった。
高級な茶葉、珍しい菓子、美しい布地、きらびやかな宝飾品。
皆、この謎めいた新興勢力に恩を売っておこうと必死なのだ。
「……面倒だ」
贈り物の山を前に、雪蘭は心底うんざりしていた。
麗華が一つ一つ、毒が盛られていないか念入りに調べてくれるのだが、その作業を手伝うことさえ面倒だった。
そんなある日。
飛燕から雪蘭の元へ召集がかかった。
だが、それは事件の調査依頼ではなかった。
「少し、散歩に付き合え」
飛燕はそう言うと、雪蘭をあの皇帝の特別な許可がなければ誰も入れない、『帝国古文書庫』へと連れて行った。
そこは帝国の歴史の全てが眠る、巨大な知の迷宮。
普通の学者であれば一生を過ごしても飽きないであろう宝の山。
だが、雪蘭にとっては、ただの新しい昼寝スポット候補でしかなかった。
◆◇◆
「ここが、面白い」
飛燕は楽しそうに、古文書庫の最も奥まった一角へと雪蘭を導いた。
そこには、対外戦争に関する軍事記録だけが集められていた。
彼は一冊の、ひときわ分厚い記録書を取り出す。
その表紙には、『月国征伐記』と記されていた。
雪蘭の心臓が、かすかに軋む音を立てた。
「朕の父、先帝の御代、最も手こずった戦だ」
飛燕は、雪蘭の反応を楽しむように語り始めた。
「我が帝国軍は、月の国の十倍の兵力を擁していた。
だが戦は、三年の長きに及んだ。
全ては、ただ一人の天才軍師のせいだ。
その名を、『月影』」
飛燕はそこで言葉を切ると、雪蘭の顔を覗き込んだ。
「……雪蘭。お前は、この『月影』の戦術をどう思う?」
それは、あまりに残酷な問いかけだった。
かつて自分が命を懸けて指揮した戦いを、国を滅ぼした征服者の視点から分析しろというのだ。
飛燕の、悪趣味で、そして執拗な心理戦であった。
雪蘭は、全ての感情を能面の奥に押し殺した。
彼女は記録書に視線を落とすと、まるで他人事のように淡々と語り始めた。
「……帝国軍の補給線が伸びきっています。
月影はそこを突き、局地的な奇襲戦法で敵の兵站を断つことに集中しています。
常套手段ですが、的確です」
「……この戦いでは、天候を完璧に読んでいます。
雨季で川が増水するのを予測し、予め築いておいた堰を利用して帝国軍の陣地を水浸しにした。
見事な策略です」
彼女の分析は、どこまでも冷静で的確で、そして一切の感情がこもっていなかった。
『月影』という伝説の軍師を、まるで歴史上のただの記号であるかのように語っていた。
飛燕は、そんな彼女の言葉を黙って聞いていた。
その瞳は、彼女の僅かな表情の変化、声の揺らぎ、その全てを見逃すまいと探るように細められている。
彼は、ただ疑いを確信に変えたいだけではない。
彼は、知りたいのだ。
かつて自分を完膚なきまでに打ち破ったその知性の本質を。
その思考の源泉を。
そして、その全てを自分のものにしたいと、渇望していた。
やがて、二人は最後の決戦の記録へとたどり着いた。
月の国の王都が陥落した、その日の記録。
飛燕が記録書のある一点を指差した。
「……ここだ。
帝国軍の猛攻に、月の国の左翼の陣形が一瞬、乱れた。
絶好の好機だったはずだ。
だが、『月影』は、なぜか反撃に出なかった。
なぜだと思う、雪蘭?
それが、彼女の唯一の勝機だったはずだ」
その問いに、雪蘭の思考が一瞬、現在と過去の区別を失った。
彼女の脳裏に、あの日の怒号と悲鳴が蘇る。
血と土煙の匂い。
そして、絶望的な伝令の声。
雪蘭は、無意識に呟いていた。
「……なぜなら」
「……矢が、尽きていたからだ。
そして、援軍の到着が丸一日遅れていたから……我々の」
──我々の。
その言葉が、埃っぽい古文書庫の静寂に落ちた。
雪蘭は、はっと我に返り、凍り付いた。
しまった、と思ったが、もう遅い。
「……あ、いえ。記録によれば、彼らの矢が尽きていたと推測されますので……」
必死に取り繕う。
だが、飛燕はその間違いを咎めはしなかった。
彼は、ただゆっくりと笑みを浮かべた。
それは、全ての謎が解けた探求者の笑み。
そして、獲物を完全に追い詰めた狩人の、恐ろしい笑みだった。
彼は確信したのだ。
飛燕は、真っ青になって立ち尽くす雪蘭の元へ、ゆっくりと歩み寄る。
そして、その耳元で、まるで秘密を分かち合うかのように囁いた。
「……遊戯は、一手ごとに面白くなっていくな」
「──そうだろう? …………月影」
その名を、彼はまるで長年探し求めていた宝物の名を確かめるかのように、慈しむように、そして所有権を主張するかのように呼んだ。
雪蘭の、かろうじて保っていた平穏という名の薄氷は、今、大きな音を立てて、砕け散った。




