第零話:白衣の亡国人
帝都の中心、白玉の階段を上った先に、墨華宮はある。
高く、静かに、ひっそりと。
華やかな中庭もなければ、権力の気配も遠い。
文官の通る廊下からも外れ、忘れ去られたようにひとつの門があるのみ。
そこに、ひとりの女が配属されることになった。
名は――李 雪蘭。
かつて滅びた“月の国”の、軍師であり、筆録官であり……そして、敗者。
帝国に服属した彼女は、一切の肩書を剥奪され、名ばかりの“官”として、書庫室の管理を命じられた。
それは、宮廷の誰にとっても意味のない“事務”だった。
だが、宰相だけは違った。
「猫は、光の中では働かぬ。だが、書の山に埋もれた場所ならば、牙を研ぐだろう」
彼のその言葉を、誰がどう受け取ったかはわからない。
だが事実、李 雪蘭はその日から、墨華宮の片隅で“眠る者”となった。
◆◇◆
「……あの人が、あの雪蘭?」
小声で交わされる噂の中、雪蘭はまるでそれらを聞こえていないかのように、ただ静かに歩いていた。
白い文官衣。
飾りのない腰帯。
脚元には擦り切れた履物。
宮廷の煌びやかな装束とは程遠いその姿に、誰もが戸惑い、そして目を逸らした。
「どこか……影があるわね」
「負けた国の人間よ。そりゃそうでしょ」
「でも、あの戦……あの軍略は、彼女が敷いたって噂よ」
「そんなの、帝にとってはただの裏切り者よ」
気配を消すように進むその背に、まるで風のように言葉が突き刺さる。
雪蘭は、ただ前だけを見ていた。
(――記録の風景と、実際の風は、随分と違う)
月の国では、記録とは“礼”だった。
言葉を紡ぐことは、人を敬うことと同義。
だが、ここでは違う。
記録は“管理”であり、“裁き”であり、“責任”だった。
「李 雪蘭殿、こちらです」
案内の役人が戸を開ける。
木の香の残る、古い建物。
書庫室と呼ぶには広すぎ、宮と呼ぶには地味すぎる空間。
棚は積もり、書は乱れ、埃が舞う。
けれど、そのすべてが、雪蘭の目には美しく映った。
「ここが……墨華宮」
呟いた声は、微かに震えていた。
感情ではない。
記憶だった。
(似ている。月の禁書院に……よく似ている)
棚の高さ。
筆架の並び。
開いた窓から吹き込む風の流れ。
(ああ、これは……“書の国”の、亡霊)
彼女はゆっくりと奥へ進み、一冊の書を手に取った。
指先に触れた紙の質。
微かに残る墨の香。
「ここで、眠れるでしょうか」
誰にともなく囁いたその声に、案内の役人が怪訝な顔をする。
「……はい?」
「いえ、なんでもありません。ありがとうございます。下がっていただいて構いません」
「では、御用があれば……」
扉が閉じられる音がして、部屋に静けさが戻る。
雪蘭は書を手に、最も陽のよく当たる窓辺の机に腰掛けた。
そこには、日焼けした布が敷かれていた。
誰かが、以前使っていたのだろうか。
あるいは、誰も使わなかったのかもしれない。
「……さて」
墨壺に水を落とし、筆先を整える。
帳面を開き、最初の一字を記す。
李 雪蘭は、帝国に敗れた。
だが、筆を折ったわけではない。
ここに生き、ここで眠り、ここで書き残す。
“歴史”の名の下に、すべてを。
それが、この宮に棲む“昼寝猫”の始まりだった。




