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死なれては困ります、ロザリア様。

「……お待たせいたしました、エルナ様」


ダンスホールの重厚な扉を開けると、そこには一人の女性が立っていた。

華美な装飾を一切排した、動きやすさと凛とした品格を両立させたドレスを纏う女性。彼女こそが、厳しい指導で知られるダンス講師、エルナだ。


「遅かったですね、ロザリア様。時間は有限だということを忘れたのかしら」


エルナが冷ややかな視線を向けてくる。ひえぇ〜〜〜!怖いよ嫌だよ助けてユリウス〜〜!!!


「申し訳ありません。少々……身支度に手間取りまして」

「……そう。ならいいわ。始めましょう」


エルナ様が静かに一歩踏み出し、私の目の前で止まる。

その鋭い眼差しに見据えられるだけで、背筋が凍りつきそうだ。


「……音楽を。ユリウス」


背後に控えていたユリウスが、無言で優雅に一礼し、壁際に置かれた蓄音機へと歩み寄る。

その次の瞬間、重厚なワルツの旋律がホールに響き始めた。


「……いいですか、ロザリア様。ダンスは社交界という戦場における、唯一の公式な武器です。その抜けたような顔、締まりのない指先……。あなたは敵に『どうぞ私を刺してください』と背中を見せているのと同じですよ」

「ひっ、は、はい……っ!」


エルナ様の声には、一切の慈悲がない。

彼女の手が私の腰に添えられた瞬間、まるで鉄の万力で固定されたかのような安定感と、逃げ場のない圧迫感に襲われる。


「背筋! 顎を引いて! 視線は泳がせない!」

「ううっ、足が……!」

「足が何ですか? 動いているうちは付いている証拠です。ほら、ワルツの二歩目が甘いわ!」


彼女は私を容赦なく振り回す。

一周目、私はこのレッスンが嫌で嫌でたまらず、適当に理由をつけては逃げ出していた。そのせいで、夜会ではいつもエミリアの完璧なダンスの引き立て役に甘んじていたのだ。


(そうよ……今思えば、あの頃から私はエミリアに負けていたのね)


悔しさがこみ上げ、私は必死にエルナ様のステップに食らいつく。

呼吸が荒くなり、ふくらはぎが悲鳴を上げ始める。けれど、エルナ様は眉ひとつ動かさない。


「あら、少しはマシな目つきになりましたね。ですが、まだ産まれたての子鹿の域を出ません。あと十周、同じステップを繰り返します」

「じっ、十周!? 死んじゃうわよ!」

「死ぬ気で踊りなさい。死ぬより屈辱を味わう方が、よほど辛いものですから」


彼女の何気ない、けれど鋭い一言が胸に突き刺さる。……そう、私はその屈辱を知っている。


(負けない。二周目の私は、こんなところでおじけづいたりしないわ!)


私は必死に、ドレスの重さを忘れてステップを踏み続ける。

その様子を壁際で見ていたユリウスが、ふっと口角を上げ、小声で「……おや、珍しく根性を見せますね」と呟いたのが聞こえて、私はさらにムキになって足を動かした。


「……そこまで。今日はここまでにしましょう」


エルナ様の冷徹な合図とともに音楽が止まった瞬間、私の膝は冗談抜きで砕け散った。


「ひゃ、ふぎゃ……っ!」


ドレスの裾を派手に散らして、私は床にへたり込む。呼吸は激しく乱れ、心臓は早鐘を打っている。額からは汗が流れ、せっかくユリウスに整えてもらった髪も、今や見る影もないだろう。


「あら。最後は小鹿ではなく、打ち上げられた魚のようですね。……まぁ、一度も逃げ出さなかった根性だけは評価して差し上げますわ。ご機嫌よう、ロザリア様」


エルナ様は汗ひとつかいていない涼しい顔で、優雅に一礼して去っていった。……あの人、本当に人間なのかしら。


「……お疲れ様でございました。『小鹿』様。いえ、今は『魚』様でしたか?」


頭上から降ってきたのは、聞き馴染みのある、そして最高に神経を逆撫でする声。

見上げれば、ユリウスが銀のトレイに冷えた水を用意して、見下ろすように立っていた。


「……うる、さいわよ。……水、ちょうだい……」

「どうぞ、一気に飲んで喉を詰まらせないよう、お気をつけて」


彼はそう言いながら、片膝をついて私と同じ目線に腰を下ろした。

差し出されたグラスを奪い取るようにして水を飲み干すと、生き返るような心地がした。


「ぷはぁ……! 死ぬかと思ったわ……」

「死なれては困ります。たかだか一時間のダンスで命を落とされては、私としても寝覚めが悪い。」

「あんたって本当に……可愛げがないわね」


文句を言い返そうとして、ふと気づく。

膝をついて私を介抱する彼の距離が、またしても、近すぎるのだ!


「汗を拭います。動かないでください」


ユリウスが懐から取り出した真っ白なハンカチ。それが私の額に触れた瞬間、さっきまでの疲労が吹き飛ぶほど、また心臓が大きく跳ねた。

彼の長い指が、前髪を優しくかき分ける。至近距離にある彼の瞳は、いつもの嘲笑を潜め、どこか真剣に、私の顔をじっと見つめていた。


(……な、なによ。なんなのよ、もう!)


一周目の彼も、こうして私を支えてくれていた。

けれど、あの時はそれが「当たり前」だと思っていた。彼が私を守って死ぬ、その瞬間まで。


「……ユリウス」

「何でしょう」

「……私がどんなに無様でも、ずっと私のそばにいなさいよね。命令よ」


我ながら支離滅裂なことを言っている自覚はある。

けれど、彼がハンカチを動かす手を一瞬だけ止めたのを、私は見逃さなかった。


「……承知いたしました。無様な羊の世話は、慣れていますから」

「まだそれ引っ張るの!?」


彼はまた、いつものように意地悪く微笑んだ。

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