第十話:軍靴、静かに近づく
宰相の腹心が、薬局の裏で捕らえられた。
その男は、拷問にも決して宰相の名を口にすることはなかった。
だが、彼の捕縛は、それ自体が巨大な意味を持っていた。
宰相派の者たちは、皇帝が自分たちの陰謀に気づいているという事実を、思い知らされたのだ。
大傅様を狙う動きは、ぴたりと止んだ。
「見事であったな、雪蘭」
麒麟堂で、皇帝・暁 飛燕は上機嫌で、雪蘭を褒め称えた。
隣に立つ王 麗華も、誇らしげな顔をしている。
だが、雪蘭はただ眠そうな顔で、床の木目を見つめているだけだった。
(……これで、また昼寝ができる)
彼女の興味は、すでにそこにしかなかった。
「その功績に、褒美をやろう」
飛燕は懐から、一枚の黒檀で作られた小さな令牌を取り出した。
「それは、朕の特別な許可を示すものだ。
それがあれば、お前はこの宮殿のいかなる場所へも立ち入ることができる。
たとえ高官でさえ禁じられている、帝国の古文書庫へも、な」
それは雪蘭の類稀なる才能を認めた、皇帝からの最大の信頼の証。
だが同時に、彼女にさらなる知識という“武器”を与え、この盤上遊戯をより面白くするための、飛燕の巧妙な一手でもあった。
「それから、麗華」
飛燕は向き直り、厳かに命じた。
「本日より、お前を李 雪蘭付きの専属護衛官とする。
四六時中、彼女の側に控え、その身を守るのだ。これは勅命である」
「はっ!」
麗華は力強く頭を垂れた。
それは雪蘭を守るという大義名分のもとに、二人の関係を公式なものとして縛り付ける、という意味を持っていた。
(……つまり、監視役が強化された、ということか)
雪蘭は心の内で、深いため息をついた。
◆◇◆
宰相の陰謀が未然に防がれたという知らせは、すぐにもう一方の派閥の長にも届けられた。
皇帝の母、皇太后。
彼女はこの国の影の支配者として、何十年も君臨してきた老獪な政治家であった。
飛燕がまだ赤子であった頃から、垂簾聴政の形でこの帝国を実質的に動かしてきたのだ。
彼女は、宰相の企みが失敗に終わったことには満足した。
だが同時に、強い疑念を抱いていた。
一体、誰があの老獪な宰相の尻尾を掴んだのか。
そして、その功績によって息子である皇帝の隣に、彗星の如く現れたという謎の女官は何者なのか。
それは、自分以外の何者かが皇帝に影響力を持ち始めたということを意味していた。
「……面白い。呼んで、みなさい」
皇太后の静かな、しかし逆らうことを許さないその一言で、雪蘭の運命はまたしても、面倒な方向へと転がっていく。
その日の午後。
雪蘭の元へ、皇太后の侍女頭がやってきた。
「李 雪蘭様。皇太后様が、お茶の相手を求めておられます」
それは、誘いなどではない。命令だ。
麗華は雪蘭の隣で、緊張に顔を強張らせた。
「雪蘭、気をつけろ。
皇太后様は陛下とは違う。あの方の周りには、数え切れぬほどの策謀と血が流れている」
(……知っている。だからこそ、行きたくないのだ)
雪蘭は腹を括り、重い腰を上げた。
◆◇◆
皇太后の住まう『慈寧宮』は、飛燕の『麒麟堂』とは対照的な場所だった。
華美な装飾は一切なく、ただ歴史の重みを感じさせる質実剛健な調度品だけが静かに置かれている。
部屋には古い書物と墨の匂いが満ちていた。
雪蘭と麗華が部屋に通されると、皇太后は一人、碁盤に向かっていた。
彼女は、その優美な顔立ちに年相応の皺を刻みながらも、その瞳だけは少女のように鋭く澄み渡っていた。
「……そなたが、李 雪蘭か」
皇太后は雪蘭を一瞥すると、碁石を一つ、盤上に置いた。
彼女は事件のことには一切触れなかった。
ただ雪蘭の生まれや家族について、淡々と、しかし探るように質問を重ねていく。
雪蘭はいつものように、のらりくらりと要領の得ない答えを繰り返した。
ただの、しがない田舎役人の娘で、学もなく、運が良かっただけでございます、と。
だが、皇太后はそんな見え透いた嘘に騙されるような女ではなかった。
彼女はふと、碁盤を指差した。
「……白が黒に完全に囲まれておる。
そなたなら、どうする?
どうすれば、この白は、生き延びられる?」
その碁盤は、今の宮廷の勢力図そのものだった。
黒石が宰相の派閥。
そして完全に包囲され、絶体絶命の白石が皇太后の派閥。
それは、雪蘭の知性を試す、皇太后からの静かなる挑戦状であった。
雪蘭は碁盤を見つめた。
その瞬間、彼女の瞳に、軍師『月影』の光が一瞬宿った。
盤上の全ての石の流れ、力の均衡、そして隠された弱点。
全てが、一瞬で見えた。
黒の包囲網を中央から鮮やかに突破する、起死回生の一手。
それを彼女は、知っていた。
だが、それをここで見せるわけにはいかない。
雪蘭はゆっくりと息を吐くと、盤上のある一点を指差した。
それは一見、何の意味も持たない、ただの空点だった。
「……申し訳ございません、皇太后様。
わたくしは、碁の打ち方を知りませぬ」
雪蘭はそう言うと、か細い声で続けた。
「……でも、もし、わたくしが石を一つだけ置くことを許されるのなら……ここに置きます。
なんだか、静かな場所だから……。
昼寝をするのに、ちょうど良さそうですから」
その、あまりに間の抜けた答えに、麗華は隣で眩暈を起こしそうになった。
皇太后は、雪蘭が指差したその一点を、ただ静かに見つめていた。
それは素人目には愚かとしか思えない一手だった。
しかし。
次の瞬間、皇太后の鋭い瞳がカッと見開かれた。
その“愚かな一手”。
それは、盤面を深く読み込まなければ決して気づくことのできない、神業のような一着であった。
それは、黒の包囲を破るための攻撃の一手ではない。
白の陣地の中に確実に二つの“眼”を作り、決して殺されることのない“生き”の形を作り出す、絶対的な“防御”の一手。
それは、“勝利”を目指す手ではなく、“生存”を確定させるための一手だった。
「……そうか」
皇太后はぽつりと呟くと、初めて雪蘭の顔を真正面から見据えた。
その瞳には、もはや侮りの色はない。
深い理解と、そして底知れぬ警戒の色が宿っていた。
「……下がって、よい」
その静かな声に、雪蘭と麗華は一礼し、部屋を後にした。
一人、残された皇太后は、碁盤の上で静かに、しかし圧倒的な存在感を放つその一点を見つめ続けていた。
昼寝猫。
その仮面の下に隠された、本当の顔。
皇太后は今、その恐るべき正体の一端を、確かに垣間見たのだ。
宮廷の静かなる戦いは、今、新たなる、そしてより危険な局面へと、その駒を進めたのであった。




